※25/5/14 写真追加及び加筆
こんにちわ、前回に続けて、考察をつらつらと書きます。
おそらく、ひとまずこの章は最後だと思います。
伊予国宇摩郡の式外古社で、
神武天皇の息子兄弟である、
神八井耳尊(カムヤイミミノミコト)と、
神沼河耳尊(カムヌナカワミミノミコト/第二代綏靖天皇)
をお祀りする井川神社があり、
こちらのご由緒書きにある御奉遷元の”榧ヶ大岐”探しから始まった考察ですが、ついに記紀にまでつながります。
安芸国の埃宮多家神社に伝わるご由緒には、、
突然ですが、安芸国(広島県)にある埃宮多家(えのみやたけ)神社は、第二代綏靖天皇の父君である初代神武天皇の東征伝承が残る式内社です。そのご由緒書きに以下のような記述があります。
「安芸(現在の広島県)の埃宮多家神社は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わるが、
『古事記』に、「於阿岐國之多祁理宮(たけりのみや)。七年坐。」
※⇒「阿岐国(あきこく)之多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が七年滞在した」
とあり、さらに、
『日本書紀』には 「埃宮(えのみや)に坐す」 とある。」
たけりのみや、や、えのみやと記と紀にふたつの名前があります。
広島のたけ神社も由緒ある神社なので否定をするわけではないのですが、
何故かこの二つの名前が、なんと“大岐”のある上八万にあるのです。
「えのみや神社」と「たきのみやてんのう(たけりのみや?)神社」です。
えのみや神社は「宅宮神社」と書くのですが、これが実は奥の深いすごい神社でした。
宅宮(えのみや)神社とは

この大岐のすぐ西、樋口遺跡を挟むようにに宅宮(えのみや)神社があります。

宅宮神社は錚々たる神社名が並ぶ名方郡12社の1位に挙げられる名社です。
名方郡12社由来記
実はこの式内社である宅宮神社は延喜式神名帳にある意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)に比定されていますが、実はすごく深い歴史のある神社なのです。
まず、意富門麻比売は、伊邪那岐伊邪那美尊よりも2代前、神代七代の神様の第五代目の神様です。

ご由緒書き
主祭神は、「オオトマベノミコト」ですが、意富門麻姫の(オオトマビメ)のことです。
まず、このような古い神様の名前を冠し、主祭神としている神社は日本には唯一ここになります。日本最古の神社とも言われているようです。
宅宮神社作成の古事記の神様関係図
なぜ、この神様なのか? と 少し考えるとピンとくる方もいらっしゃると思いますが、そうです。
オオトマベノミコト=オオトマリベノミコト=大泊り部(辺)の神、つまり湊を守る神様です。

拝殿
さらに漢字を見ると、”意富”と冠していますので意富氏=オオ氏であり、大国主や太田田根子らオオを冠するイズモの系統の神と思われます。

摂社朝宮神社(大日ルメノ尊、月読尊)
樋口遺跡では水銀朱(辰砂)が出土しましたが、水銀朱(辰砂)とこの神代五代目の姫神様、なんとなくつながりますよね。もしかするとここでいわゆる卑弥呼
が行っていたような鬼道祭祀が行われていたのではないかと想像させられます。
実は、この神社には先日直接訪問させていただいてたまたまですが直接お話しを聞くことができました。そのときに、いろいろわかったことがありました。
神社の神主さん、実は伊予の国造家、および伊予水軍(河野水軍)でも有名な越智姓、のちの河野家の嫡流の方だそうです。
実際にお名前も、河野家の通字である”通”を使ったお名前を持たれているそうです。
越智氏とは
WIKIなどを参考にすると、越智氏は、4世紀後半に中央王権によって任じられた国造(くにのみやつこ)だと言われています。
物部系の小致命が小市国造の初代越智氏だと言われています。新撰姓氏録には饒速日(ニギハヤヒ)の末裔と言われていますが、物部系なのでそういうことなのだと思います。
また、越智氏系図はいくつかあり、諸説あるのですが、
その中の、その越智家(河野家)の系図である「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」には神代から今につながる家系図があります。
そこに驚く記載がありました!。

