1582年6月、天下布武を掲げ、難敵であった武田軍を長篠の戦いにて破り、その天下統一を思いのままに成し遂げようとしていた織田信長の前に、自らの家臣であった明智光秀が、謀反という形で立ち塞がった。 世に言う、本能寺の変である。 その晩、信長は、長男・織田信忠らとはともにおらず、わずか100余りの手勢を率い、京都の本能寺に寄宿していた。その背景には、毛利氏が統治する中国攻めを任されていた羽柴秀吉より後押しを願われていたことがあるとされていて、信長が油断していた訳ではないとは思うが、光秀にとっては、 計画を実行に移す恰好の晩であったと言われている。 光秀の軍勢、およそ1万3000が、『敵は本能寺にあり』という掛け声とともに、何一つ備えのなかった信長を襲撃したのである。多勢に無勢などというドコロの話ではない。二条御所にいた信忠でさえ、その手勢は500余りしかおらず、ほぼ同時に包囲され、 身動きすら取れずに自害して果てたという。 それでも、信長は最後まで戦った…。 鉄砲を撃ち、矢を射て、槍を懸命に振りかざした…。『もはやこれまで』と奥座敷にて敦盛を舞いながら、鬼神とまで言われた信長の最期に涙はあったのか…? 天下布武という一人の男の夢は、実直と評された男の前にあっけなく終止符を打たれてしまった。 http://theundergirl.com/