スノードロップに纏わる話を知っているか?

伝説によれば

天使はイブを慰めるために

雪をこの花に変えたらしいんだ

他にも

ケルマが死んだ恋人に

この花を手向けると

彼の肉体は雪の雫になったそうだ

だからスノードロップを贈ることは

「死んだあなたの姿を見たい」

という意味を表すこともあるらしい

俺は君のスノードロップになりたいんだ

時には希望に

時に慰め

そして君に穢れのないまま

誰かに死を運ぶことさえしたいんだ

四月、河川敷のベンチ

君の赤いリボンだけが

花曇りの

桜さえも灰色に染まった世界で

鮮やかに色づいていた

水面からひとひらの桜の花びらを

掬い上げた小さな手

大きくて光沢のある黒い瞳

髪は黒檀の黒

柔らかそうなその愛おしい頬

その全てに触れたいと思った

下流の大きな橋架

その手すりに体を預けながら

俺はただ彼女の姿を見ていた

彼女は何をするでもなくそこにいた

歳は10歳くらいだろうか

幼いが凛とした雰囲気を纏っている

きっと美雪も10年したらあんな風だろう

川に流れる桜の花びらを掬っては

それを千切って

河川敷の砂利の上に蒔いている

どうやら誰かを待っているらしく

時たま上流の方をじっと見つめている

俺は食い逃げをしたことも

家に帰れないことも忘れて

この見知らぬ街の橋の上で

少女を眺める不審な男だった

ほとんど知ってる道しか通らなかったのに

一本、道を違えただけで

まるで別の国に来たかのようだ

そしてそれはまるで

俺の人生のようではないか

なんて考えが頭をよぎって鼻で笑う

遠くにはまた晴れ間が見え始め

天使の梯子が降りている

見知った都会の地とは違い

背の低い建物が多いせいか

ずっと遠くまで視界が広がっているし

空気こそ淀んでいるが

空はとても広かった

所狭しとビルの立った都心とは

それだけでもえらい違いだな

なんて柄にもなく空を見上げて思う

そういえば昔はよく空を眺めていたなあ

「ほら見て。虹だよ。」

記憶の中でそんなふうに無邪気なのは

紛れもない俺の母親だった

母は六年前に死んだ

俺が大学四年のときだ

その時も父は何もしなかったっけ

葬式は俺と母方にばあちゃんとで仕切った

白い棺桶の中に花を詰めた

あの日も今日みたいな曖昧な空模様だった

そんなような気がする

花蒔きの少女は痺れを切らしたのか

キックボードを持ち上げて

石の階段をせっせと上ると

下流の方へとまた地面を蹴っていった

俺はそれを追いかけるのだった

そして辿り着いたのは公園だ

外縁は背の高い木で覆われ

中の様子を隠すようだった

真ん中に大きな噴水があって

その周りを遊具が固めている

なかなか大きくて品のある公園だ

街路灯のデザインなんかも凝っている

少女はベンチに座って足を揺らしていた

俺は話しかけることにした

警戒されないよう

まずはボサボサになった髪を整え

伸びすぎたところをとりあえず耳にかけた

俺は彼女の座っているベンチの

その隣のベンチに座って

頭を低くして彼女の顔をのぞいた

「こんにちは。」

少女は驚くこともなく

こちらを向いて、こんにちはと返した

彼女はもう感動的に可愛かった

いや、可愛いなんてもんじゃなく

愛おしいとか

撫でたいとか

抱きしめたいとか

なんかそういう感じが

身体中を駆け回って

とにかく感動的で

気を抜くと泣いてしまいそうになる

「なにしてるの。」

「友達を待ってます。」

「そっか。約束してるのかな。」

「ううん。でもいつもここで遊んでるの。」

「そうなんだ。」

彼女は淀みなく話す

その表情は凛としていて

急に話しかけてきた男への不信感などは

感じられなかった

俺はすごくよからぬことを考えだした

この子が欲しい

別に傷つけるつもりはない

ただこの子となら俺は幸せになれる

この子のためなら

死ぬ気で働くことも

世間に後ろ指刺されることも

厭わないだろう

刹那、俺はこの子との将来を妄想した

その妄想が一つの終着を見つけられないまま

俺の口は勝手に動き出していた

「実はその友達からの伝言を預かってるんだ。」

出まかせで俺は続けた

「どうやら今日は別の予定があるらしい。」

「あ、そうだったんですね。」

「そうなんだ。お兄さんもよくここでお話しするんだけれど、今日は駅の方で買い物するらしい。夕方くらいまで駅前にいるらしいからそこに行けば会えるかもしれない。そう言ってたよ。」

