今日は、私がまだ20代の頃知り合いに成り、

その後十何年お会いしていなかったけれど、

とても気になっていた芸術家永吉 圭介さんをご紹介いたします。


永吉圭介さん

彼との再会はミクシィでした。

偶然の出会いでした。


「もしかして永吉さん?」

「もしかしてL-WINDさん?」


お互いこんな劇的な再会に奇跡を感じました。

偶然はありません、必然です。

国分さんの言葉が蘇りました。ニコニコ


十数年ぶりの、永吉さんは立派な陶芸家になっていました。


HP

永吉さんは、前衛的な作品も多数作られております。


私は、幾何学的な陶芸を拝見したのは初めてだったので、とても新鮮に感じました。


「陶芸で、こんな作品が創れるんだ。」と感心もいたしました。


永吉さんの芸術家としての未来性を感じました!!


実際に永吉さんは、他にも多数の作品を創作されております。


「もっとみてみたい」という方は、永吉さんのホームページ をご覧ください。



私は早速、「ヴィーナスカップ」を購入させていただきました。


ヴィーナスカップ

ヴィーナスが踊る様を陶芸で見事に表現されております。キラキラ


陶器なのに暖かい手触り感は、心を癒してくれます。




九州男児「永吉さん」が作られた陶芸の魅力を、ぜひ皆様も直に味わっていただきたい!!


近いうちに超有名人になりますので、

作品はお早めにご購入しておくのがよろしいかと存じます。(~o~)


こんなところでよろしいでしょうか、永吉さん?(^.^)





子供たちにせがまれて、初めて八景島シーパラダイスに出かけました。


八景島1

スナメリのショーやイルカのジャンプを堪能してきました。



八景島2


私のお気に入りは「ドルフィンファンタジー」です。

この館に住みたいとさえ思いましたラブラブ!



八景島3


いや~~癒されましたニコニコ


この次は「名古屋港水族館」へ行きたいと計画中です。



八景島4



日本でヒルティがなぜこんなに有名なのか。

これは東大の哲学の教師として、

長い間甚大なる影響を及ぼしたラファエル・フォン・ケーベル博士がヒルティを愛読し、

愛弟子たちに勧めたと言う事があって、

一高、東大の哲学の秀才たちがヒルティをよく読んだからといわれています。

一高のドイツ語の教授であった岩元禎という先生も、

ヒルティをよく教科書としてお使いになったということで、

ヒルティは明治以降の日本の思想界及び最高のインテリの間で読まねばならぬ本としての伝統を、

少なくとも1960年代までは保っていたようです。




公園


消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも

常に良い習慣を養うように心がけねば成らない。



教育の目標は、

良い心がけを持つ人間を育成するということですが、

良い心がけを持つ人間を作るには、

絶えずよく考えて、

善か悪かを選択しているということだけでは不十分で、

そうする習慣を作り上げた上に、

さらにある事柄が起こったときに、

余り考えなくても良いことができる習慣が出来上がっていることが

必要なのです。




まあ、簡単に言えば、

悪い習慣(たとえば賭け事や飲酒や喫煙など)を無くそうとするには、

大変な努力を伴い、

余り愉快にはなれませんが、

良い習慣を毎日続けることで、

悪い習慣を押しやることが可能なのではないか

ということをヒルティは言いたかったのだと思います。


それじゃ、良い習慣とは何なのか?


皆さんはどのような習慣が「良い習慣」だと思いますか?





仕事の本質


桜料亭



前もって働いていない休息は

食欲のない食事と同様で楽しみがない。


そして最も愉快で

最も報いられることが多くて

しかも一番金のかからない最高の時間の使い方は

働くことである。


カール ヒルティ


ヒルティは「まじめになって本気で打ち込めば面白くなるのが仕事の本質」であると、喝破しております。

本気で打ち込んでも面白くない仕事は「趣味の領域」なのかもしれませんね。




机

カール ヒルティは習慣と関連して、「仕事を進める方法」として思い切って着手することが大切であると言っています。


仕事の机につく

精神をそのことに向けるという決心が

根本的に最も困難なことであるので、

ひとたびペンとか、

鍬を手にとって、

最初の一線を引き、

最初の一撃を下すならば、

すでにやるべき仕事は非常に容易になっているのである。


それなのに、人はただ、仕事の準備だけして

(それはとりもなおさず、そういう人たちの怠惰のためなのであるが)

いっこうに着手しない。


そして、

いよいよどうしてもやらなければならないとなると、

時間が不足するために、

あせる感情に襲われて

精神的にも逆上するし、

肉体的にもおかしくなったりして、

仕事の差し支えに成る。


何の仕事も、あせってやった仕事はうまくいかなかったり、後から問題が出てきたりするものですね。(~_~;)




仕事の一番邪魔になるのは、主として怠惰である。

人は誰でも生まれつき怠惰なものである。

だから、肉体的に日常的な状態から脱却するためには常に努力を要するのである。


怠惰を抑えて仕事に向かわせる最も有効な手段として役立つのは、「習慣」という偉大な力である。



今日はカール ヒルティをご紹介いたします。


ヒルティは1833年2月28日、スイスのザンクト・ガレン州のヴェルデンベルグの祖父の家で生まれました。

たまたま母が祖父母の家を訪ねているときに産気づいたのです。

この年は、日本で言えば頼山陽 、西洋で言えばゲーテ が亡くなった翌年に当たります。

ヒルティの祖父と父は共に医師をしており、特に「ホメオパテー 」を行うことで有名でした。

お母さんは非常に繊細で、芸術的素養があり、宗教的な方だったようです。


ヒルティ
37歳のヒルティ。写真はB.メンタ氏所蔵。



優勝おめでとう!!


