高畑勲監督作品ジブリ映画「かぐや姫の物語」を観ました。
日本人なら誰もが知ってる日本最古の物語。
これまでかぐや姫を取り巻く人々の、欲に駆られた顛末が滑稽且つ辛辣に
描かれた、よくできた古典文学としか見ていませんでした。
それがこの作品では、人間として、一人の女性として生きたかぐや姫を描き
出し、観る者を彼女自身に投影させてくれます。
彼女の思いが流れ込んできて、共に涙するのです。
ラストシーンで月からお迎えに来るのは、お浄土からの音楽隊御一行様と
いった風情の仏に天女。
月の都に帰って羽衣をまとえば地上での穢れは記憶と共に消え去ります。
苦しみも悲しみも無くなり、心は常に平安でいられるのです。
けれども彼女は激しくそれをいやがります。
虫や鳥や獣のように、あるがままに生きたい。
そう強く願って地上に降りてきたのに!!
いつまでもここに居たいのに!!
けれど、助けを求めてしまったのは彼女自身だったのです。
人間として生きるということは「苦」である。
だから仏道では、来世人間に生まれ変わらないことを目標に精進します。
今世の「苦」から逃げず、快楽を求めず、仏となれば、永遠に平安となる。
この世で、快楽に溺れれば、いつまでたっても人間のまま苦しみの輪から
逃れられないのだそうです。
でも私は、天界も意地悪だと思います。
いつも人間を試すようなことをするのですから・・・。
かぐや姫を養育するための財宝が、竹の中から与えられ、人間「翁」は心
を掻き乱されてしまいます。
天から自分に「使命」が与えられたのだと勘違いするのです。
姫を幸せにするには、都へ行って高貴な身分にしてやるしかないと。
そして、いやがる姫に英才教育を始めます。
かぐや姫自身は、都よりも山の暮らしが好きだったのに、養父の喜ぶ顔
が見たくて、我慢して、姫君らしくなっていきます。
自分を偽り、結局は他人を傷つけてしまう事にもなるのです。
人が死んだり、傷ついたりするのは自分のせい!
自分は姫君なんかじゃない「にせもの」なのに!
激しく苦悩する彼女を優しく支える養母。
可愛い姫のために邁進し、かえって追い詰めてしまった養父。
愛の形は、さまざまですね。
本人の気持ちに気づかず形にこだわり、「女の幸せ」を勝手に決め付けて
自分の欲にも目が眩んでしまうなんて弱い人間には、ありがちなこと。
そんな翁も、竹の中から可愛い女の子を見つけた時には「苦」を呼び込む
ことになろうとは思いもしなかったことでしょう。
ただただ、もう目に入れても痛くないような可愛がりようでした。
赤ん坊がすくすくと育つ様子を見守る優しい目は、何より尊いものかも
しれません。かぐや姫にとって幸せの絶頂期だったでしょう。
あるがままを愛される赤ん坊の時期が過ぎると、こんどは社会で優位に
立つための「教育」を受け、宝物のように扱われ始めました。
た・か・ら・も・の
それが人の心を狂わせます。
姫の美しさに都の人々が狂乱し、帝までもが心奪われ、姫を手に入れる
ため手段を選ばなくなってしまいます。
国の頂点に君臨する帝は、我が意に背くものはあるはずが無いと確信
しているのです。
そんな帝に抱きすくめられ、ついに我慢の限界を超えてしまいました。
「女ならみんな自分にこうされると喜ぶものだ。」と背後から囁く帝・・・。
ゾっとしますね。身の毛もよだつ展開です。
これに耐えられず彼女は、無意識に月にSOSを送ってしまっていたのでした。
それっでも
かぐや姫は、苦しかろうと辛かろうと「生きている実感」が欲しいと言いました。
人を愛し、想い合う心、ぬくもり・・・。
「苦」ばかりでもないように思えます。
「竹取物語」は作者がわからないということですが、私は女性が書いたのでは
ないかと思います。
映画では、お歯黒したら笑えないと抗議するかぐや姫が、高貴な姫君は笑わず
走り回ったりしないものだと教育(矯正)されます。
身分の高い殿方に寵愛を受けることだけが女の幸せとされた時代でも、彼女
のように、自由を求めた女性が居なかったはずがありません。
そして、自惚れの強い「高貴」な身分の男達を、あわれで滑稽だと感じていたと
思います。
帝さえ歯牙にもかけない姫君の話が、こうして後世まで語り継がれてきたのには、
常に虐げられている女性や庶民の想いが込められているからではないでしょうか。