いわゆる「方向分岐」に関して(その1・追記あり) | ふうのブログ (ameblo.jp)

 

からの続きです。

 

さて、ある人たちがいて、その人たちの間では一定の合意が成立しているとします。

 

などと書くと難しそうですが、これは具体的に言うと例えば、越後屋さんと悪代官さんが、「おぬしもワルよのう」で盛り上がっている、つまり合意している、という状況のことです。

 

ここで、第三者がそのことを知ったとき、「あの人たちは悪いことをしている」と感じるのであれば、越後屋さんと悪代官さんのしていることは、彼ら同士の間ではそれでいいのかもしれませんが、それは第三者には通用しませんね。

 

ただし、第三者もまた、彼らを称賛したり肯定的に評価している場合は、話は別ですが。

 

ま、これは何が言いたいかというと、その場で容認・是認されていることに「のるかそるか」、みたいなことです。

 

「その場」というのは、その時に自分が属している人々や居場所などにおいて、暗黙に共有されている価値観、みたいなことです。

 

例えばですが、社会に属している場合には、「悪いこと」はしてはいけませんね。

 

しかし、「悪いこと」とはそもそも何か。

 

「法律に違反すること」は言うまでもない前提として、です。

 

法律は守るためにあるからです。

 

だからこそ、それでもあえて法律に違反したとすれば、それはその人にとって、法律を守ることよりも大切な何かがあったからなのでしょう。

 

では、その場合、それは「悪いこと」なのか。

 

例えばですが、高齢者の方が困窮のあまり、コンビニでおにぎりを万引きして捕まる、というような事件がありますが、もちろん、これは法律に違反しているというのは言うまでもなく、では、これは果たして「悪いこと」なのか。

 

別に私は、「この高齢者の方は何も悪いことをしていない」と言いたいのではありません。

 

しかし、「この高齢者は明らかに悪い」と言いたいのでもありません。

 

命題論理では、命題の真偽は一意的に決定されるようですが、実際にはほとんどの場合、「真とも偽とも言えない」わけですよ。

 

もちろん、そこに白黒決着をつけるというのが法律であり、また裁判なのでしょう。

 

で、この高齢者は果たして「シロ」のなか「クロ」のなか、なわけですよ。

 

で、ここでもすでに、「シロ=良い」「クロ=悪い」という結びつきがあり、そしてその結びつきが共有されているからこそ、「善し悪し」を「白黒」に言い換えることもまた、可能になっているわけですが。

 

例えばですが、その高齢者が実際にお金がないためにおにぎりを万引きしたとしたら、それ、どうなんすかね?

 

ただし、例えばですが、ただ万引きする快感を得るためだとしたら。

 

あるいは、店の人を困らせたいのだとしたら。

 

あるいは、おにぎりメーカーに何か個人的な恨みがあったとしたら。

 

(ここでしばらく間を置きましょうかね)

 

 

 

 

 

 

 

自分なりに感じるところがあったかと思います。

 

実はこれ、全部「シロ」なんです(笑)。

 

動機が言語的に明示された時点で、それはすべて「シロ」です。

 

本当の意味での「クロ」とは、「真の動機を決して明かさない」ことです。

 

これはどういうことか。

 

もちろんですが、これはあまりにも「非常識な」発言だということは、充分わきまえています。

 

私は暴論や、悪い意味での感情論が言いたいわけではありませんので。

 

例えば、「店員が困るのを見たかった」などの動機は、親子関係の機能不全に起因しています。

 

ですからそれは、心理的なケアの必要性を示唆しています。

 

私も小さいとき、近所の個人商店の自動ドアを開けてすぐに隠れる、といういたずらをしたことがありましたしね。

 

そうすると奥にいた店の人としては、店のドアが開いたので出てきても、そこには誰もいない、ということが繰り返されるわけですよ。

 

で、私が仕掛けていることを店の人が把握して、本気で私に、「営業妨害で訴えるぞ!」と言ったため、これはよくないことだと思い、以降はしませんでしたが。

 

これも、大人を困らせたかったという単純な動機ではありません。

 

これは実は、相手が怒りとか、あるいは思わず「げえっ」とかの反応をするとき、実は愛がほとばしっていることによるものです。

 

困惑しているときもまた、自我が充分に機能していないため、愛が「漏れて」います。

 

つまり、いたずら行為に嗜癖する理由は、愛の欠乏感です。

 

いたずらなどを仕掛けると、相手から愛が表出して、そしてそれを受け取ることができる、という仕組みです。

 