優勝

静岡県の常葉菊川高校が大垣日大を下し、優勝いたしました。

おめでとうございます!!


甲子園に何度か出てはいるのですが、なかなか1勝が出来なくて苦しい時期もありました。

そんなことで悩んでいた高校とはとても思えないほど、良い勝ちっぷりでした。


大阪桐蔭に勝った時に、「もしや」とは思いましたが、よもや優勝とは・・・・・。


選手の皆さん、彼らを陰で支えた皆様、応援した県民の皆さん、本当におめでとうございます。


逆転からの勝利という彼らの戦いぶりに、

最後まであきらめてはいけない

という大事なことを思い出させていただきました。


人生の最後の最後まであきらめてはいけない!!

「必ず逆転できる!!」

という思いが、奇跡を呼ぶのですから。


優勝2



「三保の松原」へ久しぶりに出かけました。


三保の松原2



羽衣伝説で有名な三保の松原は、平安の昔から景勝の地とされ、白砂青松にそそりたつ富士を眺めに多くの人が訪れます。
浜は天女が舞いおりたとされる羽衣の松と呼ばれる樹齢約650年の古松があり、近くの御穂神社には、羽衣の切れ端が保存されています。
また周辺の海岸にはレジャー施設が整っていて、一年を通じて楽しめます。


「三保の松原」のお話はご存知だと思いますが、知らない方のためにご紹介いたします。


昔々のおはなし。

三保の村に伯梁という漁師が住んでおりました。

ある日のこと、伯梁が浜に出かけ、浦の景色を眺めておりました。

ふと見れば、一本の松の枝に見たこともない美しい衣がかかっています。

しかし、あたりに人影はありません。

誰かの忘れ物だろうと、伯梁が衣を持ち帰ろうとしたそのとき、どこからともなく天女があらわれてこう言いました。

『それは天人の羽衣。どうそお返しください』

ところが、それを聞いて伯梁はますます大喜び。

『これは国の宝にしよう』とますます返す気配を見せません。

すると天女は『それがないと私は天に帰ることができないのです』とそう言ってしおしおと泣き始めます。

さすがに伯梁も天女を哀れに思い、こう言いました。

『では、天上の舞いを見せてくださるのならば、この衣はお返ししましょう』

天女は喜んで三保の浦の春景色の中、霓裳羽衣の曲を奏し、返してもらった羽衣を身にまとって、月世界の舞いを披露しました。

そして、ひとしきりの舞いのあと、天女は空高く、やがて天にのぼっていったといいます。

は十五夜。それは月明かりが美しい宵のことでした。



三保の松原1

「伯梁さんも、すぐに羽衣を返してやればいいのに。」

そう思った方。あなたはとてもよい方です。グッド!


でも、伝説は、いい人ばかりでは成り立たないものかもしれませんね。


「信じる力が人を変える」



天使の光臨


昨年、知り合いの子が大学受験で立て続けに5校受験し、全てに落ちました。

偏差値ランクは決して高くはないのに全滅でした。

その結果には、それなりの納得できる理由がありました。

高校三年の夏までバスケットボールに一生懸命だったからです。

(といっても同じ部活の仲間が皆落ちたわけではないのですが・・・。)

希望の大学に受かった仲間もいるのに・・・。


このようなケースの場合、たいていの親ならばこう言うに違いない。

「それみたことか。言わんこっちゃない。受験直前まで部活にうつつを抜かすからだ。自業自得だよ。」

しかし彼の両親は、彼を決してなじったり、けなしたりしなかった。


「長い人生の中で1年、2年浪人したからって、大したことはない。

一、二回のつまずきよりも、バスケットで体力を養った収穫の方がずっと大きい。

これまで部活に没頭してきた情熱を、これからの1年間、集中して勉強に打ち込めば、さらにハードルの高い大学に挑戦したって十分受かると思うよ。

お前の持ち前の頑張りが、おまえ自身を換えてくれるはずだから。

この一年がお前の人生にとって、必ずすばらしい宝物となるはずだから!!


両親が口を揃えてそう言いました。


そして今年、彼は超難関とも言える二校に挑戦し、両高とも合格しました。


私は、努力して合格を勝ち取った彼にはもちろんのこと、彼の両親にも最大の祝福の気持ちを伝えました。

両親は、彼の1年間の苦しみの日々を思い出し、涙を流してこういいました。


「私たちに出来る事は、彼を信じることだけだったから・・・・。」





今日は皆さんも良くご存知の「上杉鷹山」をご紹介させていただきます。


まずは簡単なプロフィール。

九州の小藩の次男に生まれた鷹山は「発明に優れた」子供でしたので、10歳のときに越後の名将謙信を藩祖とする上杉家(米沢藩)の養子として迎えられました。

17歳にして藩主となりましたが、当時の米沢藩は領国も領民も幕府に返そうとしたほど、財政が危機的状態でした。


上杉鷹山

そこで、鷹山は、まず江戸詰めの家臣らと心合わせて改革案を企画しました。

本国米沢へ乗り込むと家臣団を説得し、自らも大倹約。

悪戦苦闘しつつ藩士や領民たちと開拓や産業づくりに励み、ついに米沢藩のリストラに成功しました。


「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」


ただし、鷹山のリストラとは、単なる人減らしや倹約一辺倒ではありません。

田畑を拓き、産業を興し、夜逃げや間引きで激変した農村人口の回復を目指しました。

いわば彼は「企業家」であり、その精神は現代の企業家精神にも十分通じます。

童門 冬二
上杉鷹山の経営学―危機を乗り切るリーダーの条件

---次回に続く---