2045年、12月10日___。
自宅の洗面台で鏡と向かい合っている近藤輝瑠は、耳にかかるくらいの黒髪を丁寧にセットしている。何故なら、これから卒業イベントの一貫である、学校側が主催するプロムというダンスパーティーを控えているからだ。
アメリカやカナダでは、卒業を控えた高校生たちにはプロムは当たり前な習慣だけど、2020年、確か、東京オリンピック後くらいから、この日本でも一部の地域からおこなわれるようになったと聞いている。そんなプロムは今や、日本でも当たり前といえる習慣の1つだ。
就職先も決まって、残りの高校生活は気軽に過ごそうと思っている。周りの連中には大学や専門学校に進学するやつが多いけど、根っから勉強が嫌いな俺が行く場所じゃない。
でも、そんな俺でも夢くらいはある。10代の男には珍しいってよく言われるけど、俺は、親父になりたいんだ。
だけど、それは難しいのが現実だ。相手がいない訳じゃない。俺には〝ユウア〟という心に決めた恋人がいる。
そんなユウアも専門学校に進学しちまうけど、別に学生だからといって結婚できない訳じゃないし、地元の池袋市内にある専門学校なら、尚更可能だ。
それでも親父になるのは難しい。こればかりは運に任せるしかないのかもしれない。
なんせ、今の出生率は0,25%と、4組の夫婦の内、1組しか子を授かれない割合だからだ。
子供が欲しくない訳じゃない。ほとんどの夫婦が日々努力していると聞いている。それでも出生率が上がらないのは、どうやら文明の発展が進むにつれて、空気汚染が激しくなり、人体に害を及ぼす新たなバクテリアやウイルスが誕生してしまい、そういった汚染が女性の卵巣に悪影響だからだと、どこかのニュースで見たことがあった。
まあ、それをまだ悩む段階じゃない。だって、まだプロポーズさえしていないし、もしかしたら断られちゃうかもしれない。
だから今日は、人生で大一番の大事な日なんだ。
「よし、完璧だ」
彼女好みのふわっとした髪型にセットできた。鏡で最終チェックしている服装も、細目なスーツで彼女好みだ。
「あとは……」
と、洗面台に置いてあったバッグを覗いて、手に取った赤い指輪ケースを開いた。
「これを渡すだけだ」
小さいダイヤだけど、バイトを掛け持って購入した婚約指輪だ。
あいつなら喜んでくれるはず……。そう自分に言い聞かせながら、ケースを閉じてバッグにしまった。
そして鏡に映る自分を見つめて、頑張れ、と気合いを注入するように頬を叩き、バッグを掴みながら洗面台を後にした。
白い壁に覆われた玄関で苦戦した。買ったばかりのブーツが硬くて入らない。いや、手が震えている。緊張しているのか?
今夜のプロムで、俺が彼女にプロポーズをすることは、クラスの全員が知っている。余は、彼女だけが知らないサプライズだ。
この計画を密かにクラスに広めてくれたのは、親友の〝ガクト〟で、こいつは一週間前から『ふられたらどうすんだ?』と、俺のことをからかってきていた。
そのせいか、待ち合わせの場所へと向かう直前に不安が込み上げてきたのだ。
「テルさーん、これは忘れちゃダメですよー」
メタリックな体をした〝ヒューマノイド〟が、白いセラミックタイルの廊下から慌てて追いかけてきた。
こいつは各家庭には一台はある、言わば、人間の生活をいろんな角度から支えてくれる〝生活用人型ロボット〟だ。
人間と違うのは全体的に毛がないという見た目だけで、話し方も動きも、表情までも人間と変わらず、ロボットというよりは家庭の一員として誰もが接している。
「ほらっ、これー」
ヒューマノイドは、〝近藤輝瑠〟と記された学生証を差し出してきた。
「プロムに参加できませんよーっ」
「あ、あっぶねー、よかった」
俺が慌てて学生証を受け取ると、ヒューマノイドは、もう、という風に言った。
「いい加減、しっかりして下さいよっ」
苦戦していたブーツを何とか履いた俺は、
「まあ、そうカリカリすんなよ」
と笑顔で誤魔化して、シルバーブレスレットを右手に巻きながら、
「サンキューな」
と軽く礼を言い玄関を後にした。
白いドーム型の家が並んでいる脇のアスファルトの歩道を歩いた。この辺一帯は住宅街だけど、四方八方には高層ビル郡のジャングルが延々と広がっていて、遠くの景色なんてものは見えない。いや、その遠くの景色もまた、ビル群のジャングルで密集している。
これほど発展したのも、ヒューマノイドが人間の代わりに色々こなしてきてくれたからだと、個人的には思っている。
ここ10年くらいで、大型地震の発生が頻繁になり始めていると聞いている。それでもビル群が崩れていないのは、耐震技術が優れているかららしい。とは言っても、この最新耐震技術がヒューマノイドが発明する前は、至る所で悲惨な状況が広がったとも聞いている。
その頃の俺はまだ園児だった為、大厄災の事は、あまりよく覚えていない。
クリーム色の車道を、電動音しか発さない車が通りすぎていった。その後に、一定の距離を保って三台の車が通りすぎてゆき、20㎝ほど浮いて走行している車を眺めながら、いいな、と羨ましく思った。
よく思い返すと、事故という言葉はここ数年聞いたことがない。小学校高学年の時に一度だけニュースで見たっきりだ。
それは当然だ。事故なんて起きるはずがない。何故なら、車はもちろん、バイクも電車も、大半の乗り物は自動運転システムで管理されているからだ。
クリーム色の道路はその為の道路だ。
推進用コイルなどの設備が埋められた車道は、磁気石を備えた車両を、発生させた反発力と吸引力を使って浮上させている。そして〝人工知能〟が搭載されたコンピューターによって、車が自動操作されている。
だから、運転免許証なんてものは必要ないと思っていたけど、その義務は免れないようだ。理由は単純で、人工知能を搭載したコンピューターとはいえ、システムが故障した場合を考えての、言わば、補助的な役目なものらしいのだ。
それにしても太陽の光が熱い。そろそろ日が沈む時間帯だけど、タンクトップとワイシャツにネクタイをしめてスーツを着ているが、このネクタイとジャケットを脱ぎたいと思った。
12月は薄手のロンティー1枚で十分だ。だけどそれは来月には急変する。1月中旬辺りからは急激に冷える。この時から2月一杯の時期には雪は降るし、三枚は着重ねないとやり過ごせない。
でも女って不思議だ。その極寒時期は雪を嫌って不満を口にしているが、まだ極寒ではないクリスマスが近いこの時期は、ホワイトクリスマスという伝説への憧れが話題になっている。
恋人のユウアもその一人だ。だから俺は言ってやる。ホワイトクリスマスを過ごしたいなら、ロシアから上に行くしかないな……とな。
《ガクトさんから電話です》
音声が聞こえた。シルバーブレスレットが青く発光している。
これはアクセサリーでもあるが、通信機器でもあるのだ。
「今向かってるよ」
俺が言うと、青色の光が空中に浮き出てきた。
すると、歩く速度に沿って172㎝の俺とほぼ同格な人型へと変化し、色黒肌で短い金髪を立たせた〝ガクト〟の姿となった。
細い眉の下の奥二重の目は、いつ見てもチャラそうな雰囲気だ。これはただの映像だ。
「早くこいよっ、まーじかっけえから」
映像のガクトは嬉しそうに言った。
「分かったよ」近藤は面倒そうに返した。「もう直ぐで着くから待ってろよ」
と、映像を遮断して仕方なく走った。
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