イワンの少年時『僕の村は戦場だった』 | Перестройка

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映画とは、スクリーンの自殺である。

この映画は、を描くのを拒んでいる。

兵士の死体は映る。三つばかり。だが、死体というのは謂わば死の事後報告である。死はすでに肉体を喪い、印刷され、暗示されるに留まる。そこには決定的に葡萄酒の匂いが欠けている。

あの少年の死はどうなるのだ――そして行方の知れない母や妹は?――彼らは戦争の奴に死体としての権利を剥奪され、焼失を免かれた書類と頼りない記憶によって、かろうじて死を許されている――彼らの死を確認した者がいないからだ。斯かる為、死は厳密に規定され得ぬまま、不安定な資料として、永久の死の不在・死の失踪状態に宙吊りにされる。戦争による死は常に仮申請である。

少年は審判の日を待ちわびて眠っている。……

 

 

(i)少年と中尉・寝台・蠟燭

 

イワンは母や妹の死を視たのか。あるいはそうかも知れない。

短剣と鐘と復讐の遊戯。これら少年の精神に食い入った死の優待券によって、少年は終始、沈黙を余儀なくされる。死はこういうとき、しばしば宗教的な性質を帯びる。

少年は独り死を抱えている。彼は金科玉条のように死への言及を徹底して拒む。そして少年は茨冠も被らぬまま忽然と消える。スクリーンがその瞬間を映さないのは少年の意思を尊重したからであろう、丁度彼自ら、母と妹の死へ語り及ぶのを拒んだように。

映画は徹頭徹尾、少年の拒否に貫かれている。絞首台。少年の首が転がる。今となってはそんな首のきれはしに何の意味があるものか――おまえのその視線がスクリーンを撃ち抜くが早いか、早々に死の現実は否定される。おまえは奪われた過去を強弁する。

映画は、おまえの最後の願いを聞いてやる。奪われた光景が、死体の眼球から噴き上がって鮮やかに我々を、少年を拉し去る――そこは輝かしい一面の海、白樺。母が呼んでいる、妹が呼んでいる。ようやく少年の拒否は解放される、戻ってきたのだ、子供へ。

だからイワンは走った、放牧と勘違いした死が少しでも永く、この邪気のない企みを放任して呉れることを期待して。だから走った、イワンは走った、白樺へ、白樺へ、白樺へ――

 

「なあ、ガリツェフ、マーシャどうだ。実に静かじゃないか、戦争は」

 

原題は"Иваново детство"「イワンの少年時」――現在の彼から奪われてしまった記憶の墓碑銘である。

映画は少年の夢ではじまるが、スクリーンはすぐさまそれを打ち消し、彼を現実へ連れ戻す。夢が覚めて、少年は敵地から脱するべく、湿地帯へ侵入する。ここでタイトルが入る。夢の海辺。現実の湿地帯。アイロニカルなタイトル・インである。彼が斥候に拘り、子供として学校へやられるのを拒むわけは、このタイトルにある。つまり、イワンはもう子供に戻れない

以降、彼は断続的に夢を見続ける。夢は甘美なようでいて、触れるとその髄に、不穏なドラマを孕んでいる。映画は現実と夢との単純な対立にNONを突きつける。イワンは自身の願望と闘っているのである。

夢は次から次と彼を襲う、しかし記憶へ要請を出しているのは自分自身なのだ、この矛盾が現実へ病的な顔をして帰ってくる、彼は夢に拒まれているのではなく、自ら懇願しておきながらその夢を壊しているに過ぎぬ、自身の持て余した幼児の玩具として。だから彼の魂は四六時中憔悴し、昏睡し、漂っている、どこへも行かれず、もはや自分ではコントロール不能の、不安定な意識の空洞を懇願する、現実では夢に頼れぬ、そしてイワンはもうどこにもいない。現実は愈々死んでいき、記憶はいっそう甘美になる。奪われた現実の靈が記憶の上前をはねる。イワンは何のために生きているのか、すでに分からなくなっている。記憶か現実か――振り子のように揺れて、死を待っている。映画は少年にささやかなモラトリアムを与える、温情として。爆撃された家屋、老人、死んだ妻の帰りを待っている、扉だけが残った家。茨のかたちに割れた柱――釘を捜しているんだ、そんなかたちじゃなかった、もっと大きかった、妻が帰るまでに扉を直しておかなければ。照明弾。林檎。湿地帯。ガリツェフ――火、母、山羊、井戸!