ただしそれは通常の自覚では、「怒り」とか、思わず「なんだそれは!」とかの反応をする、という形をとっています。

 

ということはこれは、愛の欠乏感に対するケアの必要性を示唆している、ということです。

 

嗜癖にまで至っている場合には、「求めても得られない」というループにはまっていることに無自覚なため、求める気持ちが病的な様態になっているわけですから、まずは、「自分は「求めても得られない」という罠にはまっている」と自覚することが必要になってくるのかもしれません。

 

ちなみに、この「求めても得られない」というのは仏教では「求不得苦」と言いますが、念のために付記しますと、これは「だから求めてはいけない」といったことではありません。

 

そうではなく、自分が本当は何を求めているのかが分からなくなっている、ということが最大の要因ですが、詳細は必要があれば別の機会に書きます。

 

ですから、動機を一つ明らかにすると、その奥に隠れていた「真の動機(現段階での)」が見えてきて、さらにその奥には「真の動機(それ以前にあった)」が見えてきて、、、、を繰り返していくと、最終的に「愛の欠乏感」にたどり着き、そしてそこから先はない、ということです。

 

しいて言えば、愛の欠乏感の「発端」は、親子関係や原家族などの機能不全に行き着きます。

 

「原家族」とは、例えばこのようなことです。

現在の家族 - 精神科医山内の心の相談室 (goo.ne.jp)

 

ですから、触法行為に対しては、法的に一定の処罰が下されることは仕方がありませんが、だからといって、別にそうした人が「悪」だということではありません。

 

では、「クロ」とは「真の動機を決して明かさない」ことだ、とは、どういうことか。

 

これもまた、現状ではほとんどの人は「クロ」ですから、自分は「シロ」なのか「クロ」なのかを、あまり気に病む必要はありません。

 

実は、本当に重要なことは、自分が「クロ」なのか「シロ」なのか、ではないからです。

 

そこから回復する方向性を有しているかいないか、という、意識の方向性の違いが本当に重要なことです。

 

このことを奇跡講座では「わずかな意欲」と言っているわけです。

 

ですが現状、人はどうしても、このような状況です。

 

「自己の「犠牲」ということなら、あなたは理解するし、その代価を過大だとも見なさない。しかしあなたは、ほんのわずかな意欲も、神への会釈も、自分の中のキリストへの挨拶も、気の滅入るほど退屈で、背負いきれない重荷であると受け止めている」(奇跡講座テキスト、T-24.VI.12:3-4)

 

これはヘレンさんに対するイエスの「お小言」のようですが、これに関して個人的に感じるのは、こうしたことを「気の滅入るほど退屈で、背負いきれない重荷」だと感じる理由は、これは好転反応だからです。

 

つまり、本当に自分にとって大切なことをしようとした途端、それまでは無視できていた「症状」がふいに自覚されることによるものです。

 

そうすると人はどうしても、突然自覚された「症状」の「原因」を、その直前に自分がしたことや自分が味わっている状況などに帰属させて捉えてしまいます。

 

これは「前後即因果の誤謬」と呼ばれるものです。

 

前後即因果の誤謬 - Wikipedia

 

そうすると感受性が混乱し、例えばですが、「自分はほんのわずかな意欲も、神への会釈も、自分の中のキリストへの挨拶もする気がない、ダメ人間なんだ」というように自分を誤解するようになり、ただでさえ落ち込んでいるところにイエスから先のような「痛い」指摘を受ける羽目になる、つまり「泣きっ面に蜂」状態になる、というわけです。

 

泣きっ面に蜂の意味や類語を解説! 似たことわざには何がある? | Oggi.jp

 

逆に言うと、自分を「犠牲」にし続けている限り、「症状」を自覚することはありませんから、「無問題」感が維持できる、というわけです。

 

もちろん、イエスには別にヘレンさんを「攻撃」する意図があるはずがありませんから、これは人間心理、とりわけ「現代人の心の複雑な諸事情」に関してイエスが無知すぎたことによるものだろう、ということは推測できますが。

 

だから、2千年前の人間観のままでは通用しないんですよ。

 

とかなんとか(笑)。

 

それはともかく、話を戻しますと、ですから、自分の現状がどうなのかということ自体が「最重要項目」ではなくて、自分が有している意識の方向性が自分のすべてを決定づけている、ということでした。

 

ですから、このことからもまた、いわゆる「救いようのない極重悪人」みたいな人でも、改心の気持ちを持った途端に救われている、みたいな極端な表現もまた成立するわけですよ。

 

つまり、あれは意識の方向性に関する言及だった、というわけです。

 

