「月光の夏」撮影中の若村麻由美(左)(1992年撮影筆者)

1992年8月、ロケ隊を取材するために、福岡県の甘木小学校を訪れた。映画は、鳥栖市を舞台にした「月光の夏」(93年)。ここを鳥栖国民学校に見立てて、撮影していたのだ。


講堂の外の掲示板には「陸軍少年兵募集」のポスターが貼られ、クリクリ坊主にした小学生のエキストラたちが待機していた。講堂に入ると、若村麻由美さんがゆっくりとピアノを弾いていた。「私も〝月光〟の曲を弾くシーンがあるので、暇な時は、こうやって練習しているんです」と言った。


終戦の年の6月、彼女が目撃したのは、目達原飛行場(現自衛隊目達原駐屯地)で特攻を待つ隊員2人だった。一人はピアノ科の学生。彼らは長崎本線の線路を歩いて、鳥栖国民学校に行き、今生の別れにと、ベートーヴェンの「月光の曲」を弾く。彼らは特攻で飛び立ったが一人は戦死し、一人はエンジンの不調で引き返す。その隊員(仲代達矢)が、戦後40年間、生き残った負い目にさいなまされる。


私はこの話は、てっきり実話であり、ノンフィクションかと思っていた。ところが原作の「月光の夏」のあとがきを読むと、作者の毛利恒之氏は「本書は、実話をもとに、さまざまな事実をふまえつつ、創作した小説(ドキュメンタリー・ノベル)です」と断っている。つまり、半分は本当で、半分はフィクションだというのだ。


どこまでが本当かというと、2人がピアノを弾いた所までだ。実際は、2人とも出立する日にちの関係で、結局特攻はしなかったという。2人は戦後も生き伸びたが、一人は亡くなって、一人は行方不明になったというのが真相らしい。


その真実を聞いた時、私だったら、どんなシナリオにするか?と考えたことがある。戦後生き残ったと噂され、英雄視された特攻隊員を周囲の関係者たちが探すが、実は彼は特攻に行っていなかった。ヒーローを美化して描くよりは、そんな立場に立たされた人間の側から描いた方が、反戦映画としては面白くなるのではと思ったことがある。


ところが、それと同じモチーフをもった映画が、その後に登場したのだ。監督はクリント・イーストウッド。映画は「父親たちの星条旗」(06年)。硫黄島の戦いで、米軍は摺鉢山に星条旗を掲げた。その瞬間をとらえた有名な写真に写った6人は本国で英雄視される。ところが、その写真は実際は、再度旗を立てさせた〝やらせ〟であり、6人は戦闘とは関係のない伝令兵だった。


前回述べた「肉弾三勇士」のエピソードと同様に、戦争を始めた国家や軍部は、戦争を賛美するために、ヒーローを仕立て上げる。その下で苦しんだ兵士。こうした〝作られたヒーローの悲劇〟というテーマをもった、もう一つの「月光の夏」が作れるのではないだろうか。