紅棗のVストでタカタカ古代里山散策

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橿原考古学研究所でのイベント、

 

4月19日から6月15日まで開かれていた「令和7年度春季特別展 桜井茶臼山古墳」をぎりぎり最終日に見学に行きました。

 

 

 

 

 

やっぱり現地に行ってみるものです。

結構いろいろな気づきがありました。

 

 

桜井茶臼山古墳は現在の通説では古墳時代前期前半、3世紀終盤の古墳と言われており、位置づけによっては当時最大の古墳だった可能性もある古墳です。

 

ここに、103面の鏡の破片が副葬されていたことが有名です。

 

 

ところで、この展示イベント、よかったのが、この桜井茶臼山古墳のみならず、その前後の王領と呼ばれる大型前期古墳を一列にならべてその副葬品の本物を展示していた点です。

 

 

 

 

以下纏向周辺の前期前半古墳一覧(古い順)です。

 

纏向石塚古墳 96m

纏向勝山古墳 110m

ホケノ山古墳 80m

箸墓古墳 280m

黒塚古墳 128m

西殿塚古墳 230m

椿井大塚山古墳 175m

桜井茶臼山古墳 204m

下池山古墳 115m

メスリ山古墳 220m

大和天神山古墳 113m

行燈山古墳 242m

 

 

※特別展の図録より

 

 

 

これらの古墳の副葬品や解説が時代順に並んでいてとても興味深いものでした。

 

とくに、いくつか挙げると、

 

 

  • 纏向石塚古墳の弧帯紋入り木製円盤[左下]⇒箸墓以前から吉備との関係が深かったこと。弧帯紋は吉備を象徴する紋様だからなのです。

 

 

  • ホケノ山古墳の石室解説=>石囲い木槨という石室構造が同時期に作られた「阿波の萩原1号墳」と同じです。つまり同じアイデンティティを持つ人が阿波と巻向にいたということです。

 

 

  • 箸墓古墳の後円部にあった弧紋入り特殊器台⇒箸墓に埋葬された方と吉備とのさらに深い関係

 

 

 

  • メスリ山古墳や桜井茶臼山古墳の玉杖⇒巻向での大和王権成立(発足ではなくて)と圧倒的な大王の証

 

 

  • 行燈山古墳(伝崇神陵)の内行花紋大型銅板⇒地方では見られない圧倒的な大王の証、および九州との関係。九州では大型内行花文鏡が多く出土してます。瀬戸内でも小型のものが多いが古いものが出ています。

 

 

 

 

  • 尾張の土器や工具が多かった⇒尾張など東海勢力が人工として纏向成立にかなり関与、尽力していた

 

などです。

 

 

そして、一番衝撃的だったのが箸墓古墳の説明文にあった、

 

 

 

 

 

「後円部は4段築成で最上段に小円丘を持つ。この小円丘は、積石丘であることが近年判明した。」

 

 

 

 

です。 なんと一番上は 積石丘! 円丘です。

 

 

吉備を代表する弧帯紋がはいった特殊器台が後円部に飾られ、

 

 

最上段には阿波讃岐を代表する積石塚なのです。

 

 

 

 

※参考) 讃岐の石清尾山、鶴尾神社4号墳の模型(箸墓古墳より古式) 高松市埋蔵文化財センター展示より

 

 

もう意味することは一つしかない気がしてきました。

 

 

 

それは倭迹迹日百襲姫命

 

 

 

讃岐と吉備をの各地を舞台に活躍した伝承があり讃岐一之宮や式内社の神社の主祭神として祀られ、さらに三輪山伝説ものこる、倭迹迹日百襲姫命。

 

 

そして、ともに協力して吉備を平定し、箸墓の1/2相似形でもある吉備の中山御陵に葬られ、吉備津彦神社祀られる彦五十狭芹彦命(大吉備津彦)兄弟関係

 

 

箸墓古墳の時代はいつなのかという問題は別にして、モモソヒメは讃岐で育ち、崇められ、弟の吉備津彦達と協力して吉備を平定し、そしてその神威と祭祀力をもって、晩年は大和に坐して九州、尾張、日本海、近江、太平洋沿岸をまとめ、最後は各地の豪族の力によって、大きな古墳を築き祀られた。

 

 

間違いないでしょ!これは。

 

 

 

 

 

 

 

神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の末裔から上八万につなげてみた。

 


 

 

神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔に、雀部朝臣がいる。さざき部の朝臣の祖とされるのが星川建彦です。

 

 

 

星川建彦

 

「ことばんく」によると、

 

星川建彦(ほしかわの-たけひこ)

 

古代伝承上の豪族。
武内宿禰(たけしうちのすくね)の子孫。「新撰姓氏録」によれば,応神天皇のとき皇太子大鷦鷯(おおさざきの)尊(のちの仁徳天皇)にかわって御膳をつかさどり,大雀臣(おおさざきのおみ)の氏姓をあたえられた。

 

雀部朝臣(さざきべのあそん)の祖とされる。名は建日子とも。

 

 

とあります。

 

 

”ほしかわ”です。キョロキョロ

 

 

ぴんときました。びっくり

 

 

、実は上八万に”ほしかわ”と名の付く地があるのです。

 

 

大岐と樋口のちょうど南に面する地域ですが、ここが”ほしごうち”と言われている地域になります。

 

”星河内”と書きます。

 

 

上八万町星河内

 

 

