9月5日に死亡していた昭和の大女優・原節子。彼女を支えた3人の男たちのことについて書いてみよう。



 まず熊谷久虎。大分県中津市出身の彼は、京都の大将軍にあった日活撮影所に入社。庶民に根差したリアリズムの現代劇を監督していたが、会田光代という女優と結婚する。


 1934年、日活が多摩川に撮影所を建設したのをきっかけに、夫婦は東京に移って来る。保土ヶ谷の光代の実家に立ち寄って、光代の妹・昌江と連れ立って、江の島見物に出かけた。そこで久虎は、妹を誘ったのだ。「どう、昌江ちゃん、女優にならない?」


 昌江は翌年、「ためらふ勿れ若人よ」(35年)でデビューする。その役名が〝節子〟だった。撮影所長は彼女に芸名を与える時、ふと浮かんだ〝原〟をその上に付けた。それが、原節子が誕生した瞬間だったのだ。当時、彼女は15歳。


 久虎はその後も、ずっと原節子の後見人を務めている。日独合作の映画「新しき土」(37年)が完成した時、彼女に付き添って、世界一周旅行にも出かけた。原節子はベルリンで、振り袖姿で挨拶し、やんやの喝采を浴びた。


 この頃から、国策映画がさかんに作られる。久虎も、「上海陸戦隊」(39年)、「指導物語」(41年)を監督。原節子も、前者では日本兵に抵抗する中国娘、後者では、頑固な老機関士(丸山定夫)の賢い娘を演じて、協力している。


 久虎は以後、映画をぱったりと撮らなくなった。活動を国粋主義の思想団体「スメラ学塾」に移し、采配を振るった。活動資金は陸軍省と情報局から出ているといわれた。まさに極右と極左は紙一重。彼の転向は周囲を困惑させた。


満州と韓国の国境警察隊の活躍を描く「望楼の決死隊」(43年)の時、原節子は監督の今井正に、久虎から託された手紙を渡した。そこには、「日本国民の目を北方にそらそうとするのはユダヤ人の陰謀だ。そんな映画は即刻中止されたし」と書いてあった。「当時、節ちゃんもユダヤ人謀略説を唱えていたのには驚いた」と今井は言う。原節子は久虎に対しては、異常なほど従順だった。それがなぜか?は謎である。


戦後、久虎は「芸研プロ」を設立し、原節子を主役にして、「智恵子抄」(57年)他、何本か製作した。しかし観客の心をつかむ作品とはならなかった。小津安二郎監督の死後、原節子はこの姉夫婦の鎌倉の家に移り住み、同棲生活を始める。近所付き合いもせず、その家から出ようともしなかった。


1986年、一大の英傑・熊谷久虎は82歳で死去した。彼は戦後、監督の輝きはついに見られなかった。しかし原節子を映画界に引き込み、彼女が慕った義兄として、日本映画史にその名を刻むことだろう。