越智姓河野氏は饒速日命(ニギハヤヒ)を祖とし物部氏族として現代までつながっていくのですが、その系図の伊予国造第五代がなんと、
「神八井耳命=伊予国造、実カムヤマトイワレビコ三男、扶桑国主也、神倭継家、、号伊予皇子」
とも書かれています。
お忘れだったかもしれませんが、カムヤイミミ(神八井耳尊)は井川神社に奉遷されてきた神様です。
また、その神社を大宝年間に再建したのは宇摩郡大領「越智玉澄」とありましたが、その玉澄、なんと宅宮神社神主家の河野家、つまり伊予国造ともなった河野家の初代だそうです。
”越智”玉澄ではなく、”河野”玉澄で検索してもWIKIに出てきます!
つまり、伊予大領である越智玉澄の祖先がカムヤイミミノミコトでもあり、宅宮神社宮司河野家の祖先でもあると。。
(まあ、神武天皇の息子ですが、饒速日系の伊予国造を継いで、扶桑国初代国主になり、伊予皇子とも呼ばれたらしい。。。扶桑国ってどこ?伊予王子神社も少し南のほうにあるよね、とか言うのも気になるんですが、それはスルーして
)
真偽はともかくとしてそういった伝承が伝わっているのであるならば、
代々その末裔が神主を担当してきた宅宮神社に、もともと神八井耳尊(カムヤイミミノミコト)の御霊を祀っており、のちに井川神社に奉遷した、としても何ら不思議ではありません。
井川神社のご由緒と榧ヶ大岐=上八万説のかなり強い補強になります。
しかも、カムヤイミミノミコトは第五代伊予国造と名前が出ていますので、伊予にある井川神社に奉遷されることは全く自然な流れです。
つまり、神八井耳尊の御霊が上八万の宅宮神社(=意富門麻比賣神社)から井川神社へ奉遷してきた、ことはとてもつじつまが合うわけです。
さらに、その神様の坐する神社の社殿を建立したのがカムヤイミミの後裔となる越智玉澄です。
ここで余談ですが、”奉遷”と”勧請”の違いは、
”奉遷”は移り変わってきたこと、
つまりひとつの御霊がここに移動してきたこと。
”勧請”は分祠されたこと、つまり御霊の分霊がきたこと。
”奉遷”の意味はより重みが増すわけです。
びっくりするおまけ その1
おまけですが、この神社にはもっと驚くべきものがありました。
神踊り(徳島市指定無形民俗文化財)には、12種類の踊りがあるそうです。
古くは平安時代の末ごろから始まったと伝えられる踊りだそうで、毎年8月15日に十一地区の氏子が輪番で古式豊に奉納されるそうです。
踊り歌は「御神踊り」「桜踊り」「出雲踊り」「つばくろ踊り」などがあるそうで、とくに出雲踊りの歌には、
「伊豆毛の国の伯母御の宋女
御年十三ならせます
こくちは壱字とおたしなむ」

というかなり意味深な歌が今でも歌われています。イズモの国の伯母の宗女が十三になったときに、、、魏志倭人伝の卑弥呼の宋女が十三歳で即位した、、という記述と奇妙にもかぶります。
と言ってもこれ以上進まないので、この考察はここまでにしておいて、それ以外にもうひとつびっくりすることがあります。
びっくりするおまけ その2
なんと、ここには阿波文字という神代文字で書かれた祝詞の版木が残っているそうです。
名方郡12社のひとつである大宮神社の阿波文字(参考 「道は阿波より始まる」より)
この阿波文字は、実は園瀬川を遡った佐那河内にある大宮神社にも残っています。つまり、宅宮神社のオリジナル文字ではなく、このようにこのあたりの複数の神社でそれが残っている状況から、おそらくこの地方で古来から使われてきた文字かもしれません。
実際にこの文字で書かれた祝詞などの文書が伊勢神宮に奉納され、残っているともいわれています。
お見せいただいた宅宮神社の阿波文字の版木
もしかすると本当に漢字より前から使われてきた文字なのかもしれません。
阿波文字一覧表
上八万、そして上流の佐那河内はいにしえからそんな文明があった土地なのかもしれません。
もし神武天皇や綏靖天皇の拠点がこの上八万および上流の佐那河内などあったとするならば、、、
相応しい地域ですよね。。。
ただ、エノミヤという社名を名乗ったのは戦国時代に長宗我部に燃やされて以降、蜂須賀氏によって再興された時だそうです。
何故エノミヤと名乗ったなかは不明ですが、当時は現存していた阿波国風土記に何か書いてあったのでしょうか?
さて、もう一つのタキリノミヤについても触れておきます。
瀧宮天王(たきのみやてんのう)神社

