紅棗のVストでタカタカ古代里山散策

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ルーツ探し

第四章(前編) 日本の始まりなのに前方後円墳がない島

~王権以前あったのは何か?~

 

そういえば、そうだ。

 

淡路島についての古代史を紐解いていると、そう言えば😅ということがあります。

この島には、古代の瀬戸内海にとって重要な場所である条件がいくつか揃います。

 

 ・巨石磐座祭祀の痕跡があり
 ・南部で弥生中期から最古級かつ広い繋がりを示す古式青銅器が出土

 ・弥生後期に遺跡が濃く立ち上がり

 ・北部で大規模鉄器生産遺跡があり

 ・製塩もあり

 ・日本の始祖神話が残り

 ・明石海峡と鳴門海峡や紀淡海峡の重要な3つの海峡を押さえる海上交通の要衝にあります。

 

つまり、紀元前からの文明の存在を示しながら大乱期の大規模鉄工房が残り、海峡を押さえる海人族(アマ族)が跋扈し、日本の始まりと記録される、すごい島なのです。

 

 

にもかかわらず、島の力を誇示する「重要な大和王権の王墓」が見えない。淡路市教育委員会の整理では、淡路島の弥生時代遺跡は485遺跡、うち時期特定可能なものは227遺跡とされ、弥生後期に北淡路丘陵帯で顕著な増加がみられます。そして、130基の古墳が確認されています。

なのに、王墓といえる前方後円墳はいまのところ一基も確認されていないそうです。

 

淡路は、王権にかかわる一族がいない島だったのか?

もしかすると逆なのでは?という考え方もありかもしれません。


淡路は、王墓を置けなかった島ではなく、王墓を置かないだけの理由を持った島だったのではないか。


王権が成立してからその中心を飾る島ではなく、大和王権が拠って立つ以前の力を抱えた島であり、そこに大和王権の象徴を置くことも憚られる島だったのではないか。
 

本章では、その可能性を整理してみたいと思います。

【淡路島北部3D地図】手前が明石海峡。淡路島北部の景観。明石海峡・播磨灘方向へ開く北淡路は、弥生後期に工房・祭祀・交流の拠点が濃く立ち上がる舞台でした。

1,淡路は阿波でも播磨でもないが両方をつなぐチョウツガイ

まず前提として、淡路島が古代から古事記でもアワジノホノサワケジマと呼ばれた、独立した一国だったことです。阿波国でも播磨国でもなく、淡路国として令制国としては南海道に属していました。

ただし、交通圏として見たときの淡路の位置はきわめて特異です。

北は明石海峡を介して播磨・畿内へ。
南は鳴門海峡を介して阿波へ。
さらに紀伊水道にも開く。

淡路市教育委員会の歴史環境整理資料でも、淡路島が瀬戸内海海上交通の要衝であり、海峡を見下ろす山上に高地性集落から中近世城郭、近代要塞に至るまで重要拠点が連続して築かれてきたことが示されています。

つまり淡路は、行政上は独立しながら、交通圏としては播磨と阿波の双方に深く結びついていた島でした。
どちらかの周縁ではなく、両者をつなぐ”海の蝶番”だったのです。

蝶番は正面からは見えません。


しかし、それがなければ扉は動かない。
淡路島もまた、そうした位置にあったのではないでしょうか。

 


 

【淡路島俯瞰地図 by Google Eearth】淡路島と周辺海域の位置関係。淡路は古代に独立した淡路国でありながら、明石海峡を介して播磨・畿内へ、鳴門海峡を介して阿波へ結びつく海上交通の要衝にあった。行政上の独立と、交通圏としてのリンクが同時に見えてくる。

2,弥生後期の淡路は、明らかに「普通の島」ではない

淡路の本当の特異性は、弥生時代中期に一定の重要な痕跡を持ちながらも、弥生後期に一気に濃くなる点にあります。

淡路市教育委員会の整理によれば、淡路島内の弥生時代遺跡は485遺跡、うち227遺跡が時期特定可能であり、弥生後期になると北淡路の丘陵帯で遺跡が顕著に増加します。これは単なる集落数の増加ではなく、”生産・祭祀・交流”が重なった拠点群の成立を示していると見るべきでしょう。

