自分が後期高齢者のせいか、同世代の訃報を聞くことが多くなり、そのとき、昔よく聞いた曲を思い出す。そして、しばし気が沈む。

 2月終わりに仲宗根美樹さんの訃報を聞いた。

 仲宗根美樹さんの歌う「川は流れる」(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一、1961年)がヒットしたのは私が高校一年生の時である。63年前の当時、この歌は印象的な曲の一つで、聞きながら、私はよく口ずさんでいた。1番の冒頭の「わくらばを 今日も浮かべて」の「わくらば」が新鮮な言葉で意味が分からず、辞書で調べた。「病葉」はその時初めて知った言葉だった。その後カラオケでも一度も歌ったことがなかったが、訃報を聞いて口ずさむと、2番までの歌詞は7、8割がた憶えていた。「思い出の橋のたもとに 錆びついた 夢の数々」で始まる2番の方をよく憶えていて、2番はほとんど空で歌えた。3番の歌詞を全く憶えていないのは、放送では多分2番までしか流れなかったからであろう。

   仲宗根美樹さんは沖縄出身の歌手だとずっと思っていた。もちろんそれで間違いはないが、この記事を書くためにGoogleで調べて、正確にはご両親が沖縄出身で、美樹さんご自身は東京のお生まれだと知った。私の中では、沖縄というと、安仁屋宗八投手とともに、仲宗根美樹さんがたちまち思い浮かぶお名前である。まだ沖縄の本土復帰がなっていない頃、「川は流れる」がヒットした翌年、安仁屋宗八投手を擁する沖縄高校が夏の甲子園大会に出場した。古豪の広陵高校に敗れはしたが、テレビ越しながら沖縄高校への声援の方がはるかに大きかったように思う。太平洋戦争末期や戦後の沖縄の苦難について私が知ったのは成人になってからであるが、高校生の当時でも、洞窟や防空壕でおびえる人々、ぐずる赤ん坊を必死であやし、なだめる若い母親、泣き声に怒る兵士か将校、それに続く悲劇の話、日本兵を恐れて洞窟に火炎を放射する米軍兵士の写真、ひめゆり部隊などの無惨な若い女学生の集団死の話などは見たり、聞いたりしていたので、甲子園での大声援の中に沖縄に対する同情と幾らかの後ろめたさを感じていた。

   あらためて「川は流れる」を聞いて、懐かしさだけでないものを思った。

   仲宗根美樹さんのご冥福をお祈りいたします。

 

写真  庭で咲いていたクロッカスももう終わり。     撮影20240311