内村鑑三の信仰生活
画家石河光哉(いしこみつや)は明治の末年、美術学 校生徒の当時から、内村のもとに親しく出入りしてい た。この絵は、内村が没して十数年、矢内原忠雄の請 により、第二次大戦で瓦礫の原と化した東京の防空壕 の中で、往時のスケッチをもとに描かれた。 (今井館 聖書講堂蔵) |
『日本の名著・内村鑑三』(中央公論社)より
・・・・前回より続く ・・・・
やがて4年間主席を通して卒業した鑑三は、北海道開拓使に勤めました。
しかし、2年余りで退職し、アメリカに留学しました。
正統な聖書信仰のアマースト大学で学び、帰国後はキリスト教系の学校で教師となりました。
そして、一高の教師時代に有名な「不敬事件」を起こしたのです。
「教育勅語」の天皇署名への宗教的拝礼を拒んだ鑑三でしたが、それをマスコミが「一高教師の不敬」と問題にし始めたのです。
校長は鑑三に「宗教的礼拝」ではなく、「尊敬の敬礼」であるからと諭し、再度の敬礼の機会を与えて事態の収拾を図るも、鑑三は悪性の流感で意識不明に。
気づいたときには、すでに日本中が大騒ぎになっていたのです。
しかし、その”悪名”宣伝のお陰でネームバリューが上がり、その後の活動がスムーズに行くことになったのです。
災い転じて福となしたのです。
・・・・次回に続く・・・・・