岡譲二が東宝スターのサインを集めた出征のための寄せ書き。

長谷川一夫、水谷八重子の名が読める


岡譲二という戦前の二枚目俳優がいる。彼は佐賀に深い関係をもった俳優である。



彼自身は東京生まれだが、祖父が鍋島藩の勘定方を務めた葉隠武士だった。金融のつながりがあった関係からか、父は静岡銀行の頭取に就任。岡も立教大学商科を卒業して、コロムビアレコードの宣伝部に就職する。友達だった日活本社の宣伝部員から、「その美貌なら俳優になった方がいい」と勧められ、1929年に日活入社。その後、映画会社を転々とした。


松竹蒲田の入社時、撮影所長の城戸四郎が酒好きだったので、ジョニー・ウォーカーをもじって、岡譲二と芸名を付けられた。「非常線の女」(33年)で、田中絹代と共演。小津安二郎監督唯一のギャング映画で、岡のバタ臭い容貌が、米映画的なニュアンスを出している。


日活多摩川撮影所に移ってからは、内田吐夢監督の「生命の冠」(36年)で、原節子の兄役を演じ、東宝に移籍してからは、黒澤明が脚本を書き、山本薩夫が監督した「翼の凱歌」(42年)で主役の飛行機乗りに扮した。


戦後は、54年に岡譲司に改名。新東宝の「大東亜戦争と国際裁判」(59年)では阿南陸相、東映の「月光仮面・幽霊党の逆襲」(同年)では首領の悪役、「遊星王子」(同年)では悪の帝王・まぼろし大使役と、硬軟合わせた脇役に徹した。


岡譲二の本名は中溝勝三という。この中溝家の墓が、佐賀市唐人町の曹洞宗の寺・城雲院にある。墓石の裏には「昭和十五年、中溝勝三建立」と書かれている。絶頂期だった頃の岡が、寺にバラバラに散逸していた中溝家の墓石を一か所に集め、弔ったことが推測できる。


そのため、岡は佐賀を訪れて、何度かこの墓に参っている。現在の24代目の住職・浦郷公道師は「母によれば、戦前に2、3度、戦後に1度、お参りに来た時は、周囲は大変な騒ぎになったそうです」という。


城雲院には、この岡譲二が贈った寄せ書きも残されていた。贈り先は22代目住職の浦郷良英師。出征して、昭和19年6月15日に、ビルマで戦死している。岡は、菩提寺の住職が出征するに際し、撮影所のスターたちのサインを集めたのだ。箱には「祝出征・岡譲二」とある。日日は書かれてないが、長谷川一夫、水谷八重子、大日向伝といった名が認められるので、贈られた時期は東宝時代に違いない。


岡がこんな寄せ書きを贈ったのは、彼は大スターには珍しく、3回も応召されていたからだ。終戦時は陸軍少尉として、台湾の基隆で赴任中だった。出征――しかも菩提寺の住職の出征は、他人事とは思えなかったはずである。


戦後、役者を引退してからは、妻や子供と別居。70年に代々木の病院で、心臓病で死去。一人さびしく息を引き取った。墓地は青山墓地にある。


一方、城雲院に残された中溝家の墓は、現在は看取る人もなく、無縁仏となっている。