日本の法律には日本語を使うことを義務として組み込んで欲しい、と思う。

 

しかし逆にそこに於いても 人種差別だという。

 

言いたいことは人種ではなく文化を重要視してほしいことなのに。

 

 

この島国の風土を守りたい。

 

だからまずは言葉を大事にした考えからの発想がいいと思う。

 

日本語は地震や天変地異の数の多いこの島国で形造られた。

 

従って、そういう土地から生まれた文化を大事に使うのがいいことだと感じる。

 

従って、他国の人でもこの島国の風土の中では、日本語を使うことを規則としてもらいたいと思う。

 

 

例えばだが、北極に居たとして、それを自分の国の衣類を使いたいからと、パンツいっちょうで暮らすことを求める赤道諸国の人が居たとしたら、それでは生きられないでしょう。

 

まぁ、それは極端な言い方です。

 

 

しかし、過去の経験からして一ヶ所の環境が崩れると他にもどんどんおかしくなる要素が多い。

 

だから、まずは文化は言葉から、だ。

 

それによって文化を保つことが良いことだと感じますがね。

 

 

現代社会は 古来からの日本文化、日本家屋の気候に対する必然性を無視してる。

 

それが現代文化。

 

そしてそれが西洋文化であり、都市化社会だとも感じます。

 

これ以上、ここの島国の文化を壊したら、安住の土地としては住めない島国になりそうにも感じます。

 

 

そろそろ移住を考えているならば、それはそれで一つの手段ですが。

 

故郷をそうそう簡単に捨てられる?

 

 

まぁ、この国の人々はそれなりの人になっている気もします。

 

東京一極集中は故郷を捨てた結果が齎した歪みでしょうからね。

 

 

私の感覚からしたら、東京って、コンクリートで造った摩天楼の牢獄としか見えないのですが。

 

「ここがいいところ」

と、誰かに、あるいは何かに洗脳されて、それで押し寄せた場所。

 

追い込まれた蟻地獄、的な。

 

 

都市とは そういう甘い蜜で引き込まれた蟻たちの落とし穴。

 

実態は人が人として正常に生きることを放棄させられた牢獄。

 

まぁ 東京のみならず地方であっても 都市という環境に於ける全般で感じることです。

 

 

こう言うと そこが生まれ故郷の人に怒られそうですね。

 

すみません。

「国民の皆さん」って叫びの声を聴く選挙が終わった。

 

「国民の皆さん」って誰ですか?

この疑問は人種差別はやめよう、という意味から沸き起こった簡単な疑問。

 

国が存在して いまだ国と国の争いがに起こる。

 

我が国民のため、という言葉は何を意味する?

自国ファーストという言葉すらある。

 

自国民と他国民を差別しないと言うのは、自国も他国も同一視すること?

ならば 世界中のあらゆる人のことを国民と呼ぶんですか?

 

国民のために国を豊かにするそのために政治がある。

そのために政治家がいる。

それは一気に世界中の全員の人の暮らしを良くすることになるんですか?

 

世界中で一番たくさんの人口を抱える国はインドだったり中国だったりします。

じゃあこの二つの国が豊かになれば、世界に於いて より多くの国民が豊かになったということになるのですか?

じゃあ日本は中国共産党に支配されてしまったほうが手っ取り早い?

寧ろそれがいいと言うことですか?

そういう考え方をすると、少数人口の異国の人は二番手、三番手と考えることになっています。

 

国民はその国における長い歴史を踏まえた上での民族集団だと私は考えています。

そこの土地の風土や歴史や生き方のノウハウを携えた人としての工夫を有する集団。

そういう集合体。

そこにDNAに落とし込まれた知識が民族を造る。

地球は生きてて、あちこちでいろんな気候や風土を与えてるから。

 

昨今の世間の風潮を感じる時、

順位をつけるな!といいます。

順位をつけるのではなく、すべての人を対象に考えるといいます。

しかし、逆に優先順位という言葉もあります。

すべての問題を一気に解決できる人はいない。

たとえAIであったとしても、一度にすべてのことを解決することはできない。

ならば、順番ということになってきます。

 

順番に関する言葉を優先順位と言う言葉遣いをします。

そうすると、順序がある以上は、優先的に考える順番が発生します。

そうなると、そこに優劣ができてきます。

 

そこを差別だとか蔑視だとかと言う言葉で拒否するとするならば、順番は存在しなくなり、一度にすべてのものが解決できない答えはNG行為となります。

 

本当にすべてのものを一気に解決できるものがあるとするならば、おそらく核戦争くらいではないかしら。

そこまで行き着いてしまいます。

 

そうではないと言う人がいますが。

でも、そういう人はことごとく差別を含んだ言葉で人を騙そうとします。

私にはそうとしか見えないのですよ。

 

結局のところ、いくら考えても、洗脳と扇動で、騙し合いの世界からは、逃れられないのが結論だなと感じてしまいます。

車が走るスマホになってる。

最近 そういう話を聞く。

変わった時代だな。

 

そうなると、車の教習所はどうしたらいいんだろう?

つまり教習所は従来の車の教習所ではなく 走るスマホの教習所に変わらなければならないじゃあないか?