「そうなんですか。駅まではひとりで行ったことないからなぁ。」


「じゃあ良かったらお兄さんと一緒に行こうか。ちょうど予定があったし。」

初対面の少女は少し思案する

俺は顔立ちが少し幼いせいもあって

割と子供に懐かれやすいたちではあるが

流石にいきなりは無理だったか

「でもゆうちゃんと会えるかわかんないしなあ。」

「そうだよね。じゃあ今日はやめておこうか。」

俺は一旦ここから離れようと思った

その友達がここに来られても困る

とりあえず距離を置いても

この関係をゆっくりと保てれば

また違うルートが見えるかもしれない

俺がベンチを立ち上がると

彼女も何かを決意したかのように

立ち上がって

やっぱり行きたいです、といった

俺は素直にやったと思った

これでもう少し彼女といられる

友達とも懇意にしていると嘘をついたからか

信用してくれたのかもしれない

駅まで歩きながら俺は彼女の話を聞いた

名前は篠田春で

この春から小学校5年生

お母さんと二人暮らしで

将来は漫画家かアイドルになりたい

好きな食べ物はアイスクリームで

嫌いな食べ物は納豆

学校では美化委員をしている

得意科目は国語で

テストはいつも満点だという

いろいろ話すうちにだんだん打ち解け

彼女の表情も明るくなっていった

「そうだ。駅前に画材屋さんがあるよね。少し見ていこうか。」

もっと一緒にいたいがために俺は言うと

彼女の目はキラキラと輝いた

「見たい。」

初めのよそよそしい敬語がとれて

子供らしい表情が浮かんだ

この画材屋は俺もよく通った

夏休みの課題で書いたポスター

それを見た親父が柄にもなく褒めてくれて

ここに手を引かれ

油絵の道具を一式揃えてくれた

稼ぎのある方ではなかったが

気分屋でたまに衝動的にそうやって

何かを買ってくれる父だった

それからは一度も俺の絵を

多分見てすらいないが

つい1週間前まで非正規だが

デザイナーとしてあの事務所にいられたのも

あの時の父の気まぐれのおかげだった

画材屋は独特の匂いがする

彼女が足を止めたのは

当然漫画用具のコーナーだった

何度も来たのだろうが

店に入るなり一目散にそこへ行った

道具は持ってるのかと訊ねると

いつもはシャーペンで裏紙に書いている

と答えた

俺はクレジットカードで

ケント紙とgペンと丸ペン、インクを買った

もちろん残高はオーバーしているが

画材屋のロゴがプリントされた

黄色のビニール袋に包まれたそれを

受け取った彼女の笑顔で

全てがどうでも良くなった

「どうして」と

「ありがとう」

しかいえなくなってしまった彼女に俺は

何も言わなかった

それからフードコートで遅いお昼

今度は食い逃げはせずに

ラーメンと

謎の味のアイスクリームを食べた

それから

CDショップに行って

洋服を見て

家電を見て…

そんな瞬間にたまに泣きそうになった

たまたま見つけた

旅行のパンフレット眺めながら

彼女にどこか行ってみたいところは

と訊ねると

京都と即答した

昔お父さんと旅行した思い出を

嬉しそうに話してくれた

お寺で大きな階段を上ったこと

たくさんの鳥居をみたこと

可愛い舞妓さんをみたこと

河川敷のお店で蕎麦や八つ橋を食べたこと

そんな時間を共有しながら

俺は充足感と欠乏感同時に味わって

おかしくなった

「もうそろそろ帰らないと」

彼女は残念そうに言った

晩御飯の用意をしないといけないから、

そう続けた

もうこの年で一通りの家事はこなせるらしい

彼女の母は日曜だろうが

帰るのは深夜か朝方らしい

「そうだ。晩御飯一緒に食べよう。」

少女はまた目を輝かせた

俺には願ったり叶ったりだった

ふたりで食材を買って

鍋を作った

こんなに幸せな晩御飯はいつぶりだろうか

母がいて父がいて

給料日だからとか言って

すき焼きを食べたあの日

それはもう高校生くらいの記憶だった

本当に十年くらいはこう言う食事を

していなかったんじゃないか

俺が食器を片付けている間

彼女は勉強机のライトをつけて

一生懸命新しいケント紙に絵を描いていた

横長に使われた紙の上には

俺と彼女の笑っている顔があった

拙いが特徴をよく捉えられている

デフォルメの仕方が

彼女の本棚の漫画によく似ている

きっとこれを真似て練習しているのだろう

かなり美化されて

そして朗らかに笑っている俺の顔

これが彼女の目に映る俺なのか

わからないけれど

とにかく胸がいっぱいになった

じゃあ帰るよ、と俺は言う

えー、泊まっていけばいいのに

と言う彼女の顔は

まるで叔父さんにでも甘えるような

そんな打ち解けた表情だった

僕の汚い手を

何も思わずにガッチリ掴んで

まだいいでしょーなんて言うんだ

ごめん、でももう帰らないと。

そういうと少し涙ぐみながら

またね、と彼女はいった

古いアパートの階段を降りる

わざわざ扉の外まで彼女は見送ってくれた

外はもう真っ暗で

アパートから漏れるオレンジの光が

冷えた春の夜を優しく温めているようだった

外套のポケットに手を突っ込んだまま