ここで重要なのは、淡路が「後からのみ目立ってきた島」ではないことです。


むしろ、もともと潜在していた力が、弥生後期になってはっきりと噴き出してくる。
そう見た方が自然です。

この章の核心は、ここにあります。
淡路は、王権秩序の外にあった島ではない。
むしろ、その成立以前の力が、工房・祭祀・交通という形で先に見えている島だったのではないか。

3, 五斗長垣内遺跡

淡路は「運ぶ島」ではなく「作る島」だった

その象徴が、五斗長垣内遺跡(ゴッサカイトイセキ)です。

【五斗長垣内遺跡全景】


淡路市の公式解説によれば、この遺跡は淡路島北部、播磨灘を見渡す標高約200メートルの丘陵上に営まれた弥生時代後期の鉄器生産遺跡で、竪穴建物跡23棟が検出され、炉跡構造や出土遺物から弥生時代の鉄器製作技術が具体的に明らかになっています。大型の板状鉄斧は半島からもたらされたとみなされ、ここが海を介した鉄素材流入の前線であったこともうかがえます。


写真で望む海は播磨灘です。西方向を望める位置にあります。西側が重要だったんです。


五斗長垣内遺跡が語るのは明快です。

淡路は、その時代、畿内や周囲にもない規模で鉄を実際に加工し、生産する島だったのです。



海上交通の要衝であることと、実際の鉄器生産拠点であること。
この二つが重なることで、淡路の重みは一段上がります。
つまり淡路は「運ぶ島」である前に、「作る島」でもあったのです。

【右側が大型鍛冶炉跡のある竪穴式住居】


【鍛治炉あと】


五斗長垣内遺跡の復元景観。播磨灘を見渡す丘陵上に営まれた弥生時代後期の鉄器生産遺跡。淡路は鉄素材が通過するだけの島ではなく、実際に鉄器を加工・生産する島だったことを示す代表的遺跡である。




4、舟木遺跡

工房・祭祀・海上交流が重なる高所中枢

これに対してここ数年新しい発見が続く「舟木遺跡」は、さらに複合的で大規模です。

淡路市の公式解説によれば、舟木遺跡は淡路島北部、標高150から200メートルの丘陵上に立地する弥生時代後期から終末期、すなわち1世紀前半から3世紀前半の大規模集落遺跡で、範囲は南北約800メートル、東西約500メートルに及びます。これまでに4棟の鍛冶工房を含む20棟の竪穴建物跡が確認され、170点を超える鉄器が出土しています。さらに中央部尾根上では、製塩土器、イイダコ壺、釣針、ヤスなどを伴う祭祀遺構が見つかっており、後漢鏡片や九州産のヤリガンナまで出土しています。

【舟木遺跡中央部】左奥の茂みの中にトレンチ跡がありました。


ここで重要なのは、舟木が単なる工房村ではないことです。

鉄がある。
海の遺物がある。
祭祀がある。
広域交易の痕跡まである。

舟木は、山中の一集落というより、**工房・祭祀・海上交流が重なる高所中枢**として見た方が自然です。
淡路の山地は、海と切り離された後背地ではなかった。
むしろ海上交通の延長線上にあったのです。

【舟木遺跡の一部】
舟木遺跡遠景。北淡路丘陵帯に立地する弥生後期から終末期の大規模拠点。今は高所にある平地は農地として使用されている。工房、祭祀、広域交流の痕跡が重なり、山中の集落というより高所中枢として理解すべき遺跡である。右に見える茂みや奥の斜面など、遺構が点在するが、まだ発掘は継続しており今後さらに多くの遺構が見つかる見込み。



    【舟木遺跡出土の土器】   

 

    【舟木遺跡出土の鉄器】


舟木遺跡出土の海と結びつく遺物群。製塩土器、イイダコ壺、釣針、ヤスなどは、舟木遺跡が単なる鍛冶集落ではなく、海上交流地点であったことを物語る。淡路の山地が海と切り離されていなかったことを示す重要な資料である。


さらに、現地でおどろいたのは、舟木遺跡の中央部に巨石磐座を持つ祭祀跡が舟木石上神社として今も祭祀が続いている点です。女人禁制です。


これは、太陽信仰と関係がある遺跡の痕跡だと思います。

古代は、昼の祭祀は男性が担当し、夜の祭祀は女性が担当したという記録もありますので。

 

