1. はじめに
日本演歌は、個人の情念を自然に託して歌い上げる伝統を持つ。海・山・風・雪といった自然景物が、感情の象徴として機能するのがこのジャンルの特性である。葵かを里が歌う『華厳の滝』もまた、日光に実在する名瀑「華厳の滝」を舞台に、女の未練と決別の物語を展開している。楽曲全体は、裏切られた女の痛み、未練、そして自己の再生に向けた決意を、自然描写と交錯させながら情念豊かに描写する。
本稿では、歌詞における構成的変化、感情の推移、自然との照応、そして演歌における「浄化の装置」としての滝の象徴性に着目し、『華厳の滝』が提示する女性の生き方と演歌的美学について読み解いていく。
2. 歌詞構造と感情のプロセス
『華厳の滝』の歌詞は、全体として三つの連から成り、それぞれが異なる感情段階──怒りと未練、気づきと痛み、そして決別と再出発──を描いている。三連目が一番の再帰的引用となっている点にも注目すべきだろう。構造そのものが、主人公の感情の「反復と脱却」を体現している。
2.1 第一連:裏切りと未練の相克
冒頭に登場するのは「哀しい裏切り 許しましょうか」という問いかけだ。だが次の行で即座に「いいえあなたを 許せるはずもない」と否定し、複雑な感情が交錯していることを示す。ここでの「恋しさ募れば 憎らしい」という一節は、愛情と憎悪の並存という演歌にしばしば登場する“逆説の情感”の典型である。
「泣き泣き越えた いろは坂」は、実在の地名でありながら、心の葛藤を越える苦行の象徴として働いている。曲中で語られる「滝」は、ただの風景ではなく、まさに“未練”そのものに変容している。
2.2 第二連:愛の崩壊と感情の崩れ
第二連では、かつての愛の象徴として「二人で見上げた 日暮しの門」が語られる。夕暮れと門、すなわち終わりと境界の象徴が重なっており、すでに関係の終焉を暗示している。
「抱かれるたびに 気付いてた」という表現は、ただの失恋ではなく、“自覚しながら愛にすがった自己”への痛烈な自省が込められている。ここでは単なる被害者としてではなく、真実に目をつむり続けた“愚かさ”への悔恨がにじむ。
岩肌を飛び交う「岩燕」は、滝の水しぶきとともに描写されており、行き場のない感情が周囲の自然に拡散していく情景と呼応している。愛の崩壊に際して、女は孤独にたたずむのではなく、自然の中で感情を散らし、やがて昇華の過程に入る。
2.3 第三連:繰り返される未練と決別
三連は、第一連の再演のような構成となっているが、心理的には「確認」の段階に入っている。「華厳の滝よ 女の未練」と繰り返すことで、それがいかに根強く、しかし最終的に捨て去らなければならないものであるかを、聴き手に強く印象づけている。
この繰り返しは単なる情念の反復ではない。むしろ、「未練を自覚した上で、それを滝に託して粉々に砕いてもらう」ことにより、自己が自らを律し、断ち切ろうとする意志の表明である。
3. 華厳の滝:情念を砕く“浄化の装置”
この楽曲の最大の象徴は、タイトルにもなっている「華厳の滝」である。滝とは、古来より仏教的世界観では“浄化”や“転生”の装置として扱われてきた。水は汚れを洗い流し、激しい流れは“過去”を押し流すものである。
3.1 音としぶきの物理性
「響く水音」「水飛沫」という直接的描写は、心のざわめきと一致しており、感情の高まりを視覚・聴覚のイメージに変換している。特に「粉々に」「散り散りに」という言葉は、破砕される記憶と情念を明確に視覚化し、「泣いて忘れる」ではなく、「打ち砕いて終える」という決然たる意志を反映している。
3.2 観光地ではなく“精神地勢”としての華厳
本楽曲において、「華厳の滝」は単なる名勝ではない。むしろ、主人公にとっての“魂の臨界点”であり、“恋と決別する聖域”である。「捨てて行きます この恋を」という言葉は、宗教的な供物を納める儀式のような響きを持つ。
ここで葵かを里の歌唱も重要となる。彼女のやや硬質で透明感のある声質は、この“冷たい水”と“感情の決壊”というモチーフと強く共鳴し、情念過多に陥らず、むしろ抑制された美学を構築している。
4. 恋と未練をめぐる演歌的美学
『華厳の滝』が提示するのは、単なる悲恋ではない。愛した人への未練を「悪」とは断じず、むしろそれを丁寧に見つめ、自らの中で受け入れ、最終的には砕き祓っていく「情念の儀式」である。
演歌ではよく「捨てられる女」が歌われるが、本作では、女が自ら“捨てる”側に立つ。ここに、現代演歌における“能動的ヒロイン像”の典型が見られる。滝に託してはいても、決別を選んだのは女自身であり、そのことが作品に「凛とした決意」を与えている。
5. 結論:感情の断崖から飛び降りる勇気
『華厳の滝』は、愛と未練、裏切りと赦しの狭間で揺れる女の情念を、見事に自然景観と絡めて歌い上げた秀作である。滝という自然の激しさに身を重ね、感情の決壊と再生を描いた本作は、演歌の持つ“情の文学”としての真価を示している。
葵かを里の歌声は、憎しみや哀しみを過剰に誇張することなく、むしろ「冷たく、それゆえに強い女」を体現するものであり、曲の持つ痛切な詩情と高い次元で合致している。
演歌は「耐える」歌であると同時に、「決断する」歌でもある。その両者をひとつの滝に託し、粉々に砕いてみせた本作は、現代に生きるすべての“別れを知る者”たちに、ある種の救済と美しさを与えるだろう。