 

「この井戸深い?」「ええ深いわ。うんと深いと、晴れた日でもお星様が見えるのよ」

「どんな?」「どんな星でも」

「見えるよ母さん」「そうよ、あそこに」

「なぜ見えるの」「星には夜中だからよ、ほら、夜みたいでしょう」

「夜じゃないよ。今は昼間だ」「私達にはそうだけど、お星様には夜中なのよ」

 

マーシャとイワンは、映画のなかで一度も出会わぬまま、戦場を離れる。かるが故に息子は、聖母によるピエタを永久に喪った。

マーシャは看護兵である。彼女は殆どのシーンをホーリン又はガリツェフ――イワンを学校へ送り出す二人――と過ごす。

ホーリンは白樺の林で彼女と遊ぶ。ガリツェフは彼女を忌避し、戦線から離脱させる。マーシャとイワンが戦場を去るのは同日である。マーシャはガリツェフの命で病院へ戻る。イワンは中佐の指示で幼年学校へ行かされる。

 

(ii)左からイワン、ホーリン、ガリツェフ

 

どちらも本人の意思とは関係なく戦場を離れる。つまり子供の世界へ。イワンは殺される。マーシャはどうなったのか。ホーリンは看護兵に「ウクライナの出身か」と聞いた、それと関係があるのかわからないが、彼女は殆ど喋らない、今自分がここで何に従事しているのか、何をさせられているのか、抑々ここが何処なのか――神経質に優雅に・不必要なほど見開かれた目は、それをまったく理解しないし関心も示さぬ。何を考えているのか窺い知れない。……

マーシャは少年と表裏一体をなしている。戦場にあって暴力の圏外にいるように、マーシャの存在は浮いている。そのせいか、映画は彼女が現れると明らかに動揺する、キャメラは不安定になる。夢のように、夢へ引き戻されるように、夢が不意に現実に顔をのぞかせたことへの侮蔑とよろこび……だからキャメラはアンビバレントに彼女を映す、まるで反抗期を迎えた少年が見せる母への悪態のように。マーシャ。唯々諾々のマーシャ。映画はお前に、イワンの母親になることを命じた筈だ。マーシャ、お前のまなざしの見つめる先は、だから、井戸と星なのだ。

 

(iii)マーシャ・白樺の林

 

彼女とイワンの母に何か関係があるのか、それはわからない。なぜ二人は出会わなかったか。映画は少年と女性が接触することを頑なに拒む。少年は成人男性に囲まれている。ところが、夢のなかは、母と妹の記憶しかない。だから、マーシャもすでにこの世にないかも知れぬ。イワンの母に似た女。彼は最後の夢で一本の白樺へ入っていくが、一方、同じ白樺の前で、マーシャは愛を知ったのだ、ホーリンによって。

 

(iv)マーシャを抱くホーリン

 

「戦争は男同士でたくさんだ。女なんて不要です」

「女など眼中にないか。立派だよ」

 

ガリツェフは、イワンを夢から救い出す。井戸の底を、母親と一緒に覗き込んでいると、いつしか水のなかにいて、先ほど二人して見下ろしていた入口を見上げている、母の姿はなかった、彼女のレエスが落ちてくる、そして彼女は死んでいる……食事、寝間着、蝋燭。少年は目を覚ます。寝言を言ってなかったかと少年は聞く。言っていないと中尉は答える。

少年は眠ったあとに、ガリツェフに抱えられて寝床へ移されたのを知らない。水と火と、安らぎに満ちた、そこはかとない同性愛の匂い立つガリツェフの抱擁。そしてピエタの暗示が捉える――ラストシーン。夥しい書類のなかに、ガリツェフは見つけた、イワンが眠っているのを。……

少年は眠ったあとに、寝床へ移されたのを知らない。