「肉弾三勇士」の勇姿を描いた戦前の絵画

  

  昭和7年(1932年)3月4日、佐賀市馬責馬場にある映画館「昭和会館」(かつての平劇)に、墨染めの衣を着た托鉢僧が、スクリーンに見いっていた。彼の名前は種田山頭火。漂泊の俳人である。彼は日記に、こう書いている。「一杯やってから活動へでかける。妻吉物語もよかった。爆弾三勇士には涙が出た」


2日後、彼は佐賀駅でこんな光景も目撃した。「行乞して、たまたま出征兵士を乗せた汽車が通過するのに行き合わせた。(略)旗が動く。万歳々々々々の声―私は覚えず涙にむせいだ。私にもまだまだ涙があるのだ!」


山頭火が佐賀で見た「爆弾三勇士」とは、たった10日前に起こった事件を描いた活動写真だった。同年1月に勃発した上海事変によって、久留米の第18大隊に出動命令が下った。2月22日、上海北郊8キロの廟行鎮での戦闘の話である。3人の1等兵が、鉄条網を突破するために、身体に爆弾を結び付け、敵陣に突っ込んで突破口を開いたと宣伝された。3人はその場で戦死。

 

  翌日には内地にその報が届き、その翌日には東活シネマが、「忠烈!肉弾三勇士」のタイトルで早くも映画化を決定している。映画会社は次々に名乗りを上げ、計7本の作品が競作された。もちろんどれもが無声映画である。驚くのは、その製作期間の速さだ。当時は映画がテレビの役割を果たしており、時事ネタを1週間ほどの猛スピードで即製していたのである。

 

  一番乗りは3月3日に封切った新興キネマと河合映画と赤澤映画だった。タイトルは「肉弾三勇士」、「忠烈肉弾三勇士」、「昭和の軍神・爆弾三勇士」。三勇士の呼び方は、肉弾三勇士とも爆弾三勇士とも呼ばれたが、山頭火が佐賀で見たのは、表記から察して後者だったと思われる。

  

  10日に封切った日活の「誉れも高し爆弾三勇士」では、主役の江下武二一等兵を演じたのは、デビューまもない島津元だった。この新人スターは、後に芸名を変え、佐分利信と名乗ることになる。


3人の英霊は、映画だけでなく、演劇、松竹レビュー、人形浄瑠璃、歌舞伎、歌謡曲などに題材を提供し、全国に異常なまでの〝三勇士〟ブームが巻き起こった。3人の老母たちは、〝軍神の母〟となって、荒木貞夫陸軍大臣から金一封を授与。さらに各地に銅像まで建造された。


佐分利信が演じた江下一等兵は、佐賀県蓮池村の出身である。このため、地元・蓮池公園にも、江下伍長(死後は2階級特進)の銅像が建てられた。しかし昭和17年に、戦争協力のための銅供出によって撤去され、現在は台座が残るのみとなった。ところがその幻の江下像が、最近復活したというのである。一体、どこに建てられたのか? それは意外な場所だった。      (この項続く)