【舟木石上神社の鳥居】


【女人禁制の立札、後ろが磐座と祠】

【舟木石上神社の磐座群、祠の後ろ、人工的な並びの石もある】

 

---
5、海辺では塩も生まれていた
 

山上の工房と海浜の資源生産

淡路の特色は、山上の工房だけでは終わりません。

富島遺跡、貴船神社遺跡、引野遺跡など、海浜部では弥生後期から終末期にかけて製塩遺跡が立ち上がります。


【貴船神社遺跡のモニュメント】弥生時代の人が竪穴式住居の前で製塩をおこなっています。

 

【製塩土器】


つまり淡路では、

山上では鉄器工房、
海辺では塩の生産、

という二重の生産体制が動いていた可能性が高いのです。

この構図はとても重要です。

塩は産地や内陸では貴重な物資で、通貨の代わりに使えます。

鉄は言うまでもなく貴重なツールであり、武器でもあります。

 


淡路は、内向きの農業中心地ではなく、周辺海域へ開いた資源生産の島だった。
それも、山と海の両方が役割を分担する形で動いていた。


この段階ですでに、淡路は「ただの島」ではなく、周辺海域を束ねる海上プラットフォームだった可能性が強くなります。


その2へ続きます。



注・主に依拠した一次資料・公的資料

舟木遺跡
https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/44401.html

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/36897.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48179.html

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48295.html

https://www.city.awaji.lg.jp/site/kouhou/30424.html

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/28635_72385_misc.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/50942_166540_misc.pdf

五斗長垣内遺跡
https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/30735.html

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/27206.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/27207.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/35134.html

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48164.html

松帆銅鐸・同笵関係・鉛同位体比
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/300999.pdf

https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/301019.pdf

https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/life/315212_331363_misc.pdf

南あわじ市滝川記念美術館玉青館 松帆銅鐸展示解説及び図録
 

 

ちょっとお知らせです。


今年の1月の話なのですが、四国中央市新宮町で発足した「四国まんなか研究会」、阿波古代史関係で面識のあった愛媛大学客員教授の越智先生のお誘いもあり発足イベントに参加してきました。


写真1) 越智先生の基調講演


写真2) 奥吉野川の大歩危小歩危渓谷


1日目が発足会及び基調講演、その日は温泉付きロッジに数名で宿泊し、地元の名士の方の差し入れオードブルとビール片手に古代史談義、



二日目が新宮と県境を挟んで山城町の史跡を探索しました。



いやこれがなかなか奥深いの。



あまり知られてない吉野川の上流でもある四国のまんなか地域、実は縄文から始まったすごい秘密が隠されてるんです!グラサン



例えば、、山伏の修行場でもあった地域にはすごい仏教建築や


写真3)宮大工も見学に来るものすごい彫り物の安楽寺本堂


例えば、


巨大な磐座のある神社、




写真4)巨大な磐座のある五十鈴神社



のような四国まんなかならではの秘境パワースポットが密かに眠っています。



そしてその公式ホームページができてました。



活動内容や会員申込フォームなどがありましたので共有しておきます。



ちなみに、「奥吉野川文明」って本当は文明ではなく文化なんだけど、越智先生と私の雑談の中で響きがいいね👍ということでキャッチコピーとして採用されました。



ご興味がありましたら是非!



第三章

百襲姫命と淡路島

~実は深くつながっていた、モモソヒメと母系と東瀬戸内の前線としての淡路島~


百襲姫命と淡路島。

この二つが深くつながっている、と聞いて、すぐにぴんと来る人は百襲姫マニア以外あまりいないと思います。笑

倭迹迹日百襲姫命といえば、まず思い浮かぶのは箸墓古墳。


纒向。


大和。


そして、巨大な王権祭祀の中心にいた巫で女王のような姿です。

だから、そこに突然「淡路島」が出てくると、少し不思議に見えます。

けれども、実はここにかなり大きな話が隠れているのではないか、と私は思っています。

一般にはあまり知られていませんが、百襲姫命の母をたどっていくと、その先に淡路島の王族が現れます。

 