銅鐸が7個も出た星河内美田遺跡と神社や大岐の位置関係

 

そこではなんと、弥生時代中期(BC2世紀~AC1世紀)の銅鐸が7個も出土しています。扁平鈕式銅鐸と言われるものです。

 

 

こちらは、再現したものの写真を拝借。。。

 

 

 

 

同じ扁平中式銅鐸が香川県でも出ているらしく、これは東京国立博物館で飾られているそうです。近いですね。

 

 

 

 

銅鐸は2世紀末くらいまであったと言われていますが、その頃忽然と姿を消します。

 

 

阿波は早期含め日本でもトップクラスに銅鐸が出土している地域ですので、時期によってはこれを祭祀の中心に据える祭祀文化の中心地域だったと思います。

 

 

ただしこの銅鐸が神八井耳命の時代が被っているかどうかは不明です。

(実は、神武天皇、神八井耳命の時代は西暦何年かというのはAC0~300年まで諸説あります。)

 

 

ですが、周辺の遺跡を鑑みて、そう言った重要な祭司痕跡が紀元前後にそこにあったことはほぼ事実ですし、時代は降りますが、その地域に神八井耳命の末裔と言われていた人物の名前と同じ地名が残っていることは興味深いです。

 

 

 そしてその地域が、神八井耳命の御霊が元あったと思われる大岐の湊に接していると言う事実は何を意味してるのでしょうか。

 

 

 

ちょっと、地名と子孫の氏が同じというだけですので薄いつながりではありますが。。こじつけっぽくてちょっと弱いか。てへぺろ

 

 

 

欠史八代ともいわれる、第二代から九代までの天皇。

 

 

 

その第二代天皇かむぬなかわみみのみことですが、名前の漢字は二種類あります。

 

 

日本書紀: 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
古事記: 神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)

 

 

ここでは、古事記の表記を使わせていただきます。

 

 

その第二代綏靖天皇(神沼河耳命・カムヌナカワミミノミコト)には三人の兄がいました。

 

 

ひとりは、長男の手研耳命(タギシミミノミコト)

 

母は吾平津媛(アヒラツヒメ)、父は初代神武天皇です。

 

 

そして、同母兄の長兄、日子八井耳命(ヒコヤイミミノミコト)がおり、

 

 

もう一人の兄は、

神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と言われる、同母兄です。

 

 

歌川国芳『日本国開闢由来記』首巻より 神武天皇と姫多々良五十鈴姫

 

 

母は3人とも同じ姫多々良五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)、

 

 

古事記での名は、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)です。古事記では大国主の娘、日本書紀では事代主の娘と言われています。

 

 

この神奴名川耳命・カムヌナカワミミノミコトと兄二人には、古事記に記される逸話があります。

 

 

「イワレビコが亡くなると、この手研耳命(タギシミミノミコト)は義母にあたる父イワレビコの后のイスケヨリヒメを妻としました。

 

 

そして、自分の腹違いの兄弟であるイスケヨリヒメの3人の巫女を殺害しようと企みます。

 

 

 これを知り、こころを痛めたイスケヨリヒメは、皇子たちに危険が迫っていることを知らせるため、歌を詠みます。

 

 

”狭井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす”

 

(狭井川の方から雲が立ち上がり、畝傍山では木の葉がざわめいています。大嵐が吹き起りそうです)

 

 

”畝傍山 昼は雲とい 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉 騒げる”

 

(畝傍山では、昼は雲が揺れ動き、夕方になると、大嵐の前触れとして木の葉がざわめいています)

 

 

 

#という歌だそうですが、本当にこの歌を詠んだかどうかは不明です。

 

 

 歌を聞いた3人の皇子たちはすぐに危険を察知しました。うかうかしていると殺されてしまうため、皇子たちは先手を打ってタギシミミを殺害することにしました。

 

 

 まず3兄弟のうちの二番目、カムヤイミミが、末弟のカムヌナカワミミに促されて、太刀(弓矢?)を手にタギシミミお宮へ忍び込みましたが、いざというときに手足が震えてしまい、手を下すことができません。

 

 

すると、その様子を見ていた末弟カムヌナカワミミが兄の太刀(弓矢?)を受け取り、宮へ忍び込みタギシミミを切り殺しました。

 

 

それから、カムヌナカワミミはタケヌナカワミミともいわれるようになりました。

 

 

この事件のあと、2番目のカムヤイミミは自分で上に立つべきではないと悟り、弟のカムヌナカワミミに皇位を譲ることにしました。また自分は大王を助けて斎人(斎王)になると宣言しました。

 

 

カムヌナカワミミは、これを受け、イワレビコを継ぎ、第二代大王となりました。」

 

 



 

とあります。

 

 

 

母がタギシミミという義理の息子と結婚するというのも、昔ながらで現代ではありえないのですが、母はつよし。

 

 

実の息子たちのことを案じたわけですね。上の歌を本当に歌ったかどうかは不明ですが、狭井河・・”殺、井と河”(カムヤミミとカムヌナミミ)、、、ともとらえられますね。

 

 

カムヌナカワミミは強かったようですが、兄のカムヤイミミは自分の特性を鑑みて、弟に王位を譲り、自分はイツキビト(斎王)になる、と本当にいったのだとしたら、相当自分を客観的に見る力があったようです。

 

 

また、この決断は実はその後の大和王権で重要な統治手法となります。結果としてこの王権が現代まで続いている理由がこれだったのだと思っています。

 

