岡本喜八監督が描いた絵コンテ。まるで劇画


 オリジナル版「日本のいちばん長い日」(67年)が、8月15日、NHKBSで放映される。橋本忍の名シナリオが完成した後、いろいろな宣伝媒体では、〝監督・小林正樹〟と報道されていた。「人間の條件」6部作を撮った巨匠である。ところがこの巨匠が、プロデューサーの藤本真澄と大喧嘩を始めた。理由は小林の映画の撮り方にあったらしい。


 というのは、小林はもともと松竹の監督で、カットをシナリオの順番通りに撮っていく〝順撮り〟を旨としていた。それが役者の真情を高めるのにも効果的だと考えた。しかしそれでは、とても8月の公開時には間に合わない。


小林の直前の仕事は、「上意討ち・拝領妻始末」(67年)だった。三船プロの作品で、プロデューサーも兼ねていた三船は、予算のことも心配しなければならなかった。だから、小林の能率を無視した頑固な撮り方には不満だった。そんな三船の不満が藤本に伝わったのかもしれない。

 

  「監督を変えたいが、誰がいいだろう?」と、藤本は橋本忍に相談した。橋本は、思わず「岡本喜八ではどうか?」と答えた。その時、藤本は即座に、「喜八は草書の字は書けるが、楷書の字は書けない」と言ったという。草書は〝軽快な〟という意味で、楷書は〝重厚な〟という意味なのだろう。藤本の頭の中には、岡本は「独立愚連隊」シリーズの監督というイメージしかなかったのである。しかし結局、岡本がピンチヒッターを務めることに急きょ決まった。

  

  この頃、岡本がシナリオを書き始め、次回作として用意していたのが、「肉弾」(68年)だった。彼は、「〝終戦〟をテーマにしたものであっても、僕は庶民にとっての終戦を描きたかった。企画段階から知っていた、雲の上の人しか登場しない『日本のいちばん長い日』には、常々対抗しようと思ってた」と説明する。つまり、アンチ『日本の~』を表明していた当の岡本に、監督の白羽の矢が立てられたのだ。後に、「日本の~」を撮って不満足だったから、「肉弾」を自費で完成したといわれたが、実は、順番からいえば、「肉弾」が先だったのである。

 

  岡本に決まったのが、公開の3か月前。モタモタしてはいられない。岡本は綿密な絵コンテを書き始めた。この絵コンテは、まさに劇画そのもの。1200という膨大なカットを、2か月間で猛然と撮り上げた。

 

  結果的には、岡本喜八に代って良かったのかもしれない。小林では演出が重厚過ぎて、重苦しくなっていたからだ。岡本の草書体ともいえる軽快な演出は、劇画タッチのダイナミックな効果を生み、今の若者に見せても全く遜色がない。

 

  一方、降ろされた側の小林正樹は、代わりに、「東京裁判」という劇映画で〝終戦〟を描こうと思った。八住利夫が脚本を書き、広田弘毅を主人公にした劇映画だ。結局この企画もつぶれたが、小林はその思いを、後に4時間のドキュメンタリー映画「東京裁判」(83年)として結実させるのである。