はじめに
市川由紀乃の楽曲「朧」は、恋に生きる女の哀しみと歓び、そして官能を、研ぎ澄まされた詩的言語とともに描き出す作品である。演歌においては長らく、女性の愛情表現は“耐える”“待つ”“尽くす”という側面が強調されてきたが、本作においては、むしろ主体的に「女になる」ことを求め、欲望を肯定する姿勢が際立っている。
タイトルの「朧」は、光や形がぼんやりとかすむさまを指す言葉であるが、本楽曲では“曖昧さ”ではなく、“それでも信じたい、進みたい”という逆説的な意志を内包している。本稿では、『朧』の歌詞世界を、構成・表現・象徴性・メッセージという観点から掘り下げ、現代演歌における女性の感情表現と身体性の変容について考察する。
第一章:情念の構造──「愛しているから苦しい」の先へ
本作の歌詞は、恋愛の幸福だけでなく、未確定な関係性、つまり“確約なき愛”への渇望が描かれている。冒頭の連では、恋人と交わした指先のぬくもりを糧に、「振り向かずに進む」という決意が語られる。ここでの表現は、愛に身を投じながらも後戻りしないという女の覚悟を示している。
「たとえこの世が朧でも」という言い回しは、現実が不確かであろうと、愛という行為が“真実”であるという強い信念を映している。演歌ではしばしば、愛の不条理を“諦念”として受け入れる作品が多いが、本作では“諦念を超えて、曖昧な未来にも身を投じる”という、より能動的な感情表現がなされている点に注目したい。
第二章:詩的構成と反復の技法
歌詞構成としては、三つの主旋律ブロックと、印象的なリフレインによって成り立っている。その中でも、繰り返される「きりきりきりと」の表現が楽曲の中核をなしている。これは恋人との肉体的接触、すなわち“抱かれる”という行為の中に、心の軋み・切なさ・悦びと痛みの共存を凝縮している。
「軋むほど抱いてほしい」という願望表現は、女の内面にある激しい情熱の噴出であるが、同時にそれが“軋む”という擬音語で示されていることにより、欲望そのものに痛みが伴うことをも示唆している。ここにおいて、身体性と情念が完全に結びついた、現代的な官能の造形が成立する。
また、「女にさせてくれますか」という問いかけのリフレインは、性的表現としての解釈のみならず、精神的な“女の覚醒”としても読み取れる。これは受動的に見える表現でありながら、実際には恋における“受容の能動性”を強く打ち出す語りとなっている。
第三章:未確定な関係性と一夜の逢瀬
中盤では、肌と肌が交わる場面が描写される。ここで特徴的なのは、「儚い逢瀬であっても悔いはない」と語られる点である。つまり、主人公は未来を確約された関係を望んでいるのではなく、「今、確かに愛している」という実感の中に身を浸すことで、自己の存在を肯定している。
愛に“報い”や“契約”を求めず、「悔いはない」と言い切る女の姿は、演歌における“儚さ”の捉え方を更新している。従来の演歌に多く見られる“報われない愛に泣く女”とは一線を画し、“報われるかどうかは問題ではない”という立場を明確に打ち出している。
第四章:「きりきり」と「朧」の対照と統合
繰り返される「きりきり」と、楽曲全体を包む「朧」という語は、まったく異なる質感をもつ言葉である。「きりきり」は即物的で、生々しく、感情の強い震えを伴う語であり、対して「朧」はかすんだ視界、曖昧さ、そして静かな決意を含む語である。
これらの相反する語が同じ楽曲の中で共存していることは、まさにこの楽曲が「肉体と精神の二重奏」であることを示している。肉体の熱、官能、疼きが「きりきり」に象徴され、精神の決意、曖昧な未来を受け止める覚悟が「朧」に込められているのである。
この二語の響きが繰り返されることで、歌の中の“女”は単なる恋に酔う者ではなく、愛の中に生きる“存在者”として浮かび上がる。言い換えれば、この歌は“生きることそのものを愛する女”の物語である。
第五章:現代演歌における“女の表現”の到達点
市川由紀乃は、演歌界において技巧派と評される歌手であるが、本作ではその歌唱の繊細さと深みが、詩世界と絶妙に合致している。低音から高音にかけての細やかなニュアンス、ブレスの配置、語尾の消し方一つひとつが、「きりきり」という言葉の“軋み”を立体化させている。
また、歌唱においては、感情の過剰な誇張を避け、むしろ抑制された表現によって内なる激しさを浮かび上がらせている点が特筆される。これは、現代の感性により近い“情念の表現”であり、伝統的演歌と現代的叙情の融合点として高く評価されるべきだろう。
結論:女であること、愛すること、それが“生きること”
『朧』は、女が愛するという行為の中で、自己の存在を再確認し、曖昧で不確かなこの世界の中でも、確かに“誰かを想う”ことの美しさを描いた作品である。そこにあるのは、単なる哀しみや未練ではない。愛の中に身を置くこと、愛されることで「女になる」こと、そしてその中に“生きる意味”を見出している姿である。
この作品は、現代における“愛する女の矜持”を、極めて繊細かつ肉感的に描き出した演歌の到達点であり、情念・身体性・詩性が三位一体となった稀有な成功例といえる。