 

彼は今後数千年続くこの”祭祀王制度”を作ることで国体と平和を維持できることができる、とても先を見る力があった方のようですね。

 

 

そのカムヤイミミノミコトですが、ただ、その後この王統にとってとても重要な後裔を残しています。

 

 

 

意富(おお)氏=多氏・太氏、小子部(ちいさこべ)氏、坂合部(さかあいべ)氏、火の君(ひのきみ)・大分の君(おおいたのきみ)などの始祖になったと古事記は記しています。

 

 

他に、阿蘇氏、金刺氏なども後裔のようです。

 

 

カムヤイミミは、先のブログでふれたとおり伊予国造家にも名前が出てきます。(諸説あるので答えは一つではありません)

同様に以下の多くの氏族の祖であると言われています。

 

 

小長谷の造(おはつせのみやつこ)、都祁値(つげのあたい)・伊予国造(いよのくにのみやつこ)科野国造(しなののくにのみやつこ)

 

 

陸奥石城国造(みちのくのいわきのくにのみやつこ)、常陸仲国造(ひたちのなかのくにのみやつこ)長狭国造(ながさのくにのみやつこ)

 

 

雀部臣(さざきべのおみ)、伊勢船木直(いせのふなきのあたい)、尾張丹羽臣(おわりのにわのおみ)、島田臣(しまだのおみ)

 

 

 

カムヤイミミの子孫がどれだけ幅広く勢力を広めたかがわかります。

 

 

また、伊予、阿蘇、信濃、陸奥磐城、常陸那珂、上総の長狭、伊勢、尾張、奈良北東部

 

 

 

と重要な地域、重要な神社のある地域ばかりです。なんか全部中央構造線が通っているような気がするのは気のせいでしょうか。。

 

 

#ちなみに船木氏は伊勢以外に淡路島の舟木遺跡も拠点と言われていますがここにも太田という地名がありますので、太氏と同じだと思います。

#これをいれると淡路島、伊予、常陸那珂、伊勢、尾張と阿波と繋がりのある地域も多いのが気になります。

 

 

さらに、その子孫である氏族は後に、大和王権拡大を果たした四道将軍、ヤマトタケルなどに従軍したともいわれています。

 

 

科野国造(しなののくにのみやつこ)は崇神天皇の御代に、神八井耳命の孫が任命されたとあります。これは四道将軍の一人の大彦の軍に同行していたということでしょう。

 

 

もしかすると同様にこの四道将軍の派遣のときに、全国に氏族が残って散らばったのかもしれません

また、ヤマトタケルの御子である成務天皇の時代にも多くの子孫が国造に任命されていますので。

 

 

 

 

また、物語には出ませんが、長兄のヒコヤイミミは摂津河内の茨田(まむた)氏や手島氏の始祖となったともありますことを付け加えておきます。

 

 

 

ところで、ひとつだけ、伊予だけは、カムヤイミミノミコト本人が第五代伊予国造であるという記録が、

 

 

越智・河野氏系図にあります。

 



 

第十代崇神天皇や第十三代成務天皇の御台ではなく、綏靖天皇の御代だと思われます。

 

 

 

そして伊予王子とも呼ばれる。とありました。時代が他とは異なるのです。

 

 

それが意味することは何か?

 

 

それは、、、斎王であったカムヤイミミがその時代に直接伊予を治めていた可能性があるということ、

 

 

 

その時代はやはり綏靖天皇の御台くらいだと思われます。そのころには、

 

 

 

伊予がほかの地域よりも一足早く神武を初代とする倭王権の一部であったと言える

 

 

 

のではないでしょうか。

 

 

また伊予国風土記逸文には以下のような記述もあることが思い出されます。

 

 

「伊与の郡。郡家ゆ東北のかたに天山あり。天山と名くる由は倭に天の香具山あり。天ゆ天降り時二に分かれて、片端は倭の国に天降りき。片端はこの土に天降りき。因りて天山と謂ふ、本なり。」

 

 

この倭が奈良の大和の事なのかそれとも古の阿波のことなのか分りませんが、この時に倭と伊予が別れた。つまり元は同じ場所から天降ってきたという記述とも合致します。

 

 

 

ついでに、阿波国風土記逸文も載せておきます。

 

 

 

「阿波国ノ風土記ノゴトクハ、ソラヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波国ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山クダケテ、大和国ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。」

 

 

阿波には元山が阿波国にふり下り、その山が砕けて大和国(ここでは大和となっているらしい)の天の香久山になったと。伊予国のことはでてきません。。。キョロキョロ

 

 

ちなみに阿波国風土記編纂された時期は大和国ができた時期よりも前のようですので、もとは倭という文字だった可能性が高いそうです。

 

 

 

うーん、倭と伊予に分かれた。風土記を書いたときにはヤマトは奈良だったので、倭を奈良とすると、ヤマトと阿波に分かれた。阿波と伊予が同じ国(伊予の二名島)であるとすれば、同じ伝承を伝えているのかもしれません。四国(伊予の二名島)に降り立った天族は四国と今の大和に分かれたと。。。

 

 

 

そして、なぜか徳島県徳島市には伊予王子という地名があり、伊予王子神社もそこにあります。

 

 

これはまた少し調べてからアップしたいと思います。

 

 

長文お付き合いありがとうございました。

 

 

このブログは以下の古代史日和というサイトの記事も参考にさせていただいています。

天皇制を確固たるものした神武天皇の皇子 神八井耳命【2】

 