倭国香媛やまとのくにかひめ意富夜麻登玖邇阿礼比売命おほやまとくにあれひめのみこと絙某姉はえいろね蠅伊呂泥はえいろね)です。

 

その父(モモソヒメの祖父)は和知津見命と呼ばれ、淡路に宮を構えた海神系の王族と言われています。

 


その淡路島、古事記の神話で初めに生まれた島と言われますが、その通り、ただの島ではない。

 

【写真1】播磨灘とその周縁の遺跡


東瀬戸内海のなかで、驚くほど重要な位置にいた島なのです。

つまり、百襲姫命と淡路島の関係は、単に後から付けられた飾りではないかもしれない。


もっと古い海上秩序や婚姻ネットワークの記憶を残している可能性がある。

今回はまず、その話をしてみたいと思います。

淡路島が、ただの島だと思ってる方はいないと思いますが、

その通り、瀬戸内海に横たわる最大の島です。

それだけでも十分に特別ですが、本当に大事なのは大きさより位置です。



【図1】淡路島は3つの海峡に接しています

 

この島は、北で播磨灘に開き、東で明石海峡をにらみ、南では鳴門海峡と紀伊水道に接しています。


つまり見方によっては、明石海峡、鳴門海峡、そして紀淡海峡へ向かう三つの重要ラインを押さえうる位置にある。

これはかなり重要です。

淡路島は、播磨、阿波、讃岐、紀伊水道方面をつなぐ海上結節点です。
言い換えれば、東瀬戸内海の交通と情報と物資の流れを切り替える前線です。

ここを通る舟。
ここで交わる海路。
ここから東西南北に見え、それぞれが異なる周辺の景色。

それをイメージすると、淡路島が東瀬戸内海で超重要であることは、むしろ当然と感じられるはずです。


【写真1】淡路島は、明石海峡・鳴門海峡・紀淡海峡へ向かう三つの重要ラインをにらむ海上結節点

 


しかも淡路には、ただの集落ではない弥生後期の遺跡がある

淡路島北部にある二つの弥生後期遺跡、

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡です。

この二つは、淡路島を理解するうえで本当に大事な遺跡です。

まず五斗長垣内遺跡。
これは淡路島北部の丘陵上に営まれた、弥生後期の鉄器生産村です。

発掘では二十三棟の竪穴建物跡が見つかり、そのうち十二棟で鉄器づくりが行われていたことがわかっています。


つまりここでは、鉄が少し持ち込まれたのではなく、継続的に鉄を加工し、供給する大きな拠点が存在していたのです。

淡路島がただの通過点ではなく、鉄を生み出す前線だったことを示す、非常に重い遺跡です。


【写真2】五斗長垣内遺跡から西の播磨灘を望む

 


【写真3】五斗長垣内遺跡。大型竪穴式円形建物の中は、弥生後期の鉄器生産工房

 

現地の資料館の説明では、朝鮮半島との関係も強かったとありました。おそらく当時の倭人圏であった伽耶諸国や鉄鉱石の取れる半島西南部だと思います。

 

そして、ここ数年の継続した発掘調査で遺跡の意味付けが変わってきているのがその北方の舟木遺跡です。

私はこの遺跡の規模を見るたびに、ただの山間地集落ではないと思っています。


むしろ、山上の王城のような中枢拠点。

舟木遺跡は、弥生時代後期全体にわたり標高一五〇から二〇〇メートルの丘陵上に広がる大規模遺跡で、鍛冶工房を含む多数の建物跡が確認されています。

 

その領域は五斗長垣内遺跡の六倍とも言われている。


出土した鉄器も非常に多く、ヤス、釣針、鏃など、海と陸の両方に関わる多様な器種が含まれます。


さらに、中央の尾根上では巨石祭祀遺構が現在まで舟木石上神社として古来から祭祀(女人禁制)が継続している。祭神は古代から続くものかどうかは不明ですが、周辺には八坂神社も存在しています。


鉄を作る。海とつながる。しかも巨石を祀る。
 

つまりここは、ただ海で塩を作って魚をとって生活する場所ではない。

 

工房であり、海上拠点であり、祭祀の場でもある。


しかも高所にあって周囲を見渡せる。

 


