「東京裁判」の証人台に立つ東条英機(中)


 〝終戦もの〟の傑作として、「日本のいちばん長い日」(67年)と双璧となる映画は、「東京裁判」(83年)だろう。この映画を見れば、第2次世界大戦の経緯がよく分かる。〝発端〟を描いた戦争映画は多いが、日本人が曖昧にしている戦争責任を追及した映画は少ない。その意味では、戦争の〝結果〟を考えさせる映画として重要だ。



 敗戦国ドイツと日本の違いでよく言われるのは、ドイツは、大戦の反省を徹底させ、それを教育によって次世代につなごうとしている。それに対して、日本は大戦を総括せず、学校で現代史も教えないので、若者たちは驚くほど戦争を知らない。いわばそんな彼らが、戦争を学ぼうとする時の最適のテキストといえるかもしれない。



監督の小林正樹は、早大文学部で会津八一に師事した変わり種。1941年の卒業と同時に松竹入社。しかし応召され、満州でソ連国境線の警備に当たった。終戦時は宮古島にいて、沖縄で捕虜収容所生活を送った。後に監督する満州を舞台にした「人間の條件」(59~61年)6部作の生々しさは、まさに彼の実体験によるものだ。そんな筋金入りの彼が、生涯をかけて作りたかったのが、「東京裁判」だった。


 基盤となったのは、米国国防総省(ペンダコン)に保管されていたフィルム。3台のカメラで、克明に記録されていた。その膨大な資料の山から、スタッフは約170時間分を抽出。それに当時のニュース映画や各国の記録映像を取り混ぜて編集し、4時間37分のドキュメンタリーにまとめた(編集=浦岡敬一)、。製作期間5年、製作費用4億円。それを一出版社である「講談社」がやり遂げたというのも快挙である。


 この映画で重要なのは原音。米軍は映像だけでなく、音も収録していた。おかげで、東条英機や板垣征四郎や溥儀の肉声が聞けるのも、この映画の大きな特徴だ。


 ところで、脇の話になるが、この映画が地上波で放映されたのは、私の記憶によれば2回だけ。最初の放映時は、戦後50周年の記念番組としてだった。もちろんビデオデッキをセットして録画しておいた。ところがその時間帯に起こったのが、日航機の墜落事件。つまり20年前の1995年8月12日だったのだ。


 番組はどんどん後ろに追いやられ、特別番組が差し込まれた。ところがそのおかげで、ジャンボ機が行方不明になって、慌てふためいているスタジオの様子が、図らずも収録されていた。今となってはこちらの方が、歴史的瞬間を記録した資料として貴重である。


 2度目の放映の時には、かなり大きな地震が発生した。震度を示す数字や、津波の予想範囲を示す地図が画面を占有。この映画は特に字幕スーパーが多いので、鑑賞などとても出来たものではない。なにしろ「東京裁判」は、テレビ放映に関しては、呪われている。


 8月が来れば思い出すのは、終戦のこと、日航機事故のこと、そして、「東京裁判」のテレビ放映のことである。