全国の映画館にて『オペラ座の怪人』4Kデジタルリマスター版を上演していたのは本日までだったみたいだね。私は幾度となく行こうか迷って、結局そのままになってしまいました。だって、自分にとって苦痛にさえなるかも知れない約2時間半のために足を運ぶ気になれなかったんだよね

 

もしアレクサンダー・ルイス氏が出演するオーストラリア上演版か世界ツアー版だったら、毎日にわたって足繁く通うのに。あるいは、いっそのことそのまま映画館に住み着いてしまおうか? 今なら分かるよ、こうやって人間って怪人になって行くんだな…

 

 

 

 ⚠『オペラ座の怪人』と同映画版の愛好者は激おこ必須なので読まないこと⚠ 

 

 

 

そんな訳で、在宅DVD観賞ゆえ時系列順に主な感想を列記していくことにする(※無論お酒を飲みながら観てるから後半へ進むにつれて頭がおかしいこと請け合い)

 

冒頭)

在りし日のオペラ座を彩ったシャンデリアを一目見た瞬間に、その場に居合わせたマダム・ジリーとラウルの回想を通じて徐々に画面が色付いていく演出が面白い。これは舞台上においては『ワンマンズ・ドリーム』みたいな趣向が凝らされているのかしら。そうだとすれば、もしかしてこの映画版を観てはじめて製作者の意図に対する解像度が上がった観客は多かったのだろうか。そう思い馳せるだに万感胸に迫るものがあるな…

 

えっ、まさかラウル金髪なの…? しかも長髪とか…もうおしまいだ…

 

本来サラ・ブライトマンに主演が想定されていたものを脚本家および作曲者であるアンドリュー・ロイド=ウェバー卿との離婚によって降板したことも映画公開当時大きく喧伝されていたように記憶してる。この物語上の展開にある歌姫の降板と代役の躍如を思うだに、はじめてその事実を吹聴したがった意図が見えた気がするよ

 

まさにクリスティーヌよろしく代役に抜擢されたエミー・ロッサムは、けだし当時まだ十代だったとか。この銀幕映えする愛らしい顔立ちに華奢でたおやかな体躯と類稀なる歌声の美しさは語るべくもないけれど、何処か良くも悪くも情緒性に欠ける。いわゆるA.L-ウェバー卿にとってS.ブライトマンが女神であったとすれば、彼女こそは天使だ

 

怪人が赤い薔薇を一輪だけ贈るのに対してラウルは大輪の花束なのも象徴的

 

ねえ、いつ怪人って登場するの…? 既にもう映画がはじまって半刻ほど経とうとしてるんだけど、こんなにタイトルロールなのに焦らしてくることあるんだね???

 

***

 

怪人登場あたり)

そして漸く怪人のご登場。さすがに満を持しすぎでしょ、もう出て来ないかと思ったわ。そんな訳あるか。冗談はさておき、これはミュージカル史でもほかに類を見ない遅さじゃない?

 

私の旧Twitter現Xのタイムラインを沸き返らせてる噂のジェラルド・バトラーによる怪人は反英雄として精悍な魅力とこの上ない説得力にあふれてる。彼はスコットランド出身らしく、どうりで歌唱法が同郷の俳優たちと似てる

 

だめだ、「オペラ座の地下貯水池とか絶対に匂いがしそう」から思想が離れない!

 

この人達お互いに「天使」って呼び合ってるってことだよね。つまり、こういうこと?;ファントム ⇄  クリスティーヌ ←  ラウル

 

この仮面にこの棲家の設え、そもそも自分を「オペラ座の怪人」と称するあたりの人間臭さは薬にも毒にもならないし、どんなに醜い顔だろうと一度愛した人を拒絶することはないよね。今ならそう思うけれど、もし十代の頃なら話は違って来ただろうな。そうであるにつけ、こうした作品における年齢設定は本当に大事だ

 

***

 

クリスティーヌが戻ってきました)

おい、オペラ座の怪人なのか亡霊なのかハッキリしろ。そこは絶対ブレちゃいけないとこだろ…お前ライターだったら出版社から赤入れられて戻されるやつだかんな

 