 

 

 

 

 

  四国中央市金砂町 小川山久保ケ市の廃村を歩く

 

 

小川山は、私の高祖母の墓石に刻まれていた、出身の村でした。

 

 

 

実は高祖母は、戸籍を調べると、”藤内家”の五女としてわが高祖父の家に嫁いできたとありました。しかし、、、お墓の墓石の裏の墓誌には、全く違うことが書いてありました。「伊予国宇摩郡金砂村 小川山 久保ガ市 長野熊平の娘也」、とありました。

謎です。戸籍に登録した時点ですでに養女として出していたのかもしれません。

 

 

 

ともかく、小川山の久保ケ市はご先祖様が生まれ育った村なのです。

 

 

 

角川地名辞典には以下のようにあります。

 

 

「小川山村 江戸期~明治22年の村名。宇摩郡のうち。はじめは加藤喜明領、寛永13年に川之江一柳直家領、銅20年からは幕府領で、享保六年からは松山藩預かり地、、、村高は「慶安郷村数帳」では76石、、、、

 

 

 

「宇摩郡地誌」によれば、村の広さは東西1里24町余り、南北3里27町余り、地勢は、

 

 

「金砂川ハ村ノ中央ヲ東流シ柳瀬川・安井川ハ共ニ源ヲ土佐国界ニ発シ北流シテ金砂川ニ注ク、


耕地民居ハ以上諸川ノ沿岸又ハ山腹ニ散在シ、


険阻深奥民ノ生ヲ営ム甚難シト渭ウヘシ。


土佐街道及新道オヨビ其の他ノ道ハ皆険悪運輸不便薪ニ富ミ魚塩ニ乏シ。


戸数259(スベテ農業)人口1541、牛34、社1、物産ハ半紙2万束・炭2万5千貫・・・」

 

 

とあります。

 

 

険阻深奥 民ノ生ヲ営ム甚難シト渭ウヘシ”、です。

 

 

山深い険しい場所で、生活営むのはとんでもなく難しい場所と言うべき

 

 

そんな場所にご先祖が住んでいたのですが、簡単に言うと理由はおそらく平家の落人の末裔だったから、、、てへぺろ ではないでしょうか。

 

 

そういった場所なので、現在は廃村となっていますが、

 

 

その場所は、

 

 

四国中央市の嶺南、法皇山脈の南にある銅山川沿いの金砂ちくにあります。四国のプレート活動に伴ってできた東西方向の谷に流れる銅山川の両側は、四国で一番標高の高い地域の谷なので、非常に険阻です。

 

 

では、そこまでのルートなのですが、まず四国中央市の三島川之江インターチェンジでおりて、192号線を池田方向に向かい、「桐の森の青い看板」を目印に県道5号線を新宮方向に右に曲がり法皇山脈越えに向かいます。

 

 

 

県道5号線を南にまっすぐ上ると、ループ橋(榎実大橋)などを通りながら登っていき、堀切トンネルをくぐって南に抜け、国道319号線に出て西に向かいます。

 

 

とても細く、対向できない道ですので前方を注意しないといけません。

 

 

 

銅山川が近づくと右手に三角寺の奥の院、仙龍寺が見えますのでそこを道なりにくねくねと進むと銅山川に出ます。

 

 

橋をわたって右手に進み、しばらく行くと赤い橋と青看板が見え、手前に三叉路が見えますので、左手に曲がると久保ケ市に向かいます。

 

 

ここを左にまがり、川に沿って道なりに奥へ進みます。結構ここからUターンが難しくなるので不安感が増してきます。

 

 

 

ここから、甲斐野を通って久保ケ市につくのですが、2020年に一度訪れていますが、2022年5月に、もう一度訪れていました。このときの写真をブログにはアップしていませんでしたので今回公開しておきます。もう3年になります。

 

 

 

久保ケ市は今は廃村になっていますが、瀬戸内海から見て法皇山脈の南、銅山川支流の小川谷にある山林の村の名前です。

 

 

私の高祖母が生まれ育った村でもありました。

 

 

上の写真のとおり、赤線をたどって南に進むと、甲斐野の橋が見えますので、ここを右折し橋を渡って、もうしばらく進むと、久保ケ市の集落につき、右手に見事な青石を積んでできた石垣が見えてきます。

 

 

ほんと、ラピュタの世界を味わえます。

 

 

ここからは、写真を羅列しますので、ただ、この久保ケ市廃村の空気感を楽しんで頂ければと思います。

 

 

久保ケ市集落の入口の家と見事な青石の石垣。これは進行方向から振り返って北方向に向いています。この写真には写っていないですが、手前左手(東方向)に奥に入る道があります。

 

 

 

 

集落への道を少し奥に入って道路がわを見たところ

 

 

 

石垣が何段も続いています

 

 

 

ラピュタのような石垣です。村があった当時はこの石垣の上に建物があったはずです。

 

 

 

 

 

 

右手にまだ建っている母屋を発見

 

 

 

緑が神秘的ですね。

 

 

 

母屋です。玄関が少し張り出した、宮崎駿の作品に出てきそうな母屋です。

 

 

 

 

倒壊した納屋が奥にありました

 

 

 

奥に倒れているのは、厠かな?

