「うどんすき」ならぬ「そばすき」を、松川屋で試食する菅原文太さん。

右端に持ってこさせた「そば」が写っている。(1988年9月26日・撮影筆者)


  菅原文太さんが肝不全のため、11月28日死去した。81歳だった。



1988年9月25日、私がディレクターを務める第5回古湯映画祭に、文太さんは来てくれた。「ダイナマイトどんどん」(78年)、唐津を舞台にした「トラック野郎・男一匹桃次郎」(77年)、「木枯し紋次郎・関わりござんせん」(73年)、「仁義なき戦い」(73年)第1作という4本の代表作を上映。全国のトラック野郎が集結し、講演、シンポ、パーティに客が入りきれないため、会場を小学校の講堂に移したほどだった。これから紹介する秘蔵のエピソードは、その翌日の話である。


「今日は仕事なんだ」と文太さんは言う。「仁義なき戦い」シリーズのポスター写真を撮った富山治夫さんが、古湯に姿を現した。来年の文太さんのカレンダーを撮影するために、東映はこの有名カメラマンを送り込んできたのだ。外国の風景はすでに撮影したが、滝、コスモス畑、彼岸花、ゴルフ場、馬術クラブという山間の風景を、佐賀県の5か所で一遍に撮影したいという。ものすごい数のシャッターが切られる。私もレフ板を持って、その日一日、撮影を手伝うことにした。


背景が違うのに、衣装が同じだとおかしいと、いったん佐賀市内まで衣装を買いに下りてきた。文太さんは率先して、街の中をサッサと歩く。その動きの機敏さは、55歳とはとても思えない。突然の大スターの来訪に、呉服元町界隈は、一時パニック状態になった。


昼食は私の実家「松川屋」でとった。文太さんは「うまい、うまい」と言って、松川屋特製の「うどんすき」に舌鼓を打つ。「俺はそばが好きなので、この出汁を使って、そばでやってみようや」と、そばを持ってこさせ、「うどんすき」ならぬ「そばすき」を試食した。ところが、これがからっきしダメで笑い話となった。


撮影が終わってから、「木枯し紋次郎」の原作者・笹沢左保さんの古湯の新居に表敬訪問した。「前年の古湯映画祭に参加した時に、ここが気に入り、佐賀県民になったんですよ」と笹沢さんは、転居の理由を説明。文太さんも、「東京はもう人が住む資格を失っている。実は僕も岐阜県の高山に家を買って、暇さえあれば、そこに住むようにしてるんですよ」と打ち明けた。その後、笹沢さんがガンになった時、九州ロケに来た文太さんは、お忍びで再び笹沢邸に立ち寄り、笹沢さんを見舞ったという。


別れる時、私に言ってくれた文太さんの一言が泣かせる。「ヤクザともめ事があった時は、俺に連絡しろよな」。まるで東映映画のワンシーンだ。まことに頼りになる兄貴であり、親父のような人であった。


実際「雷おやじの会」を結成し、晩年は反原発、反戦運動にも参加した。「仁義なき戦い」ではない。ピシッと一本筋の通った親父は。まさに「仁義ある戦い」を実行していたのである。