選挙が近づくと、人通りの多い交差点や駅前に立ち、
通勤途中の人に挨拶したり演説したりする風景を見かける。
いわゆる、「朝立ち」である。
ある新人候補者が、市議会議員選挙に立候補を思い立った。
小さな田舎の市だ。
地元の高校でPTA会長の経験もある。
ちょこっとした会の会長なんかもやっている。
きっと多くの人が、自分のことを知っているはずだ。
彼は、自惚れではなく、素直にそう思い込んでいた。
ところがである。
ほとんどの人が、誰も彼のことなど知らなかったのである。
立候補の挨拶をしても、「最近、田舎に帰ってきたのか?」と、
的外れな反応があまりに多すぎるのである。
彼は思いたった。
投票までの2週間、交差点に立ち、車で通勤途中の人に、
朝の挨拶しようと。
始めた日は
何だこいつ・・・?
と冷ややかな視線を浴びせていた人も、
3、4日目となると、だんだんと目礼して通り過ぎるようになった。
何せ、小さな市の田舎町のことである。
5日目となると、まったく見知らぬ人だったのに、
手を振って通り過ぎる人もでてくる。
彼は、当初の目的も忘れ、すっかり楽しくなってきた。
そんなある朝、知人の女性から携帯に電話があった。
その挨拶をしている最中にである。
電話の相手は、選挙カーのウグイス嬢を頼んでいる女性だ。
彼女に、ウグイス嬢の経験はない。
でも彼は、彼女の度胸と張りのある声量を評価していた。
慣れすぎたプロよりも、新鮮さが新人候補にふさわしいし、
何より彼の遠縁にあたり、子供の頃からよく知った間柄。
遠慮の必要もないからだ。
そんな彼女からの電話だった。
右手を高く掲げて通行中の車の運転手に挨拶しながら、
左手で窮屈に取った電話を耳にあてる。
「この前頼まれたウグイス嬢のことやけど…
私じゃないと、いけん…?
誰かもっと経験のある人がイイんじゃねぇ~ん…」
もう10日前に話して、了解してもらったはずだ。
立候補予定者は、ちょっとムッとして話を遮った。
だって、ほら…
最近、ちゃんとこっちを向いて、
挨拶を返してくれ出した笑顔の素敵な女性が、
通過している最中じゃないか・・・
「ゴメン!
今、『朝立ち』の真っ最中なんや!
また落ち着いたら、
折り返し電話するけん。」
彼はガラケーを、胸のポケットに折りたたむと、
また笑顔で挨拶を続けたのであった。
告示が近づいたある日。
ウグイス嬢を頼まれていた、くだんの女性が、
ニヤニヤしながら彼に話しかけてきた。
「『朝立ち』の真っ最中!
何て言って、電話を断ち切ってしまうから・・・
いい歳したくせに、
いったい何をしよんのやろうかと、
つまらんことを想像したじゃない・・・(笑)」
男も、女も、60歳となると、
言葉のオブラートなど、微塵もない。
その選挙も終わった。
多くの人に支えられて、当選することができた。
感謝、感謝、感謝である。
清き一票を投じてくれた人にも・・・
選挙戦の裏方を支えてくれた人にも・・・
遠くから案じてくれていた人にも・・・
あまりに多くの人にお世話になった。
その人たちにお返しの意味も込めて、
しっかりした仕事をしようと、決意する朝を迎えた。
さあ!
その感謝と決意の気持ちを込めて、
まずは、これから「朝立ち」である。