 

 

もときた道に戻ります。

 

 

 

この木漏れ日が石垣の上を刺す写真、神秘的で大好きです。

 

 

山に向かって左手に、まだ建物がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

中央の路をはさんで左手にも倒壊寸前の母屋がありました。

 

ここはかなり傾いていますので近寄るのは危険です。

 

 

 

 

裏に墓地が見えました。ぽつんとひとつだけ立っています。

 

 

 

墓石には「長野幸蔵」さんというお名前がありました。自身の佐野にあるご先祖のお墓に書いていた高祖母の父の苗字と同じ長野姓です。おそらく一族の方、つまりご先祖様だと思います。

 

 

 

 

 

ちかくに倒れていた墓石もありましたので、墓誌を確認すると、こちらも長野さんのお名前が見えました。

一応ご先祖様の一族の方と思いますので、拝んでおきました。南無阿弥陀仏・・・。

 

 

 

まわりをよく見てみると、土台のようなものもちらほら。

 

 

 

墓石は見えませんが、土台のようです。もしかして墓石は持って降りたのか、それとももっと古い墓石のない時代のもので、もともと土台だけだったのか。。。祖谷の平家の里では、名乗れないこともあって墓碑のない石積みのお墓も多くありましたので。

 

 

このような斜面で、平地もほとんどない山林で何軒もの家があったことにとても驚きます。

 

 

このあたりでは楮から和紙を作る紙屋もあったようなので、林業以外にはそういったことで飯をくっていたのかもしれません。

 

 

 

ご先祖様の村をあとに、県道をもう少しだけ南方向に奥へと入っていきました。

 

 

そうすると、きれいな川の景色が見える苔の生えた橋にたどり着きました。ここでようやく駐車スペースがありましたので、いったん駐車してまわりを撮影しました。

 

 

 

橋の名前はわかりませんでしたが、ここから見える淵の名前は「こうやけの淵」というそうです。グーグルマップにも載っていました。

 

 

 

このあたりも平家の落人の村だそうです。

 

実は、もう少し上流に行くと、源平古戦場と七人塚といわれる平家の落人の塚があるらしいのですが、年寄を乗せているのと、精神的に限界が来たので、今日はここまででUターンすることにしました。。

 

 




最後に、この日は行ってないけど久保ケ市には、剣長神社っていう神社があって、猿田彦大神と瀬織津姫が祀られてる。宝剣があるとかないとか。。気になるキョロキョロ




いかがだったでしょうか。。



木漏れ日が神秘的な小川山久保ケ市の景色は。

 

 

 

 

※25/5/14 写真追加及び加筆 

 

                          

こんにちわ、前回に続けて、考察をつらつらと書きます。

 

おそらく、ひとまずこの章は最後だと思います。

 

 

伊予国宇摩郡の式外古社で、

 

神武天皇の息子兄弟である、

 

神八井耳尊(カムヤイミミノミコト)と、

神沼河耳尊(カムヌナカワミミノミコト/第二代綏靖天皇)

 

をお祀りする井川神社があり、

 

こちらのご由緒書きにある御奉遷元の”榧ヶ大岐”探しから始まった考察ですが、ついに記紀にまでつながります。

 

 

安芸国の埃宮多家神社に伝わるご由緒には、、

 

 

 突然ですが、安芸国(広島県)にある埃宮多家(えのみやたけ)神社は、第二代綏靖天皇の父君である初代神武天皇の東征伝承が残る式内社です。そのご由緒書きに以下のような記述があります。

 

「安芸(現在の広島県)の埃宮多家神社は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わるが、


『古事記』に、「於阿岐國之多祁理宮(たけりのみや)。七年坐。」

 

  ※⇒「阿岐国(あきこく)之多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が七年滞在した」

 

とあり、さらに、

 

 

『日本書紀』には 埃宮(えのみや)に坐す」 とある。」

 

 

 

たけりのみや、や、えのみやと記と紀にふたつの名前があります。

 

 

広島のたけ神社も由緒ある神社なので否定をするわけではないのですが、

 

 

何故かこの二つの名前が、なんと“大岐”のある上八万にあるのです。

 

 

「えのみや神社」と「たきのみやてんのう(たけりのみや?)神社」です。

 

 

えのみや神社は「宅宮神社」と書くのですが、これが実は奥の深いすごい神社でした。

 

 

 

 宅宮(えのみや)神社とは

 

 

この大岐のすぐ西、樋口遺跡を挟むようにに宅宮(えのみや)神社があります

 

 

 

 宅宮神社は錚々たる神社名が並ぶ名方郡12社の1位に挙げられる名社です。

 

 

 

名方郡12社の由来記

名方郡12社由来記

 

 実はこの式内社である宅宮神社は延喜式神名帳にある意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)に比定されていますが、実はすごく深い歴史のある神社なのです。

 

 まず、意富門麻比売は、伊邪那岐伊邪那美尊よりも2代前、神代七代の神様の第五代目の神様です。

 

 

 

ご由緒書き

 

 主祭神は、「オオトマベノミコト」ですが、意富門麻姫の(オオトマビメ)のことです。

 

 

 まず、このような古い神様の名前を冠し、主祭神としている神社は日本には唯一ここになります。日本最古の神社とも言われているようです。

 

 

 

 

宅宮神社作成の古事記の神様関係図

 

 

 なぜ、この神様なのか? と 少し考えるとピンとくる方もいらっしゃると思いますが、そうです。

 

 

 オオトマベノミコト=オオトマリベノミコト=大泊り部(辺)の神、つまり湊を守る神様です。

 

