昨晩に何を夕餉としたのかさえ曖昧だし自分のブログを読み返すこともしないから前回の劇評訳掲載当該記事にそれと注釈を但したかは忘れた、今の私はMr. ファーレンハイトなのでここへ片っ端から目に付いた劇評を集めるだけで特に時系列など法則性を持たない。もしかしたら後で整理するかも

 

もし時間を戻せるなら万難を排して今公演を観に行く、どうでもいいけどもアレクサンダー・ルイス氏を観た我が子が「ダダ(※パパ)」と言ってた。とはいえ、その前後に登場したギュンター・パペンデルを観てもそう言ってたから、この子の世界のすべてはパパなのかもしれない

 

かつては私の世界もそうだったんだよ、どうしてこんなに愛してるのに触れ合えないんだろう

 

このオペレッタを支配する恋愛幾何学上の最も注視すべきなのは、かつて相愛だったハンナとダニロが結婚を視野に入れるほどの愛を育みながら自尊心と過ぎ去りし日々の思い出をして二の足を踏むことだ。アレクサンダー・ルイスは、昔一度は葬り去った感情と向き合うことに臆病になる複雑な伊達男を色彩豊かに演じ、(拙訳補;この20世紀初頭に初演され黄金期時代を舞台とする作品にも関わらずに)当世である2018年の観客を優雅にも魅了する。彼のしなやかな歌声さらには自尊心や感傷また欲望や繊細さを表現する演技力は、彼にとってはお手の物である人間らしさにあふれた葛藤で以て現代の観客たちにとっつきやすかった

ルイスによる「そこで僕はマキシムへ」は大胆なアプローチでありながらもこの技巧者の掌の上ではむしろ芸術の真に迫っているばかりか、今日の我々にとって関わりの深いコミットメント恐怖症の代弁者でさえあった。冒頭の作中楽曲群は、その後に控えた数々の再現部と共に劇性および音楽性を燦然と輝かせている

 

ダニロ役を務めるアレクサンダー・ルイスは、まるで若き日のヒュー・グラントが俳優のみならず舞踏家でもありテノール歌手として生まれ変わったかのように内なる炎を燻らせて心震わせる魅力を発揮している

 

彼女と一度ならぬ恋に落ちる相手役のダニロを務めたのは(拙訳補;オペラ・オーストラリアの観客達が芸達者であることを知り尽くしているジュリー・リー・グッドウィンに加えて)もう一人の大のお気に入りだった。偉大なるバリトン歌手マイケル・ルイスの息子であるアレクサンダー・ルイスは、我々が今日のオペラに望む高い理想を見事に表現してみせたのである。大変に外貌に優れているばかりか卓越した演技力と舞踏力を備えた若者で、彼はその甘やかな高音域で素晴らしい独唱や二重唱を観客の耳に届けている

 

この英語によって上演される作品では、最も素晴らしいソプラノ歌手の筆頭格であるグッドウィンと超一流のテノール歌手であるルイスが悲運の恋人を演じたオペラ・オーストラリア製作による『ウェストサイド物語』以来の両者の再集結となる。ルイスが彼自身の本当の感情を表現することに臆病になる女たらしの独身貴族として興味のない素振りを取り繕っている間も、グッドウィンは大胆で自信に満ち溢れたハンナとしての振る舞いを見せる。グッドウィンとルイスの両者は、彼らの非の打ち所のないオペラ歌手としての歌声それ以上の才能を有している。高評価を集める舞台監督兼振付家であるグレアム・マーフィは、彼らの恐ろしいほど秀でた舞踏力を最前面に押し出しているのだ。ほぼすべての場面においてワルツにはじまりフォークダンスさらにはキャバレーまで異なる形式の舞踊が取り上げられていた。それらの中で、しかしながら、彼が彼女を抱き上げ、その腕に束の間収まっては身を翻すワルツにおいてこそ、両者の相性は殊更に輝いた

 

アレクサンダー・ルイスは、その芳醇な高音域と凛々しく威厳に満ちた佇まいに加えて自信に溢れた性的魅力で以て、かつて真剣に向き合った相手から思わぬかたちで自我を傷付けられた一人の恋する人間を説得力たっぷりに感動的かつ面白く、彼女(拙訳補;主役で相手役のジュリー・リー・グッドウィン)と足並みを揃えて演じた

どちらも超一流の歌手かつ完成された俳優さらには、この演出上欠かすことが出来ない要素に数えられるこれ以上を望むべくもない舞踏家である。ジャスティン・フレミングの機知に富みながらも精緻な意味合いを失わない英訳は、お互いが思い掛けずに再会しその恋の炎を再燃させるかつての恋人たちの人物像に予想外の奥行きをもたらして、私たち観客を魅了している

ダニロが庭園にある四阿の影に隠れて、彼自身のためであることを知りながらハンナが歌う「ヴィリヤの歌」に耳を傾ける場面は、特に忘れがたいものとなっている。(拙訳補;別段に台詞やその介在を示唆するト書きがある訳ではないはずの)その場にいる必要性を持たない彼の存在こそがしばしばハンナにとっては大きな見せ場のひとつとされるこの歌に含蓄を与えている

 

これまでに当ブログ記事内で取り上げたそれも含めて、彼の劇評でこんなに悶えさせられたのは今回がはじめてのことかも。まるで作為を持って避けている訳ではなく、これだけ連日にわたって彼について調べているのに讃辞よりほかの悪罵を読んだためしがない。そうであればこそ何故これだけの優秀作を映像化してくれなかったのだろう、そのことが惜しまれてならないよ