俺は彼女を見た

キラキラと濡れた瞳が俺の涙腺を刺激した

俺は帰ったふりをして彼女の部屋の真裏の

低い石垣の上に腰掛けて

呆然としていた

2階にある彼女の部屋から灯りが消え

俺の中でも何かが終わったような気がした

何もできずただそこに座っていた

何時間たっただろう

上弦の月は高く空に輝いていた

「あの」

突然話しかけてきたのは

黒いロングコートに身を包んだ

背の高い男だった

夜の闇で顔はよくわからない

「あ、ごめんなさい。」

なぜか反射的に謝ってしまった

男はそんなことも気にせず

「これ」

といって取手のない紙袋渡した

口を捻って閉めてあり

中には何か固くて重みのあるもの

男はそれを俺に押し付けると

闇の中へ消えてしまった

紙袋を開けると中には

何か鉄の塊が入っていた

街灯の下でそれを見てみると

それは紛れもなく

拳銃だった

それを確かめたと同時に

車の近づいてくる音が聞こえた

音はそのまま

アパートの階段を上っていく音に変わる

なんだか話し声のようなのも聞こえる

男と女の声だ

表に回ってみてみると

案の定彼女の部屋の扉を開けて

2人が入っていくそれと同時に

「はるー」

という女の声が聞こえて

そのまま扉がバタンとしまった

嫌な予感がして扉の前までいくと

中でなんだか嫌な響きをした声

「おーい、春起きろー」

「飯作ってないじゃん」

「酒も買ってきてないし」

女の声は立て続けに少女を責め立てる

「ごめんなさい。でもママ。お酒はもう飲まないって言ってた。」

小さな声が微かに扉の外にも響く

古いアパートだ

壁が薄いのだろう

隣家にもこの異様な声は聴こえているはずだ

うるせー、その怒声とともに

がしゃんと言う音が聞こえた

俺は咄嗟に扉にしがみつく

ただその扉を開けることができなかった

「は?なんだよこの落書き」

男の声だった

「やめてください」

少女は涙を押し殺しながら言った

それから聞くに堪えないやりとりが続き

もういいお前出ていけと女は言い放ち

扉が強く開いた

俺は咄嗟に扉の裏に隠れた

アパートの鉄柵にボロボロになった

寝巻き姿の少女は打ち付けられた

彼女の腕の中にはビリビリのケント紙が

抱えられていた

彼女に聞かせるように

扉はまた強くバタンと閉まった

はだけた彼女の寝巻きからは

治って時間がたった痣と

また新しい傷が混在してのぞいた

駆け寄って彼女を抱き上げると

「お兄さん。ごめん。買ってもらったペン壊しちゃった。」

といって笑った

彼女は震えていた

俺は何も言えずに首を振った

「あーあ。お母さん、最近は機嫌良かったんだけどなあ。酔っ払うと違う人みたいになっちゃうし、怖い男の人も連れてくるし。」

気丈に振る舞っているが

彼女の怯えは感じ取れた

こんな風に辛いことを隠して来たんだと

俺は勝手に想像した

俺はただ彼女を強く抱きしめた

春の夜風が冷たく強く吹きつけた

彼女の体熱かった

抱きしめている俺の方が

溶けてしまいそうなほどに

熱かった

そして何かに震えて

こんなにも熱いのに

凍えそうになっているようだった

俺は彼女を背負って近くの公園に行った

着ていた外套で彼女を包み

筒状の滑り台に中に寝かせた

「すぐに戻ってくるから、ここで待ってて。」

そういうと彼女は弱く頷きそして

疲れたのかすぐに寝息を立てた

アパートに戻ると

扉の向こうからは喘ぎ声が聞こえる

隣家まで響くほどの大きい声だった

ドアノブを捻ると扉は開いた

閉め出せば彼女は入ってこないと知っていたのか

それとも酩酊で判断できなかったのか

とにかく鍵は開いたままだった

彼女の眠っていた敷布団の上で

男と女は馬鍬っていた

俺は足音を消して近づき

驚くほど冷静に彼らに手を下した

一応さっき自分で洗った包丁も

持っていたが

お誂え向きの拳銃はやはり本物で

男と女の頭を一発ずつ

返り血が飛び散らないよう

掛け布団を咬ませたまま

しっかりと頭に銃口を接着させて

確実に撃ち抜いた

喘ぎ声の代わりに

アパート中に銃声が響き渡り

静寂の中で耳鳴りだけがうるさかった

男のポケットから車のキーを

壁にかかった女物のコートから

部屋の鍵を盗んで

部屋は閉め切って

死体はそのまま

外から部屋に鍵をかけた

驚くほど冷静だった

怒りも恐怖も罪悪感もなく

ただ俺は然るべきことを

然るべき形で再現してみせた

そして外に止まった男の車で

彼女の眠る公園へ向かった

彼女を抱き上げ車の後部座席に寝かせる

彼女は目を開けなかった

眠っているのかもしれないし

眠ったふりをしているのかもしれない

中央のシートベルトで彼女を簡単に固定し

駅前へと向かった

立体駐車場に車を止め

とりあえず朝を待った

6時ごろに春は起きた

「お兄さんおはよう。ここは?」

「駅前の駐車場だよ。とりあえず家は危ないから。」

「うん。だけど学校とか大丈夫かな。」

「心配いらないよ。これからは辛いことが沢山あるかもしれないけれど、」

「俺はずっと春の味方だから。」