拝殿

 

 さらに漢字を見ると、”意富”と冠していますので意富氏=オオ氏であり、大国主や太田田根子らオオを冠するイズモの系統の神と思われます。

 

摂社朝宮神社(大日ルメノ尊、月読尊)

 

 樋口遺跡では水銀朱(辰砂)が出土しましたが、水銀朱(辰砂)とこの神代五代目の姫神様、なんとなくつながりますよね。もしかするとここでいわゆる卑弥呼目がハートが行っていたような鬼道祭祀が行われていたのではないかと想像させられます。

 

 

 実は、この神社には先日直接訪問させていただいてたまたまですが直接お話しを聞くことができました。そのときに、いろいろわかったことがありました。

 

 

 神社の神主さん、実は伊予の国造家、および伊予水軍(河野水軍)でも有名な越智姓、のちの河野家の嫡流の方だそうです。

 

 

実際にお名前も、河野家の通字である”通”を使ったお名前を持たれているそうです。

 

 

 

越智氏とは

 

WIKIなどを参考にすると、越智氏は、4世紀後半に中央王権によって任じられた国造(くにのみやつこ)だと言われています。

 

 

物部系の小致命が小市国造の初代越智氏だと言われています。新撰姓氏録には饒速日(ニギハヤヒ)の末裔と言われていますが、物部系なのでそういうことなのだと思います。

 

 

また、越智氏系図はいくつかあり、諸説あるのですが、

 

その中の、その越智家(河野家)の系図である「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」には神代から今につながる家系図があります。

 

 

そこに驚く記載がありました!。

 

 

 

 

 

 

越智姓河野氏は饒速日命(ニギハヤヒ)を祖とし物部氏族として現代までつながっていくのですが、その系図の伊予国造第五代がなんと、

 

 

「神八井耳命=伊予国造、実カムヤマトイワレビコ三男、扶桑国主也、神倭継家、、号伊予皇子」

 

 

とも書かれています。


 

お忘れだったかもしれませんが、カムヤイミミ(神八井耳尊)は井川神社に奉遷されてきた神様です。

 

 

また、その神社を大宝年間に再建したのは宇摩郡大領「越智玉澄」とありましたが、その玉澄、なんと宅宮神社神主家の河野家、つまり伊予国造ともなった河野家の初代だそうです。

 

 

”越智”玉澄ではなく、”河野”玉澄で検索してもWIKIに出てきます!びっくり 

 

 

 

つまり、伊予大領である越智玉澄の祖先がカムヤイミミノミコトでもあり、宅宮神社宮司河野家の祖先でもあると。。

 

 

(まあ、神武天皇の息子ですが、饒速日系の伊予国造を継いで、扶桑国初代国主になり、伊予皇子とも呼ばれたらしい。。。扶桑国ってどこ?伊予王子神社も少し南のほうにあるよね、とか言うのも気になるんですが、それはスルーしてキョロキョロ)

 

 

 真偽はともかくとしてそういった伝承が伝わっているのであるならば、

 

 

 代々その末裔が神主を担当してきた宅宮神社に、もともと神八井耳尊(カムヤイミミノミコト)の御霊を祀っており、のちに井川神社に奉遷した、としても何ら不思議ではありません。

 

 

井川神社のご由緒と榧ヶ大岐=上八万説のかなり強い補強になります。

 

 

しかも、カムヤイミミノミコトは第五代伊予国造と名前が出ていますので、伊予にある井川神社に奉遷されることは全く自然な流れです。

 

 

つまり、神八井耳尊の御霊が上八万の宅宮神社(=意富門麻比賣神社)から井川神社へ奉遷してきた、ことはとてもつじつまが合うわけです。

 

 

さらに、その神様の坐する神社の社殿を建立したのがカムヤイミミの後裔となる越智玉澄です。

 

 

ここで余談ですが、”奉遷”と”勧請”の違いは、

”奉遷”は移り変わってきたこと、

つまりひとつの御霊がここに移動してきたこと。

 

”勧請”は分祠されたこと、つまり御霊の分霊がきたこと。

 

 

”奉遷”の意味はより重みが増すわけです。

 

 

 

びっくりするおまけ その1

 

 

おまけですが、この神社にはもっと驚くべきものがありました。

 

 

神踊り(徳島市指定無形民俗文化財)には、12種類の踊りがあるそうです。

古くは平安時代の末ごろから始まったと伝えられる踊りだそうで、毎年8月15日に十一地区の氏子が輪番で古式豊に奉納されるそうです。

 

踊り歌は「御神踊り」「桜踊り」「出雲踊り」「つばくろ踊り」などがあるそうで、とくに出雲踊りの歌には、

 

「伊豆毛の国の伯母御の宋女

御年十三ならせます

こくちは壱字とおたしなむ」

 

 

徳島市公式観光サイトFUNFUN徳島より

 

というかなり意味深な歌が今でも歌われています。イズモの国の伯母の宗女が十三になったときに、、、魏志倭人伝の卑弥呼の宋女が十三歳で即位した、、という記述と奇妙にもかぶります。グラサン

 

 

と言ってもこれ以上進まないので、この考察はここまでにしておいて、それ以外にもうひとつびっくりすることがあります。

 

びっくりするおまけ その2

 

 

なんと、ここには阿波文字という神代文字で書かれた祝詞の版木が残っているそうです。

 

 

 

