先週、上京した折に、神田の古本屋に立ち寄ったら、「砂の器」(74年)のシナリオを見つけた。原作者の松本清張に、「原作以上に出来がいい」と言わしめた橋本忍と山田洋次のシナリオは、「キネマ旬報」の脚本賞を受賞している。活字で読んでも、見事な構成に感嘆する作品だった。
しかし、映画自体はシナリオが出来てから、完成するまでに、14年の歳月を要した。理由はロケが多くて金がかかり過ぎる、話が暗くて興行収入に自信が持てないなどの要素だった。見つけたシナリオは、撮影された時点でのシナリオではなく、最初に書かれた稿だけに、興味はつきない。
文中、橋本はこのシナリオの特徴を、自分の好きな競輪に例えて、こう語っている。多くの作品は、スタートから飛び出し、そのまま先行して逃げ切ったものが多く、なかにはスタートと同時に好位置に付き、そのままゴールまで一気に押し進めたものもあるという。しかし、「砂の器」だけは、「スタートはどんジリ。だが残り四分の一になるのと同時に、いきなり最後尾から大外をまわり、一気にマクリをかけている」と説明している。確かに後半の捜査会議の辺りから一気にテンポが速まり、ラストに向かって、観客を怒涛のような感動に巻き込んでいく。
最初のシナリオと完成した映画が、ほとんど変わっていなかったのは、むしろ意外だった。変わっていたのは、捜査会議の最後の部分で、犯人・和賀英良(加藤剛)の過去が暴かれた後のシーンだ。和賀のハンセン氏病の父親(加藤嘉)が生きていたのは、原作にない、橋本の創作だが、これが犯人の殺人の動機を、より切実なものにしている。
つまり、過去がバレるのを恐れただけでなく、被害者の三木巡査(緒形拳)が、余命いくばくもない父親に会うことを強要したために、犯人は三木を殺したのだ。最初のシナリオでは、捜査課長(内藤武敏)に、「生涯の恩人の三木、夢にまで見た息子の秀夫、そしてまだ生きている自分…突然に結びついたこの三つの関係を、どうしても断ち切りたくて、ついに恩人の三木を殺してしまった」と動機を説明させている。さらにその後に、今西刑事(丹波哲郎)に「〝宿命〟でしょうな」と言わせて、ダメ押しをさせている。
しかし、完成した映画では、そのシーンの代わりに、三木に「なぜだ? 会えば今やりかけている仕事がダメになるなんて、なんでそんなこと言うんか?」と言わせている。この言葉を入れたことによって、殺人の動機は、より複雑な、芸術的なものに変えられている。つまり、和賀は自分のなかで構築し作曲している交響曲「宿命」が壊されることを恐れたのだ。これは見事な改変で、シナリオ以上に進化していると見るべきだろう。
それはおそらく、単純な動機の説明よりは、結論は観客の判断にゆだねた方がいいと主張する、野村芳太郎監督の判断によるものではなかったろうか。まさに完璧なシナリオは、映像と監督の力によって、「一発マクリ」のパワーをさらに強めていたのである。