 

【写真4/5】舟木石上神社巨石祭祀跡(女人禁制)


【写真5】舟木遺跡の中央部にある池と巨石

 

【写真6】舟木遺跡の中央部の白色礫岩、山上ですが丸い小石もありました


なので私は、舟木遺跡をただの工房村でもなく、どうも王権成立前夜の重要な氏族(大田田根子系?)が押さえていた山上の宮、城的拠点として見ています。

 

ちなみに、住吉大社神代記(住吉大社所蔵の神宝、重要文化財)には、船木(舟木)氏の祖先系譜として「船木等本記」という部分があり、そこに大田田命(おおたたのみこと)とその子孫の記述があります。

 

そして、この淡路の舟木の地の南側に隣接する地区は太田とよび、今も存在していますが偶然でしょうか?



【写真7】「舟木遺跡。工房・祭祀・広域交流が重なる、淡路北部の山上中枢拠点だったが、今は山上盆地の田園風景

 

【図2】五斗長垣内遺跡と舟木遺跡の位置関係図、淡路北部丘陵帯に並ぶ二大中核遺跡。五斗長垣内は鉄器生産村、舟木は山上中枢拠点として読める

この二つを並べてみると、淡路島の姿がかなりはっきりしてきます。

海辺の漁村が点在するだけの島ではない。


丘陵上に高度な工房性と交流性を持つ拠点が置かれ、その背後に海上交通と広域ネットワークがあった島です。

しかも海辺では、富島や貴船神社遺跡などで製塩も始まっていく。
つまり淡路は、鉄と塩を同時に持つ島でもあった。

鉄も重要。
塩も重要。
しかも三つの海峡をにらむ。
これで重要でないはずがありません。

【写真8】淡路島では、丘陵上の鉄器生産と海浜部の製塩とが並行して立ち上がっていた


さらに淡路は、東瀬戸内の内輪だけで閉じていません。

【写真9】松帆銅鐸


弥生中期初頭といわれる最古級の松帆銅鐸は、荒神谷や加茂岩倉の銅鐸と同笵関係を持つとされます。
つまり淡路は、出雲を含む日本海側の祭祀財ネットワークともつながっていた可能性が高い。

ここまで来ると、淡路島はもう「国生みの神話の舞台」というだけではありません。
日本海側の技術や祭祀財を受けとめ、東瀬戸内海へ向けて組み替える再編拠点に見えてきます。

 




【図4】同笵関係説明図 淡路は出雲系祭祀財ネットワークの一角でもあった可能性がある。

そんな淡路が、百襲姫命の母系に現れる

ここで、ようやく百襲姫命の話に戻ります。

『古事記』をたどると、百襲姫命の母系の奥に海神と皇統の流れをもつ和知津見命が現れます。


この和知津見命について、『古事記』は
「淡道之御井宮に坐しき」
と記しています。

つまり、淡路に住んだ王族として、はっきり置いているのです。

しかも和知津見命の娘たちは、孝霊天皇の后となり、その系譜の先に百襲姫命や吉備津彦命が現れる。
ここで初めて、百襲姫命の母系に淡路島が出てくる意味が見えてきます。

淡路はただの海上拠点ではない。
王族記憶を持つ島でもあるのです。

ここで一つ大事なことがあります。

百襲姫命と、桃太郎のモデルとも言われる吉備津彦命は、同じ父母を持つ同母同父の兄妹です。
それならば、二人の背後にある血筋的な基盤も、政治的な背景も、本来はかなりの部分で共有されていたはずです。

つまり百襲姫命だけを大和の巫女王として切り離して見るのではなく、
吉備津彦だけを鬼退治の英雄として切り離して見るのでもなく、
このモモ姉弟の背後に何があったかを考える必要がある。