ちょっと待って、これ似てると思ったらミニー・ドライヴァー本人じゃないの。ってことは歌声は吹き替えってことだよね。「その映画界における国際的人気だけ利用して肝心の歌声は別人に担当させる」って随分と暴力的だな、それがもっとも製作陣にとってカルロッタに意図した人物像なのかも

 

ラウルの身を案じながら怪人から贈られた赤い薔薇を手に携えてるのが怪人の素顔それ以上に醜悪だろ。しかも、彼に関する回想中に曲調が甘やかなそれに変わることを受けてラウルが「それは単なる夢だよ」と断罪したくなるのも分かる

 

ちょっと待って、これパトリック・ウィルソンじゃない…? 彼に対して憧れの王子様とか美男子とかって印象がビタイチなかったから、今めっちゃ驚いてる。昔はこんな感じだったんだね

 

***

 

All I Ask of You)

まともに聴いたことがあった劇中歌はこれだけ。これは映画版ってこともあって、普通に聴きどころとして歌い上げるのじゃなく、かなり台詞に寄せてるのが分かる

 

「君もすぐにおいで」じゃあないんだよ、どんなに警戒しても性善説を信じ切ってるラウルの人当たりの良さがこういう詰めの甘いところにそこはかとなく出ちゃってるのが堪らなくいいな

 

***

 

仮面舞踏会)恐らく舞台版においてはほぼ全員が登場する中詰めの部分だろうから、いよいよ折り返し地点に来たって感じかな?

前景から時が経ち、今や2人は秘密とは言え婚約してる。同じく現Xにて「この婚約を秘密にしたいのはラウルの方だ、なぜなら貴族の子息が踊り子風情と結婚する訳はないから」と書いていた。この作品の舞台が19世紀末あたりだとするなら当世風であるとして貴賤結婚は流行していたし、何よりもクリスティーヌと同じようにラウルだって両親を亡くしているのだから幼き頃の幸せな思い出を幼馴染である彼女に見出したって何ら不思議はないんじゃないのかな

 

これは映画版ならではの演出なのだろうな;この一夜を華やかに着飾って夢を見る人々と目先にある酒で束の間憂さを晴らそうとする者たち、どんなに美しさを取り繕おうと鏡に歪んで映る姿とそもそも鏡にさえ映らない存在。誰かを愛せるのも才能で、残念ながらその事実を忘れて生きなければならない人もいる。そうした偽りでごまかすことをせずに、常にクリスティーヌだけを想い続けた悲しき怪人。誰もが仮面を感情に纏わせて紆余曲折しながら生きる中で、その恋心にまっすぐに導かれたエリック。それがこの場面で身に着けている髑髏に現れてる

 

ただ一見するだに飄々として捉えどころのない怪人にとっての、この夜が命運を賭けた大博打だったことが分かる。また、それを理解した上でクリスティーヌの恋心の在りようも。これだけでも舞台版で鳴らしたベテランを起用するよりも銀幕の世界を知り尽くした映画俳優達を重用した理由が分かるってもの

 

***

 

マダム・ジリーの告白)

はじめて公にされる怪人の過去。こうして映像で観るから猟奇性を帯びている点については認める。ただ、普通に聴覚だけに頼った情報でも憐憫に値する身の上をいまいち理解してなさそうなラウルがまじラウル。彼にとっては想像を絶する世界であり、そうであるから実力行使に訴えていい謂れはないとでも言いたげ

 

そんな彼を「何も分かっていない男」だと判断したことを私たち観客に分からせる一瞥も素晴らしいな…。もしかしてマダム・ジリーは怪人を愛していたのだろうか

 

***

 

「貴方に再び会えたら」)

個人的に嗜好する物語の類型として「幼き日々に別離して大人としての一歩を踏み出す」がある。例えば『ハムレット』や…ほかには『ライオンキング』なんかもそうだね。より広義に言えば『エフゲニー・オネーギン』もそれに当て嵌まるだろう。かつて江藤淳が『成熟と喪失』で提唱したように、ただ無条件に与えられていた親からの愛を失ってはじめて大人になるんだよ。これもそれらに並列するひとつだ

 

「彼は君の父親なんかじゃない」って、そんなことはお互いに百も承知でパチンコ屋や個室サウナ店みたいな暗黙の了解下にある様式美を交わし合ってるに過ぎないことを分からずに邪魔してくるラウルかわいいかよ

 

この決闘の場面めっちゃ胸熱じゃないか!これはAL氏出演のオーストラリア版を観るのが俄然楽しみになって参りました!!!!!!