あるいは オートマ免許とかと同様にスマホ自動車用免許とか。

 

他にも様々な重要な物事にスマートフォンが使用される。

そうなると、すでに教育も本とか鉛筆ではなく、スマートフォンの使い方を学ぶのが重要な要素となる。

 

教習所は乗り物とかドローンとかの学校。

従来の学校はそもそものスマートフォンの学校。

大学で勉強するような知識や計算能力はスマートフォンがやる。

 

それならばそのスマートフォンの修理の仕方なども教えてくれろ。

だろ。

学校の勉強の内容も変えていかねばならないだろう。

知識を頭に記憶するのは無駄な時間を費やすだけになる。

計算もAI操作によって必要性が消える。

むしろその操作の複雑化をスムーズにさせる勉強が大きな時間を割く気がするな。

 

スマートフォンが登場した頃、非常に多くの操作方法の専門書が発売された。

それを読んでもなかなか操作がうまくできなかったのを記憶してる。

今の子供達は基本的な操作方法は既に日常に於いて会得してるようだ。

しかし、そこから先にどんどんと操作の在り方が変わってきている。

 

今や 嘗ての操作方法だけ知ってるようでは使いこなせないし、スマートフォンの種類すら多岐にわたる。

 

かつてのSFに出てくる未来人は指が長い。

パソコンのキーボードを多用するからそうなったという意味を持つ。

しかし、スマートフォン文化から想像したら、未来の人はスマートフォンを多用する身体の構造に変化するだろう。

 

スマートフォンを持ち易くて指で操作しやすい身体の構造に変化するのではないか?

まぁ、これからまだまだ文化も変化するだろうから、そうとも言い切れないが。

 

スマートフォンもいずれはウエアラブルになる気もする。

世界の言葉もインターネットの中で統一化されるやもしれない。

 

やはり行き着くところはサイボーグだろうか。

人の身体が機械になり、意識は機械が操作する。

 

そこまで行くと人種間での戦争もない世界になる。

何故ならば、生物的な意味をどんどん排除するから。

身体の痛みも消えるし、悩みも消える。

生きる苦しみも消える。

そこまで行くと宗教も消える。

 

それが「お望みの結末」になる。

どんどんそこに向かって突き進んでる。

それに疑義を唱えると排除されるんだろうな。

誰から?

なんだか「スカイネット」は既に誕生してる気がしてき出した。

私は人の言う言葉をあまり聞かないことにしてる。

聞かないと言う意味は「他人が言うことに同意しない」ことではない。

「発した言葉を聞かない」と言う意味だ。

むしろ聞けない、聞くことが機能的にしにくいとも言える。

 

おそらく世間では 人の言葉をしっかりと聞く耳を持って傾聴する事がいい、とされてる。

しかし、聴くと面倒なことがほとんどだ。

だから聞いたが最後、それについて考えたり頷いたり答えたりしないといけない。

しかし私の考えは一般人の考えとはかけ離れてる。

かけ離れてることが多い、のならばまだいい。

私の場合は全く別の意味の事になってしまう。

本当に全く関連を持てないほどかけ離れた意味を含有した内容だと認知してしまう。

 

なので、聞けば聴くだけ 相手に対して失礼になる事になる。

何度も聞き直す。

そして「それはこう言うことですか?」

「こういうことですよね」

と、言い方を変えて聞き返す。

結果は全く違う解釈なことが多い。

「常識で考えたら間違わないだろ」

と、非難される。

その繰り返し。

私は非常識らしい。

どうやらChatGPTのほうが認知が正常らしい。

 

見当違いの多発。

日常において ほぼそうなる。

だから、自分の事だけを相手に話す事にしてる。

それが平和な会話になるからだ。

しかし、相手からすると それはまさに狂気の沙汰の戯言、興味のない他人事でしかない。

 

結果、会話にはならない。

 

世間様のいう言葉を使うと

「お話にならない」

そういう人らしい。

 

人間というものは理解に難しい。

だから嫌いだ。

自分が嫌いな人の性格なり、人的な印象を一つずつカタチ作っていく。

そうすると、おそらくそれは自分自身になると思われる。

ほとんどの人がそうだと思う。

自分自身もそうだと思う。

かといって、そういう自分の嫌いな人ではないタイプの人を、そんなに好きかと言えばそうでもない。

結局、他人のことをとやかく言う人は、多かれ少なかれ、どんな人も好きにはならないんだろうな。

逆にあまり嫌いだと思える人がいなさそうな人に関しては、人のことをあまりとやかく言わない印象を持つ。

そして、そういう人は嫌いな人を作らない。

そういう人は多くの人を好き嫌いで見ないのだろう。

だからそういう人は、自分自身も嫌いにはならないんだろうな。

自己嫌悪もあまり持たないのではないか?

きっと好き嫌いでものを見る「癖」がないからじゃあないか?

 

人のことを嫌いだと思ってる人は、それは自分自身だと気がついていない。

自分自身を客観的に見ることができないからだろう。

 

そして、そういう人は、自分も他人も不幸にしていく傾向があると思う。

 

残念なことにそこに気がついていない。

「人」に対して とやかく言う前に「何」が好きか?だけでいいと思うぞ。

「人ではない何か」に目線を向けた方が幸せになれそうに思うんだが。

 

まぁ それは私自身に関してだけ、かもしれないのだけれど。