原節子が最も美しい『麥秋』


 原節子が死亡したことが判明した直後、新聞、週刊誌のマスコミから、何本も電話がかかって来た。そこで共通に質問されたことは、「原節子が42歳で引退した理由は何か?」だった。白内障、父や兄などの身内の死亡、頼っていた姉婿・熊谷久虎演出の不調などの理由もあるが、「決定的な引き金になったのは、小津が死んだことです」と答えた。それは、彼女が引退したタイミングに注目すれば理解できる。



拙著「殉愛~原節子と小津安二郎」(新潮社刊)の巻末には、原と小津のフィルモグラフィーを、上下段に比較して掲載している。各々のスタートは異なっていたが、2人の最後の作品は同じ所で終わっている。まるで一体化するかのように、線を引いたように一致していることが判るはずだ。原は、小津の葬式の時、葬儀場の外からも聞こえるほどに号泣したという。


もう一つの共通した質問は、「原と小津の間に恋愛は存在したのか?」だった。これは、小津の作品と2人の言動を見れば、自ずと分かることだ。「晩春」(49年)で初めて顔を合わせた時、小津の頬がぽっと赤くなったというのは有名な話だ。小津は、原と出会うことによって、〝小津調〟と呼ばれる自分なりの映像文法を確立した。原は大根役者から脱皮して、飛躍的に演技力を高めた。その出会いは、日本、いや、世界映画史に輝く幸福なコンビネーションだったといっても過言ではない。


小津は続く「麥秋」(51年)と「東京物語」(53年)で、〝紀子〟という同じ役名を原に与えている。これは自分のミューズを原節子に決め、〝家族の崩壊〟というテーマを描こうとする小津の覚悟を表している。


ところが会社は、「原のギャラは高いから他の女優にしてくれ」と言う。「原に出てもらえなければ、この作品は中止する」と小津は激怒した。その話を聞いた原は「私のギャラは半分でもいいから、小津さんの作品に出演したい」と言って、小津をいたく喜ばせた。


その作品「麥秋」は、私見によれば、原節子の最も美しい映画である。それは小津が惚れていたことの証しに他ならない。特に砂浜のシーンにおける紀子さんの美しさは、尋常ではない。すでに恋の火花はバチバチと散っていたのである。


子持ちの男性と結婚することになった紀子を、兄嫁(三宅邦子)が気遣う。「本当はねお姉さん、あたし40になってもまだブラブラしているような男の人ってあんまり信用できないの」と紀子が言う。リハーサルの時、この言葉のすぐ後に、小津は間髪を入れずに付け加えた。「でも、小津さんは別よ」。スタッフ一同、大爆笑となった。しかしこの時、冗談めかして言った小津は、案外そのなかに、本音を込めていたのかもしれない。                (この項続く)