 

突如の決着。あと一撃をラウルから怪人に与えさせなかったのは、クリスティーヌなりの「それでも音楽の天使を傷付けてほしくない」「愛する父親の墓前で人道に外れた行為をさせはしない」「幼い頃の思い出を引き受けるラウルの手を穢れさせたくない」「自分のためにこれ以上もう誰かが死ぬのは見たくない」「ただ生きてくれているだけでもいい」が複雑かつ綯い交ぜに現れた結果かもしれなかった

 

***

 

「怪人ぶっ◯す」by ラウル)

怪人に激おこラウル、「今度こそ目にもの見せてくれる」と意気込む。しかし、その表情は硬いままである。冒頭から何となくそう感じていたこととして、この若かりし婚約者たちには表情らしい表情の変化がまるで皆無だ。かたやその顔の半分が仮面に覆われているにも関わらずに怪人は非常に表情豊かな人物として描かれている

 

「仮面舞踏会の夜に側から離れたせいでお互いが危険な目に遭う」「居眠りしたせいで怪人とクリスティーヌが再び接触」「彼女による鶴の一声のせいで留目を刺すことが出来なかった」…これだけの要素が揃ってるのに、この期に及んで婚約者を囮に遣おうと思えるとは。これまで挫折や絶望とは無縁の人生だったことがこの詰めの甘さにありありと出てるラウルまじラウル

 

この劇的で甘やかな音楽は前景までのカルロッタ再登場の時にも流れてた旋律の再現部。そうであるから、この後の展望も同じように惨憺たるそれであることが明確に提示されている訳だ。一見すれば「歌姫の復活」や「幼馴染であり公私にわたるパートナーによる庇護」のような希望を覗わせて踏み躙ること自体もそこに作品中で最も含蓄を感じさせる曲調を宛てがう振る舞いも嗜虐的であると言わざるを得ない

 

***

 

"ドン・ファン")

またしても殺人、これで覚えてる限りでは3人目(見世物小屋のクズ、大道具さん、テノール歌手)。自分を殴打したり詮索しようとしたりした前半2人に関しては酌量の余地があるものの、何の落ち度もないピアンジを手に掛けたことから怪人に歯止めが利かなくなって来ているのが見て取れる。「後戻りできない場所」まで本当に来てしまった

 

これまで清廉で柔和な純白や薄紅の装いが印象的だったクリスティーヌも一転して艶やかな姿で舞台上に現れる。かつて怪人に贈られたそれを彷彿とさせる真紅の薔薇の枝葉を削いでいるのが象徴的、彼女もまた後戻りできない場所まで

 

今になって「私には出来ない」の意味を知って涙するラウルまじラウル

 

***

 

All I Ask of You再現部)

……は? なんでこの歌? ここでこれ歌ったら怪人もラウルも共倒れの死亡フラグに突入ってことになっちゃいますけども???

 

 ほら、なんかラウルも「なんか流れ変わったな?」みたいな表情してんじゃん

 

遅ればせながらクリスティーヌも。けだし怪人にしてみれば、その美貌に加えて子爵位とそれゆえ公的な谷町として権威を持ちながら決して濫用しないラウルは、それだけで嫉妬の対象となり得るかもしれないな。あらゆる意味において恋慕する相手の幼馴染にはなれないし、どう足掻いても完璧で瑕疵のない人生は歩めない。無論のこと怪人は「天才」と言及されるように、既に一流店の料理長が腕によりを掛けた主菜を味わいはじめた賓客に二流店の見習いが付け焼き刃で拵えたそれを饗したところで勝ち目がないのは十二分に分かっているはず。それでも自尊心を捨て置いてまでも一縷の望みに賭ける健気さよ…

 

はい、冒頭の伏線を回収(シャンデリア落下)。「これ劇場ではどうしてるの…?」って思いそうになったけれど疑問を抱くまでもないよね、恐らく毎公演割ってる☆ 

 

***

 

地獄へ道づれ)

怪人は再びクリスティーヌを自分の棲家へ、そしてラウル素晴らしい落下!