地図
瀧宮天王神社は、もともと宅宮神社の元社である大笘姫神社の社地だった場所が宅宮神社の100mほど南にあるのですが、ちょうどその東側にあります。。現在は小さな鳥居のある小さな神社です。
上八万の神社巡り図
主祭神は素戔嗚尊です。天王社とあるのでもとは神仏が習合した神である牛頭天王を祀る社だったはずです。そのため現在の主祭神は素戔嗚尊です。(江戸時代は牛頭天王だったと思います)
瀧宮天王神社
瀧宮天王神社拝殿
広島の多家神社のように、記紀の記述をなぞるように神武天皇のそものが祀られているわけではありません。
この神社はご察しの通り、現在は素戔嗚尊が祀られています。
そこでタキノミヤのタキに注目しました。
実は、同じ”タキ”の名前の付く式内社が同じ徳島県にあります。
WEB上の情報では、ちょっと離れた徳島県美馬市の大瀧山にある西照神社は式内社である田寸神社(たきじんじゃ)の論社で、そこには月読尊(つくよみのみこと)と、宗像三女神が祀られています。
そして、その大瀧山は、すぐそばに八十八か所の総奥の院大瀧寺もある霊峰だったりもするのですが、この山の”瀧”の名前は、宗像三女神の田寸津姫命(タギツヒメノミコト)からきている、とのこと。
”タギ”です。
この西照神社の社伝によれば、夜のおすくにを統治する月読の尊が、監視役として田寸津姫命(タギツヒメノミコト)を大滝山に使わしたのが起源だそうです。
なんども言いますが、滝はタギツヒメの”タギ”だそうです。
つまり、上八万の瀧宮天王宮の”タキ”も、タギツヒメのタキと考えることができます。上八万は海であり滝はありませんので。
ところで、古事記では多岐都比売命(タギツヒメノミコト)と書かれるこの姫神は素戔嗚尊の娘で大国主の奥さんで、事代主の母神だったりする超重要な女神です。
※漢字は後から当てられたものですので単に余談になりますが、ちょっとここで妄想です。
タギは、多岐と書きますが、多の文字をオオと読むと、多岐=大岐=オオギともとれ、
多岐都=大岐津=オオギのミナトともとれます。
つまり“大岐のみなとの姫神”ともとれたりします。
瀧宮天王神社はもともとこのタギツヒメを祀っていた神社ではないか?とかってに妄想してしまいます。
さらにもっと、深い妄想に入ると。。。
このとき、タギツヒメは、”オオギツヒメ”です。
どこかで聞いたことある姫様ですよね。そう、オオゲツヒメ。素戔嗚にいろんなところから出した穀物を料理に出して殺されてしま大気都比売神(オオゲツヒメ)です。古事記に何度か出てくる阿波国のヒメ神です。
タギツヒメはオオゲツヒメだった!オオゲツヒメのオオゲは大岐のことだった! だから大岐にある瀧宮天王神社に素戔嗚が祀られている。
しかもこの大岐から園瀬川を上った佐那河内にある阿波一之宮の大アワ神社には、今もだからオオゲツヒメは阿波の女神だった、なんていうのは本当にばかげた妄想です。
そして、、最初の問いに戻るのですが、
古事記にある多祁理宮(たきりのみや)ももしかすると、このタキ、もしかすると”大岐“を意味しているのではないかなとさえ思わされます。
古事記の多祁理宮(たけりのみや)も日本書紀の埃宮(えのみや)も、、実はここ上八万の大岐の瀧宮(タキノミヤ)と宅宮(エノミヤ)のことを指していると考えるとロマンがありますよね。
まとめ
以下にこれまでのまとめとして要点を箇条書きします。(まとまってないけど。。。。。笑)
古代は海岸線が内陸まで来ており、このあたりまで海があり大きなふなと=舟泊りがあった。岐とは湊のことであり、大岐とは”大きなるふなと”のことである。
そのふなとには園瀬川が流れ込んでおり、この園瀬川の上流の佐那河内は良質な木が育つ場所で知られ、徳島藩の阿波誌によると古来この園瀬川が「木の川*1」とも呼ばれていたとのこと。
※1 「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅~岩利大閑に導かれて~」 古代私塾代表 藤井榮著 P97から
佐那河内の天一神社には樹齢350年の榧木が存在している。榧の木は舟の材料としても使われており、大きな湊ができる背景であったとすると大いに辻褄が合う。