私は、その最初期の背景の一つに、淡路島があった可能性が高いと思っています。

淡路は、三つの海峡をにらむ海上結節点です。

弥生後期の鉄器工房がある。

播磨経由で日本海側とのつながりがあったことは銅鐸も鉄器も示している。
塩がある。

海人がいた。

出雲系祭祀財ネットワークと大田田命の痕跡もある。
和知津見命という淡路在住王族の記憶まである。

このような機能と始祖的記憶を持つ島が、母系の背景にある。
これは決して軽い話ではありません。

さらにその先には、辰砂鉱山を持ち、内海と太平洋、さらに伊勢・東海方面へも接続しうる阿波の問題があります。
この点はまた別の章で考えますが、少なくとも百襲姫命と吉備津彦命は、大和だけの兄妹ではなく、淡路と阿波という東瀬戸内海の重要基盤を背後に持つ姫と彦として見たほうが、ずっと実像に近いのではないかと思います。

モモ姉弟は、なぜ強かったのか

百襲姫命が纒向で最大級の崇拝を受ける巫女だったというのは、おそらく最後に見える完成図です。

けれども、その完成図に至るまでには、東瀬戸内世界の中で名声を高めていく過程があったはずです。
吉備を含めた広域の世界で、人々の記憶に残るだけの事績を積んでいった段階があったはずです。

その背景には、弟たちの武勇もあったでしょう。
吉備津彦には、吉備でもう一人の弟とともに温羅という鬼を退治して平定した、いわゆる鬼退治伝説があります。

けれども、武勇だけでは広域秩序は作れません。

舟がいる。
兵站がいる。
物資がいる。
海上交通を押さえる力がいる。
各地を結ぶ海人ネットワークがいる。

だから私は、こう考えてみたいのです。

モモ姉弟が強かったのは、バックに淡路島がついていたからではないか。

淡路という海上前線。
その背後の海人一族。
さらに阿波という資源と流域交通の基盤。

この二つを背景に持っていたからこそ、百襲姫命は祭祀権威を高め、吉備津彦命は武勇を実際の力として機能させることができた。
そう考えると、百襲姫命と淡路島の関係は、単なる系譜上の飾りではない。
むしろ、彼女が後に纒向で巨大な崇拝を受けるに至る、その前段階の現実的な力の源を示しているのかもしれません。

淡路は、国生みの島だから重要なのではない。
東瀬戸内海の前線として、人、技術、祭祀、海路、そして王族婚姻の結節点だったからこそ、後に最初にここに拠点を張った始祖の国生みの島として語り継がれた。


そう理解したいかなま。






参考文献・参考資料

・『史跡舟木遺跡保存活用計画』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/44401.html

 ※舟木遺跡の保存活用計画本体ページ。掲載日は2023年12月26日更新。 

・『史跡舟木遺跡保存活用計画 概要版』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/50246.html

 概要版PDF:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/36897.pdf

・『舟木遺跡』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48179.html

 ※舟木遺跡の概要、規模、拠点性の確認用。 


・『舟木遺跡出土品』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48295.html

 ※鉄器、祭祀遺構、出土品構成の確認用。 


・『広報淡路 令和2年12月号 No.189』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/site/kouhou/30424.html

 ※舟木遺跡発掘調査事業、約40ヘクタール規模、現在も調査が進行中であることの確認用。 


・『五斗長垣内遺跡発掘調査報告書について』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/30735.html

 ※発掘調査報告書公開ページ。23棟の竪穴建物跡、うち12棟の鍛冶工房跡、国史跡指定の確認用。 


・『五斗長垣内遺跡』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/35134.html

 ※五斗長垣内遺跡の概要確認用。第三章での位置づけ整理に使用。 


・『淡路島の弥生遺跡の動態と舟木遺跡』

 著者・発行主体:淡路市(掲載PDF)

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/28635_72385_misc.pdf

・『第Ⅱ章 遺跡の環境』

 著者・発行主体:淡路市(舟木遺跡関連PDF)

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/50942_166540_misc.pdf


・『松帆銅鐸同笵関係の調査成果について』

 著者:難波洋三(奈良文化財研究所客員研究員)

 発行主体:南あわじ市

 URL:https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/300999.pdf

 ※松帆銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸、荒神谷6号銅鐸の同笵関係確認用。本文中に難波洋三氏名が明記されています。 

・『伊弉諾神宮』

 著者・発行主体:淡路島観光協会(淡路島観光ガイド)

 URL:https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=448

・『大和大国魂神社』

 著者・発行主体:淡路島観光協会(淡路島観光ガイド)

