西村雄一郎のブログ 深川のクリークにかけられた小津橋(東京都江東区古石場)


本所深川にはクリークが多い。なにしろ、隣が木場なのだから、水路が網の目のように流れている。当然、橋も多いが、そのなかの一つに「小津橋」と名付けられた小さな橋がある。映画の企画を精力的に催し、小津の展示コーナーを設けている「古石場(ふるいしば)文化センター」(東京都江東区古石場)の、すぐ北に流れるクリークにかけられた橋である。


  この辺りは、「伊勢屋」の屋号をもった商家が多かった。「伊勢屋」とは、いうまでもなく「伊勢の国から来た商家」という意味で、「駿河屋」や「三河屋」と同じ意味合いである。小津家のルーツは伊勢商人であるが、その屋敷の名残が、こんな橋にまで残っている。この近くに、小津家の蔵があったらしい。

 

  「小津橋」をさらに北へ行き、永代通りを越えると、そこは「富岡八幡宮」。小津の日記には「深川八幡」と記され、昭和10年(1935年)8月15日には、「深川八幡宮の祭礼にて雨のなかにみこしあまた通る」と記されている。またここは江戸相撲興行発祥の地として有名であり、社殿の裏手には横綱力士碑が立っている。巨大な石碑には、朝青龍までの横綱の名がずらりと刻まれていた。


しかし目的はそこではなく、社殿の東側にある永昌五社稲荷神社だ。ここは、深川の肥料問屋から篤い信仰を集めた社だった。江戸時代の肥料は干鰯(ほしか)といい、イワシの油を絞った粕を干したもので、農業には欠かせなかった。深川には干鰯場が4ヶ所もあった。そのために、深川には肥料問屋が集中していたのだ。


神社には、その肥料関係者が奉納した狛犬がある。土台に目を移すと、刻まれた名のうちに、「湯浅屋」という屋号が認められる。この「湯浅屋」が、小津の父・寅之助が奉公した商家である。寅之助は、ここの大番頭を務めていた。


「湯浅屋」は、海産物や肥料を商う大きな問屋だった。この辺りの肥料問屋のなかでは、一番手広く商売をしていたといわれる。製品は主に関西に送っていたようだ。商売は派手で、永昌稲荷の初午祭りには、芸者、幇間を大勢引き連れて参詣したなどの逸話が残されている。その「湯浅屋」跡に行ってみよう。

 

  富岡八幡宮のすぐ西隣にあるのが「深川不動」。成田山新勝寺の別院だ。その門前町としてのにぎわいが、いわゆる辰巳芸者を生んだ。黒澤明脚本、熊井啓監督の『海は見ていた』(02年)の舞台である。南へ行けば、そのにぎやかな参道に通じるが、逆に裏手の道を北へ歩く。


清澄通り沿いの深川1丁目の歩道橋の下には、「小津安二郎誕生の地」と書かれたプレートが立てられていた。「江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治三十六(一九〇三)年十二月十二日、この地に生をうけました」と記されている。かつてこの辺りは、亀住町と呼ばれていた。この一帯が小津本家の場所で、当時は約300坪もあったという。