【共謀罪/治安維持法】山本宣治記念資料館の続き など | 知は力!痴は活力?

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細々書きたれて参ります
不定期更新何とぞご笑納を


 すみません。ようやく本題に入ります。
 今回は投稿が失敗続きで内容が混乱してしまい、ご迷惑をおかけしました。

 宇治市にある『山本宣治記念資料館(資料展示室)』は、宇治橋の左岸側(西側)、鳳凰堂(10円硬貨の裏に描かれていますね)で有名な平等院から、宇治川沿いに上流へ5分ほど歩いたところにある『花やしき浮舟園』という旅館の敷地内にあります。



 「なぜ資料館が旅館の敷地に?」と思われるかもしれませんが、この『花やしき浮舟園』は、山本宣治の父親が、病気がちだった息子の療養のために建てた別荘が、創業のきっかけとのことです。そして現在も、宣治の子孫の方が経営されているようです。

 まず旅館のフロントにて来意を告げると、従業員さんが資料館を開けてくれるとのこと。(普段は施錠されている様子)



 本館から道路を隔てて、さらに奥まった場所に建っている蔵が、今回目的の資料館です。

 室内に入れてもらうと、展示品も整理途中といった様子で、照明も少ないのですが、あまり広くないスペースに(15畳~20畳弱ぐらい?)ところ狭しと並べられています。



 昭和初期の労働運動とか、社会主義っぽい意匠のポスターが目に入ります。時代を感じさせるレタリングというか、フォントがいい感じです。




 山本宣治の事績が掲示されており、わかりやすくまとめられていました。
 国会議員になる以前には、京都帝大で講師をしており、労働者教育や、産児制限の普及運動などに携わっていました。

 やがて、労働農民党(労農党)から衆院選に出馬して当選し、国会議員としての活動が始まります。
 この時期、1925年に(男子)普通選挙制度が制定され、ほぼ同時期に治安維持法も成立します。
 ほどなくして治安維持法の最高刑が死刑に引き上げられるなど、言論や表現・結社の自由が制限されていきます。この動きに真っ向から反対しようとしたのが山本宣治だったのです。



 1929(昭和4)年3月4日、国会での演説(治安維持法の改悪にへの反対演説)原稿を準備していた山宣のもとに、身元を偽って訪ねてきた右翼団体員(国家権力の刺客)によって刺殺されてしまいます。
 告別式も警察官から妨害を受け、河上肇なども弔辞を述べることができなかったということです。



 山宣自筆の墨跡。殆ど照明が届かない場所もあり、撮りづらかったですがお許しを…


 同時代の人気画家、竹久夢二と山宣は中学の同級生で、交流があったとのこと。

 筆者自身、山本宣治のことはほとんど予備知識のないまま、資料館を訪れました。
 昭和初期の困難な時代に、まさに『山宣孤塁を守る』の言葉どおり、国家権力の横暴と弾圧に屈することなく、生涯を全うしたことを通じて、『共謀罪』が成立した2017年に再び考えてみる意義を強く感じた次第です。


 さて、資料館を後にして、再び宇治橋方面に戻りしなに、少し寄り道して”橋姫神社”さんに向かいます。


 交通量の多い府道沿いに建つ、本当に小さなお社ですが、宇治橋を守護する『瀬織津姫』が祀られています。元々は宇治橋の上”三の間”と呼ばれる場所にお祀りしてあったそうです。



 宇治橋の途中にある、この出っ張りが「三の間」です。伏見城で豊臣秀吉が茶会を催す際には、この場所で茶の湯に使う水を汲ませたと言われており、現在も毎年10月の”宇治茶祭り”では往時を偲んで『名水汲み上げの儀』が執り行われる場所です。

 さて橋姫と呼ばれる瀬織津姫ですが、祇園祭の山鉾でも『鈴鹿山』の御神体として知られるように、橋や峠などの”境目・境界”を守り、災禍や悪鬼の侵入を防ぐ役目を持っているとのこと。
 そういうわけかどうか、橋姫神社さんの境内にこんな立札がありました。


 現代の科学技術が生み出してしまった、文字どおり決して目には見えない災禍に対しても、おそらくは千年以上の歴史を有するといわれる、この小さなお社がご利益があるのか判りませんが、立札を目にして思わず現実に引き戻された時には、”橋姫伝説”より以上の恐ろしさを禁じ得ませんでした。
(以上)