名方郡12社のひとつである大宮神社の阿波文字(参考 「道は阿波より始まる」より)

 

 

 

この阿波文字は、実は園瀬川を遡った佐那河内にある大宮神社にも残っています。つまり、宅宮神社のオリジナル文字ではなく、このようにこのあたりの複数の神社でそれが残っている状況から、おそらくこの地方で古来から使われてきた文字かもしれません。

実際にこの文字で書かれた祝詞などの文書が伊勢神宮に奉納され、残っているともいわれています。

 

 

 

お見せいただいた宅宮神社の阿波文字の版木

 

 

 もしかすると本当に漢字より前から使われてきた文字なのかもしれません。

 

 

阿波文字一覧表

 

 

上八万、そして上流の佐那河内はいにしえからそんな文明があった土地なのかもしれません。

 

 

もし神武天皇や綏靖天皇の拠点がこの上八万および上流の佐那河内などあったとするならば、、、

 

 

相応しい地域ですよね。。。

 

 

ただ、エノミヤという社名を名乗ったのは戦国時代に長宗我部に燃やされて以降、蜂須賀氏によって再興された時だそうです。

 

 

何故エノミヤと名乗ったなかは不明ですが、当時は現存していた阿波国風土記に何か書いてあったのでしょうか?

 

 

 

 

 さて、もう一つのタキリノミヤについても触れておきます。


 

 

 

 

 瀧宮天王(たきのみやてんのう)神社

 

地図

 

瀧宮天王神社は、もともと宅宮神社の元社である大笘姫神社の社地だった場所が宅宮神社の100mほど南にあるのですが、ちょうどその東側にあります。。現在は小さな鳥居のある小さな神社です。

 

 

 

 

上八万の神社巡り図

 

 

主祭神は素戔嗚尊です。天王社とあるのでもとは神仏が習合した神である牛頭天王を祀る社だったはずです。そのため現在の主祭神は素戔嗚尊です。(江戸時代は牛頭天王だったと思います)

 

 

 

瀧宮天王神社

 

 

 

瀧宮天王神社拝殿

 

広島の多家神社のように、記紀の記述をなぞるように神武天皇のそものが祀られているわけではありません。

 

 

この神社はご察しの通り、現在は素戔嗚尊が祀られています。

 

 

そこでタキノミヤのタキに注目しました。

 

 

実は、同じ”タキ”の名前の付く式内社が同じ徳島県にあります。

 

 

WEB上の情報では、ちょっと離れた徳島県美馬市の大瀧山にある西照神社は式内社である田寸神社(たきじんじゃ)の論社で、そこには月読尊(つくよみのみこと)と、宗像三女神が祀られています。

 

 

そして、その大瀧山は、すぐそばに八十八か所の総奥の院大瀧寺もある霊峰だったりもするのですが、この山の”瀧”の名前は、宗像三女神の田寸津姫命(タギツヒメノミコト)からきている、とのこと。

 

 

”タギ”です。

 

 

この西照神社の社伝によれば、夜のおすくにを統治する月読の尊が、監視役として田寸津姫命(タギツヒメノミコト)を大滝山に使わしたのが起源だそうです。

 

 

なんども言いますが、滝はタギツヒメの”タギ”だそうです。

 

 

つまり、上八万の瀧宮天王宮の”タキ”も、タギツヒメのタキと考えることができます。上八万は海であり滝はありませんので。

 

 

 ところで、古事記では多岐都比売命(タギツヒメノミコト)と書かれるこの姫神は素戔嗚尊の娘で大国主の奥さんで、事代主の母神だったりする超重要な女神です。

 

 

※漢字は後から当てられたものですので単に余談になりますが、ちょっとここで妄想です。照れ

 

 

タギは、多岐と書きますが、多の文字をオオと読むと、多岐=大岐=オオギともとれ、

 

 

多岐都=大岐津=オオギのミナトともとれます。びっくり

 

 

つまり“大岐のみなとの姫神”ともとれたりします。 

瀧宮天王神社はもともとこのタギツヒメを祀っていた神社ではないか?とかってに妄想してしまいます。

 

 

さらにもっと、深い妄想に入ると。。。

 

 

このとき、タギツヒメは、”オオギツヒメ”です。

 

 

どこかで聞いたことある姫様ですよね。そう、オオゲツヒメ。素戔嗚にいろんなところから出した穀物を料理に出して殺されてしま大気都比売神(オオゲツヒメ)です。古事記に何度か出てくる阿波国のヒメ神です。

 

 

タギツヒメはオオゲツヒメだった!オオゲツヒメのオオゲは大岐のことだった! だから大岐にある瀧宮天王神社に素戔嗚が祀られている。びっくり しかもこの大岐から園瀬川を上った佐那河内にある阿波一之宮の大アワ神社には、今もだからオオゲツヒメは阿波の女神だった、なんていうのは本当にばかげた妄想です。

 

 

そして、、最初の問いに戻るのですが、

 

 

古事記にある多祁理宮(たきりのみや)ももしかすると、このタキ、もしかすると大岐を意味しているのではないかなとさえ思わされます。

 

 

 古事記の多祁理宮(たけりのみや)も日本書紀の埃宮(えのみや)も、、実はここ上八万の大岐の瀧宮(タキノミヤ)と宅宮(エノミヤ)のことを指していると考えるとロマンがありますよね。

 

 

 まとめ

 

 

以下にこれまでのまとめとして要点を箇条書きします。(まとまってないけど。。。。。笑)