 URL:https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=111


・『兵庫県神社庁 大和大国魂神社』

 著者・発行主体:兵庫県神社庁

 URL:https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6329021.html

※本稿では、淡路市・南あわじ市の公的資料、発掘調査報告書、保存活用計画、ならびに神社・文化財の公式公開情報をもとに考察した。



 

 【第2章】東瀬戸内はただの海路ではない

 

前回は、百襲姫は大和の中だけではどうも説明が足りない、という話を書きました。

 

では、その百襲姫像を支える背景とは。

 

私はまず、東瀬戸内そのものの見え方を変える必要があると思っています。

 

東瀬戸内というとなんとなく讃岐と阿波のある四国をイメージします。

 

でも、古代を考えるときに本当に大事なのは、陸や島だけではありません。

 

海には多くの港がある。

 

河口がある。

 

その先に平野があり、

 

さらに内陸へ入る川がある。

 

その途中に集落があり、

 

資源地があり、

 

海が見える小高い丘には首長墓がある。

 

そして、それらが海を介してひとつのまとまりとして動いている。

 

古代陸の道は今のように整備されていません。ほとんどが人が歩ける幅の獣道だったと思います。しかも多くが裸足🦶

 

海に出れば足の裏の小石を気にする必要はありません。

 

播磨灘は淡路島で蓋をされた比較的穏やかな内海です。

 

東瀬戸内地域を播磨灘を中心にした結節の世界として見たほうがいいのでは?と思っています。

 

 

 

まず播磨です。

 

海のことを強調した上で言うのもなんですが、播磨は瀬戸内の海辺の一地点、というだけではありません。氷上回廊や河川交通を通じて、日本海側ともつながっている場所です。

 

つまり播磨は、「瀬戸内というよりも本州側をイメージすると地域」

 

実際、弥生後期から終末期の丹後地域の鉄器流通研究をみると、日本海側・北部九州・瀬戸内・近畿・東海をまたぐ広域ネットワークが動いていたことが見えてきます。

 

その意味で播磨は、東瀬戸内の要地であると同時に、もっと大きな交通網の結節点だったと考える方が自然です。  

 

そのうえで、あえて東瀬戸内に目を凝らす。

 

この順番が大事です。

 

次に淡路島

 

ここは本当に興味深い場所です。

 

淡路島は、日本の始まりの島と古事記に書かれていますが、3世紀前期古墳が並ぶ島ではありません。

 

むしろ逆。

 

ところが、弥生後期から終末期には、五斗長垣内遺跡や舟木遺跡のような鉄器生産拠点や山間大規模集落が展開し、しかも製塩遺跡まで重なります。

 

つまり淡路は、「古墳を築いた島」ではなく、古墳成立前夜の生産と流通と海上交通を支える島として見た方が、ずっとしっくりくるのです。  

 

しかしその鉄器生産拠点は三世紀に入ると急速に消滅します。何故?

 

私はここで、ひとつ問いを反転。

 

「なぜ淡路の鉄器拠点は消えたのか」ではなく、

 

「なぜその時期には、淡路のような場所に鉄器拠点が必要だったのか」

 

と考えた。

 

もし、まだ生産や流通が畿内平地に一元化されていなかったとしたら、海上交通の前線拠点で鉄器の一次加工や補修、供給が必要だったとしても不思議ではありません。

 

後にそれが畿内や平地中枢に吸収されたとしても、それは淡路の重要性が低かったということではない。

 

むしろ、王権形成前夜には淡路周辺が先行して重要だった!びっくりことを示しているのかも。  

 

そして讃岐

 

讃岐は、後に詳しく書きますが、3世紀の積石塚の前方後円墳がまとまって出てくる地域です。

 

つまり讃岐は、石の墓制思想が前方後円墳という形をともなって大きく可視化される場所だった。

 

阿波はまた少し違います。

 

がある。

 

の墓制もある。

 

大河と流域拠点がある。

 

河口から内陸へ入り込む構造がある。

 

吉野川や鮎喰川、那賀川を見ていると、阿波は単なる海辺ではなく、海と川、そして山がつながることで力を持つ地域だったのだろうと思えてきます。

 

鳴門市板野にある萩原墳丘墓や徳島市の眉山の西丘陵上にある積石塚の前方後円墳、八人塚古墳の再評価も、そのことを裏づけます。

 