 

ここで漸く怪人に反旗を翻すオペラ座の面々、何処までも浮かばれないブケー、この期に及んでついて来てくれないマダム・ジリー、突然の水攻めに遭ったことによりかつてなく有能さを発揮するラウル。この場面も劇場版どうなってるんだろう? もしかしてマダム・ジリーもまた怪人と愛し合った過去があるのかも、ただ「後戻りできない場所」へ渡る橋が燃え落ちる前に引き換えしただけで

 

突如として怪人へ熱り立つクリスティーヌ。なぜか昔観た『ピアニスト』なる映画を思い出した。この展開を望んでるだろう怪人のために素気ない態度を取って、彼の方もまた嬉々として応じてるようにしか見えない。これまで緩急在りながら繰り広げ続けてきた独特な関係性の様式美とその延長線上にあるアド・リブとでも言おうか…。もしここで彼女が「貴方は恐ろしい人よ」と泣いたなら音楽の天使はやさしく慰めただろうし、あるいは「お仕置が必要ね」と高慢に振る舞えば悦んで跪いたはず。もし彼にとっての天使が100人いたとしても怪人は100通りの愛し方でそれに応えられる

 

それより何より漸くクリスティーヌの許へたどり着いたラウルのHPはもはやゼロ状態

だし、まさに文字どおり蚊帳の外で、そのことを本人が無自覚と来てる。あれだけ手を血に染めながらカルロッタを生かし続けている判断は疎かこれまで手塩に掛けて育て上げた最愛の存在を傷付けることなど有り得ないことが分からないほど、彼もまたクリスティーヌを愛してる

 

***

 

「貴方は魂が醜い」「何もそこまで言わなくたって…」)

この様式美こと愛憎劇にラウルを巻き込んだ現実を思い知らされた憤怒と悔恨にはじめて表情を歪めるクリスティーヌ、そんな彼女を観て怪人に対する愛を否応なく実感させられるラウル。この主演陣2人の演技構成が見事過ぎる、無論ジェラード・バトラーも言わずもがな

 

彼に指輪を差し出したクリスティーヌは幻影だよね。その後に響く見目麗しき婚約者同士の二重唱も。もしかしたらこれは見世物小屋で一生を終えた怪人にとっての有り得たかも知れない別次元の世界線なのかも。この作中で起きたすべては怪人の妄想によるもので、よもやクリスティーヌでさえも存在しないかも。例えば『バニラスカイ』のように

 

自分と彼女を媒介していた存在で、そのはじまりの象徴でもある鏡を粉砕する始末の付け方が泣ける。「いつかまた会おう」とか「今度会う時には友人として」のような社交辞令を知らないまま真剣に生きてきた怪人の生き様がここに現れてる

 

***

 

冒頭の続き、そして未来へ)

冒頭で競り落としたオルゴールを携えて、最愛の亡き妻の墓前へ。この行動が意味する答えこそが劇中の主題歌なんだね。「オペラ座の怪人はここに、いつも心の中に」。幼馴染同士で結婚したクリスティーヌとラウルの美談は、新たなる支配人たちの杞憂に反して歓待されたことだろう。彼らの会話の中に怪人が登場することは最早なかった、しかしながら彼女の胸臆には常に怪人がいたしラウルもそれを知りながら添い遂げた

 

最初に登場するラウルは生涯を果てまで添い遂げた相手で、最後に仮面を残して消える怪人がクリスティーヌのはじめての男であるって一考するだに興味深いな。ともすれば反対命題的であるように見えるものの、実際にはラウルはあくまで初恋の相手であって、最後まで歌姫の心に在り続けたのは怪人の方だって思うから

 

 

 

*****

 

 

 

以上、『オペラ座の怪人』映画版の実況とその所感でした

 

昔義父と『カルメン』を観た後に、彼が独りごちた感想が忘れられない;「私とは随分と異なる世界にある」。けだし義母や夫はそう思っていなかったらしかったものの、私の知る限りでは義父はとても浪漫的な心の持ち主だった。それが却って作品に対する理解を遠ざけたのかも知れないな

 

その時にはよく分からなかった、しかしながら今の私は奇しくも今作品へ同じ気持ちを抱いてるよ。この作品には感情移入や共感できる登場人物がまるでいない。全員が遠くにいる。でも、なぜか明確に分かるよ。あの時に義父は決して『カルメン』を退屈だとも嫌いだとも思わなかったってことがね