 

 

 

古代は海岸線が内陸まで来ており、このあたりまで海があり大きなふなと=舟泊りがあった。岐とは湊のことであり、大岐とは”大きなるふなと”のことである。

 

 

 

そのふなとには園瀬川が流れ込んでおり、この園瀬川の上流の佐那河内は良質な木が育つ場所で知られ、徳島藩の阿波誌によると古来この園瀬川が「木の川*1」とも呼ばれていたとのこと。

 

※1 「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅~岩利大閑に導かれて~」 古代私塾代表 藤井榮著 P97から

 

佐那河内の天一神社には樹齢350年の榧木が存在している。榧の木は舟の材料としても使われており、大きな湊ができる背景であったとすると大いに辻褄が合う。

 

 

上八万と佐那河内には、神武天皇の東征時にナガスネヒコの放った矢に打たれて傷を負った神武天皇の兄の五瀬尊(イツセノミコト)がここ大岐で体を癒すために留まったという伝承を残す、五世神社と五王神社がある。

 

 

 

五瀬命(イツセノミコト)です。神武天皇(イワレビコ)の兄です。

 

 

 カムヤイミミ、カムヌナカワミミは神武天皇の息子兄弟で、五瀬尊(イツセノミコト)の甥っ子です!!。世代はほぼ同世代といっていいでしょう。

 

 

 妄想ですが、もし、イツセノミコトの拠点がこのあたりであり、そこに弟の神武天皇=イワレビコが7年も住んでいたことがあるとするならば、その間に子供は生まれたでしょうし、息子兄弟がここで育ったとしても不思議ではなく、さらにその後その御霊が大岐の一宮である大苫姫神社(のちの宅宮神社)で祀られていたとしても何ら不思議ではありません。

 

 

 当時は主祭神の名前を冠した神社であったが、戦国時代以降に再建したときに宅宮(えのみや)の神として名付けられたことは、裏がありそうです。

 

 

たとえば、阿波国風土記を読んだ蜂須賀家が、えの宮があった場所がこの上八万であることを知り、その宮に”えのみや”とつけるように命じたとか。。勝手にですが、つながった!!

 

 

これら状況は、何を意味するのか。。。?

 

「榧ヶ大岐」周辺には、縄文末期から中世にかけての遺跡が多くあり、銅鐸7個、辰砂、東阿波土器とともに中世搬入土器、木製品などが多く出土しており、紀元前から多くの文化が出入りする一大拠点であった。

大岐の宅宮神社は、代々、越智氏、つまり伊予河野家の嫡流が管理し、そのご先祖は、五代目伊予国造でもあった神八井耳尊(カムヤイミミノミコト)からもつながっていた。つまり、そのから御霊が奉遷されたとしても不思議ではない。

※諸説あり

 

 

宅宮神社は神代第五代の姫神を祀り、名方郡12大社の筆頭であり、伊豆毛の宋女の踊りを平安から続け、神代文字の版木を持つ絶大なご由緒と文化を引き継ぐ、かなり重要な神社であった。

 

 

 

井川神社の兄弟神の父君、神武天皇が東征時に七年滞在したと記紀にある、”えのみや”と”たけりのみや”と同名の古社がここ上八万大岐に並んで存在していた。偶然か必然か?

 

 

つまり、第二代天皇と兄神八井耳の御霊が、倭の長国、上八万から伊予宇摩郡に奉遷したと言え、それは、それまでは大王の御霊を長国(阿波)でお祀りしていたことを意味する。

 

 

なぜか? 井や河など水の神を祀るべき背景があったと考えるのが普通ですが、井川神社が奉遷された664年は白村江の戦い(663年)で敗戦し防備を特急で準備している当時でもある。播磨や讃岐、吉備では唐や新羅の侵攻に備えて、九州や、安芸、吉備、伊予、讃岐、播磨などに古代山城を急いで建設していた時期でもあります。もしかして、小高い位置にある岡銅村近辺は、山城としても機能させようとした、という考察も可能かなと思わされます。

 

 

 

 

もう、情報多すぎて、つながることが多すぎて書ききれなくなりました。

 

 

ただ、この全く想像や関連のなかった山奥の神社のご由緒に出てくる”榧ヶ大岐”の考察から、ヤマト王権の黎明期はこの八万津が重要な湾口として機能していたことや、もしかすると、

 

 

本当にこの上八万は、ヤマト王権黎明期の重要な拠点、つまり本拠地だったひとつの状況証拠

 

 

にもなるのかもしれません。

 

 

 

 

そういえば、宅宮神社の宮司さんが最後にポツリ、

 

 

「阿波の古い神社には、この阿波文字の版木のように現代の通説では説明できないような、まだ表にでてきていないご由緒や古文書がまだまだ残っているのではと思います、、いつか時期がくればそれが少しづつわかってくるかもしれませんね。。。」

 

 

。。。意味深です。

 

 

#宮司殿、貴重なお時間いただきありがとうございました。

 

 

 

 

徳島県外の神社のご由緒書きから始まった、謎解き考察でしたが、思いもせずに興味深い情報が浮かび上がってきました。

 

 

 

本当に、この結論ありきで調べたわけではなかったにも関わらずです。

 

 

 

阿波って、ほんとうに隠された何かがある場所だと思わずにはいられません。

最後はかなり長くなってしまいましたが、4回にわたりお読みいただき、ありがとうございました。ウインク