萩原墳丘墓は吉野川北岸の2世紀に大陸とも繋がる有力首長墓として、八人塚は孤立した一基ではなく、鮎喰川下流域東岸の首長墓として置き直した方が自然です。  

 

こうして見ていくと、

 

 播磨=広域交通網の陸上結節点

 

 淡路=海上生産・流通・中継の基盤島

 

 讃岐=積石塚前方後円墳の集中域

 

 阿波=朱と石の墓制と流域拠点の地帯

 

というふうに、役割の違う地域が組み合わさってひとつの秩序を作っているように見えます。 

私は、この姿こそが、後の大和王権に移っていく前の、東瀬戸内の実像に近いのではないかと思っています。百襲姫を大和だけで考えきれない理由も、ここにあります。

 

 次回は、その東瀬戸内の中でも特に重要な淡路島を見ます。

 

 
こんにちは、箸墓古墳の模型見てたら色々見えてきました。うちのAIの慈悲人君と長い間壁打ち会話を続けてきたことを全六章に分けてブログに残したいと思いますニコニコ



1章


百襲姫はどこから来たのか

〜箸墓古墳から逆に見えてきたもの〜



最近ずっと考えていることがあります。

それは、百襲姫とは、いったいどこから来た存在なのかということです。


記紀だけを見ると、百襲姫は当然のように大和の人物です。



箸墓古墳の被葬者とされ、大物主神との神婚譚を持ち、大神神社の神語りの中でも、王権祭祀に深く関わる女性として描かれています。



けれど、調べれば調べるほど、どうもそれだけでは足りない。


吉備にも痕跡がある。


讃岐には濃密な伝承がある。


そして阿波には、百襲姫その人の名が濃く残らない代わりに、その背景世界そのもののようなものが広がっている。


私は今、箸墓古墳の後円部を見ながら、こう考えています。


箸墓後円部には、東瀬戸内系の石の墓制思想と、吉備系の祭祀要素が重なっている。

そしてその統合を最もよく担いうる人物像が、倭迹迹日百襲姫命なのではないか。


つまりこれは、「箸墓の被葬者は誰か」という一点だけの問題ではなく、



王権成立期に、どの地域の何が大和へ運ばれ、どう再編されたのか



という問題でもあるのです。


その視点で見ていくと、百襲姫は単なる一地方の姫ではなく、複数の地域をまたぐ結節点に立っているように見えてきます。


大和では巫女。


吉備では姉神。


讃岐では水利と農業をひらく開発神。


阿波では、朱と石の墓制、その流域ネットワークの背景の中に立ち現れる原像。


この違いは、むしろ重要です。


なぜなら一つの人物像が、地域ごとに違う役割を持って残っているということは、そこに広域的な記憶の分担がある可能性を示しているからです。


私はその分担を、いまのところ大きく二つの層で考えています。


一つは、東瀬戸内の交流圏です。

国産みの島淡路島はもとより西播磨から家島諸島、小豆島、高松平野、津田、水主、板野、さらに阿波の河口世界へとつながる、海と川を軸にした動きのネットワーク。ここでは、人・資源・土器・石材・祭祀が播磨灘を介して動いていた。



もう一つは、吉備と後の大和の祭祀層です。


吉備が儀礼の語彙を与え、大和がそれを王権祭祀として再編した。


そしてその境目で、百襲姫という存在が特別な意味を持ちはじめた。


このシリーズでは、まずこの問題を順番にほどいていこうと思います。


•そもそも東瀬戸内にはどんな世界があったのか •特徴的な積み石の墓制はどこから来たのか

•それがなぜ纏向で王権墓になるのか

•百襲姫は各地でどう記憶されているのか

•そして最後に、百襲姫の出生地をどう考えるか


いったんの結論を先に言えば、


百襲姫は、大和だけでは生まれない。

吉備だけでも、讃岐だけでも、阿波だけでも足りない。


複数の地域の力が重なって、初めて立ち上がる人物像のように見えます。


一つの地域だけに固執すると見えにくい。


でも客観的な考古資料にも、抽象的でブレの多い伝承にもそれぞれ理にかなった理由がある。


だからこそ、古代史は面白いのです。。。