上八万と佐那河内には、神武天皇の東征時にナガスネヒコの放った矢に打たれて傷を負った神武天皇の兄の五瀬尊(イツセノミコト)がここ大岐で体を癒すために留まったという伝承を残す、五世神社と五王神社がある。
五瀬命(イツセノミコト)です。神武天皇(イワレビコ)の兄です。
カムヤイミミ、カムヌナカワミミは神武天皇の息子兄弟で、五瀬尊(イツセノミコト)の甥っ子です!!。世代はほぼ同世代といっていいでしょう。
妄想ですが、もし、イツセノミコトの拠点がこのあたりであり、そこに弟の神武天皇=イワレビコが7年も住んでいたことがあるとするならば、その間に子供は生まれたでしょうし、息子兄弟がここで育ったとしても不思議ではなく、さらにその後その御霊が大岐の一宮である大苫姫神社(のちの宅宮神社)で祀られていたとしても何ら不思議ではありません。
当時は主祭神の名前を冠した神社であったが、戦国時代以降に再建したときに宅宮(えのみや)の神として名付けられたことは、裏がありそうです。
たとえば、阿波国風土記を読んだ蜂須賀家が、えの宮があった場所がこの上八万であることを知り、その宮に”えのみや”とつけるように命じたとか。。勝手にですが、つながった!!
これら状況は、何を意味するのか。。。?
「榧ヶ大岐」周辺には、縄文末期から中世にかけての遺跡が多くあり、銅鐸7個、辰砂、東阿波土器とともに中世搬入土器、木製品などが多く出土しており、紀元前から多くの文化が出入りする一大拠点であった。
大岐の宅宮神社は、代々、越智氏、つまり伊予河野家の嫡流が管理し、そのご先祖は、五代目伊予国造でもあった神八井耳尊(カムヤイミミノミコト)からもつながっていた。つまり、そのから御霊が奉遷されたとしても不思議ではない。
※諸説あり
宅宮神社は神代第五代の姫神を祀り、名方郡12大社の筆頭であり、伊豆毛の宋女の踊りを平安から続け、神代文字の版木を持つ絶大なご由緒と文化を引き継ぐ、かなり重要な神社であった。
井川神社の兄弟神の父君、神武天皇が東征時に七年滞在したと記紀にある、”えのみや”と”たけりのみや”と同名の古社がここ上八万大岐に並んで存在していた。偶然か必然か?
つまり、第二代天皇と兄神八井耳の御霊が、倭の長国、上八万から伊予宇摩郡に奉遷したと言え、それは、それまでは大王の御霊を長国(阿波)でお祀りしていたことを意味する。
なぜか? 井や河など水の神を祀るべき背景があったと考えるのが普通ですが、井川神社が奉遷された664年は白村江の戦い(663年)で敗戦し防備を特急で準備している当時でもある。播磨や讃岐、吉備では唐や新羅の侵攻に備えて、九州や、安芸、吉備、伊予、讃岐、播磨などに古代山城を急いで建設していた時期でもあります。もしかして、小高い位置にある岡銅村近辺は、山城としても機能させようとした、という考察も可能かなと思わされます。
もう、情報多すぎて、つながることが多すぎて書ききれなくなりました。
ただ、この全く想像や関連のなかった山奥の神社のご由緒に出てくる”榧ヶ大岐”の考察から、ヤマト王権の黎明期はこの八万津が重要な湾口として機能していたことや、もしかすると、
本当にこの上八万は、ヤマト王権黎明期の重要な拠点、つまり本拠地だったひとつの状況証拠
にもなるのかもしれません。
そういえば、宅宮神社の宮司さんが最後にポツリ、
「阿波の古い神社には、この阿波文字の版木のように現代の通説では説明できないような、まだ表にでてきていないご由緒や古文書がまだまだ残っているのではと思います、、いつか時期がくればそれが少しづつわかってくるかもしれませんね。。。」
。。。意味深です。
#宮司殿、貴重なお時間いただきありがとうございました。
徳島県外の神社のご由緒書きから始まった、謎解き考察でしたが、思いもせずに興味深い情報が浮かび上がってきました。
本当に、この結論ありきで調べたわけではなかったにも関わらずです。
阿波って、ほんとうに隠された何かがある場所だと思わずにはいられません。
最後はかなり長くなってしまいましたが、4回にわたりお読みいただき、ありがとうございました。