はじめに
演歌や歌謡曲の本質には、人生の節目や情感を切り取る“叙事詩的”性質がある。れいかの『とわず語りの数え唄』は、そんな叙情の集積がひとつの数え唄に凝縮された形で展開される、実に詩的かつ文学的な演歌作品である。自身の生い立ち、恋、喪失、孤独を、語り口調の「とわず語り」として淡々と綴りながら、人生の時間軸を静かに、しかし鮮烈に浮かび上がらせていくこの楽曲は、単なる歌謡の枠を超えた一種の詩的モノローグである。本記事では、歌詞の構造、表現、時間意識、象徴性、そして作品が孕む普遍的メッセージについて検討していく。
第一章:構成と「数え唄」という形式
本楽曲のタイトルにある「数え唄」は、日本古来の詩的伝承の形式の一つであり、時間の経過や思い出の反復を意味のある形で記録していく手段として機能する。れいかの『とわず語りの数え唄』では、各連において「年齢」や「出来事」が明確に挿入され、人生の区切りを“節”のように連ねていく。
第一連の「十五か 十六か」、第二連の「十九か 二十歳頃」、第三連の「歳はいくつか 忘れたよ」といった時間の指標が、叙述のリズムを形成しており、歌詞があたかも“自叙伝的回顧録”のように展開される。
第二章:語りと“とわず語り”の詩法
“とわず語り”とは、問われていないのに語り出してしまう、あるいは語らずにはいられない情感の爆発を意味する。れいかの主人公は、自身の過去を誰に語るでもなく、ふとしたきっかけで思い出しながら呟くように歌っていく。その語りは決して激情を伴うものではなく、むしろ静かで、淡々とした調子である。
たとえば、「ノラ猫だけが 見送りだった」や「溜息だけは 覚えた素肌」といったフレーズには、感情の激しさよりも“諦念”や“物語としての距離感”が感じられる。こうした語りのスタイルは、強い自己演出を避け、かえって聴き手に深い共感と余韻をもたらす。
第三章:都市と孤独の相関性
主人公は「寂れた海辺の無人駅」から「この都会」へと舞台を移し、以後は都市生活を背景に物語が進行する。都市は、選択と別離の舞台であり、また孤独の拡大装置でもある。
第二連の「恋をしたのは すぐのこと/お決まり通りの 悪い奴」といった言葉には、地方から出てきた若い女性が都市で最初に味わう恋愛の罠と切なさがリアルに刻まれている。また、最終連の「お酒と猫と 暮らしてる」という描写は、社会的関係の断片化と、動物という他者に救いを求める現代的孤独のかたちを象徴する。
第四章:音楽的装置としての「La La La」
全連の末尾に繰り返される「La La La La La La」というフレーズは、歌詞上は意味を持たないように見えるが、実際には極めて高い詩的機能を果たしている。これは一種のエモーショナルな“間(ま)”であり、語られた記憶の余韻を残す、語りと語りの「呼吸」として作用している。
また、これらの音節は、主人公が言葉にならない感情をどうにか音にすることで、かろうじて精神のバランスを保っている様をも暗示している。感情の高まりを回避し、再び物語の節へと戻っていく構造は、まさに“語りの節回し”であり、演歌的技法としての巧みさを感じさせる。
第五章:人生の普遍性と女性の自己肯定
この楽曲が示すのは、どれだけ恋に破れ、誰かに捨てられ、年齢を重ねたとしても、なお歌うという行為によって自己を肯定し、人生を記録し続けている女性の姿である。
特に「死んだあいつの 好きな歌」「笑って泣いて 抱かれてひとり」などのフレーズは、過去の記憶を美化せず、そのまま受け入れてきた人生の厚みを物語る。そして、「歳はいくつか 忘れたよ」という達観は、人生の苦楽を経た者だけが持つ“時間からの解放”という深い哲学的テーマにまでつながっている。
結論
れいかの『とわず語りの数え唄』は、単なる人生の記録ではなく、女性がその人生を語る行為そのものが一種の芸術であり、同時に癒しでもあることを教えてくれる。
歌詞に込められた比喩と象徴、語りのテンポ、そして意味を超えた「La La La」という音の効果など、多層的な表現が静かに心に響く本作は、演歌の“詩的語り”という可能性を改めて提示した作品である。過去の痛みや恋の記憶を“数え唄”としてひとつずつ口にしていくことで、人生を振り返り、そして生き直す。そうした音楽の力を、れいかは本作において見事に体現していると言えるだろう。