 

というわけで、話がなんだかまとまりがありませんが、ここで、意識の方向性には大きく分けて2つある、というところがポイントかなと思います。

 

これは、例えば直線には方向性が2つありますね。

 

例えば数直線だと、右方向と左方向とです。

 

通常の数直線は、双方の方向性が相殺されている状態なわけです。

 

面には「表」と「裏」とがあります。

 

空間には、ネッカーの立方体で分かるように、見え方が2通りあります。

 

ネッカーの立方体 - Wikipedia

 

これは、奥行方向を「手前から向こうへ向かっていく方向」と取るか「向こうから手前へ「やってくる」方向」と取るか、という違いとなって現れています。

 

これ、どこに書かれていたのかを忘れましたが、どれだけ次元が上がっても、向き付けはやっぱり2通りらしいです。

 

ですから通常思い描かれる空間は、見え方に関する向き付けが不可視化されている、というわけです。

 

これが心理学的に意味することは、相手の様子を捉えるときに、自分の推測を優先するか、相手が実際にどうであるかを優先するか、といった違いになります。

 

いずれにせよ、意識の方向性、ないしは向き付けに関しては、「癒える」方向と「病む」方向とがあり、そのうち「癒える」方向を有している人は、その時点で実質的に大丈夫になりますが、「病む」方向性を有している場合には、どれだけ「高い」境地にいたとしても、いずれ自らの方向に向かって進み始める、というわけです。

 

もちろんですが、方向性自体もまた変わりますよ。

 

というより、この「方向転換」こそが、地上で生きる目的の大きな一つです。

 

ただし、これは人に強要するものではなく、あくまでも本人の自発性によっています。

 

それは神ですらもどうすることもできません。

 

なぜならば、神からどんどん分離していく意識の方向性もまた、意志という点ではその出所は神だからです。

 

というより、人類意識はそもそも、神からの分離によって生じたわけですからね。

 

それはいずれかの時点で方向転換をするというわけです。

 

ですから、すでに方向転換した人と、まだの人とがいて、両者は向いている方向が互いに真逆になっています。

 

そして、現代では個人主義が行き届いているため、両者の方向性の間には、接点がなくなりました。

 

これはどうやら、2024年の秋分の日ぐらいで最終的に決定されたようです。

 

これが「最終分岐」ということになります。

 

こうしたことはもちろん、無意識での話ですから、表面的なこととは全く異なる話になります。

 

簡単に言うと、自分にとって、あるいは自分に対して自分を明らかにしていく方向と、自分の目から自分を「隠しおおせる」としている方向と、です。

 

ですから、これもまた絶対的なものではありませんし、また、他の人から見てどうであるかとも、直接の関係はありません。

 

そのため、部分的にはまだ断片化の度合いが甚だしいですが、いずれ「合流」の流れが本格化していくことが予想されます。

 

この「合流」は必ずしも、人々の物理的な交流が盛んになることを意味しているわけではなく、総体としての人類意識の方向一致が次第に確実化していくということであり、それは結果として太陽系の方向覚醒を堅実化していく力となります。

 

かつて「太陽系ハ マヒルナリ」と歌った宮沢賢治の心の中では、太陽系はすでに方向覚醒の兆しが見えていたのかもしれませんね。

 

花巻農学校精神歌 - 宮澤賢治の詩の世界 (ihatov.cc)

 

「精神歌」の歌詞について - 宮澤賢治の詩の世界 (ihatov.cc)

 

 

 

さて、こうしたことはもろ、意識の地盤に関わる問題ですが、現状では地球表面は実質的に小惑星帯状態になっている、ということは、サン=テグジュペリの『星の王子さま』でもすでに描かれていることです。

 

どういうわけか、一説にはマルデクという名前の惑星があったとされている小惑星帯の「ばらばら」状態が人類意識となっている、という、よくわからない状態になっているようなんですね。

 

ですから、個人が分断されているという意識状態の上で生きているというのは、実は地上ではなくマルデクの上で生きていることになります。

 

「マルデク」の上で生きているとき、人は、生きることが「まるで苦」と感じるという、ダジャレなのかマジなのか、よくわからないことになっているんですね。

 

ですから、相も変わらずマルデクの上で生きている人(心が病んだ状態で社会適応している人)と、地上で生きている人(社会適応が困難あるいは不可能な人)との間では、意識の次元においては接点がなくなった、ということです。

 

捕捉しますと、ただしここで、「苦」を認めようとしない人がマルデクに生きている人で、多少なりとも「苦」を自覚している、あるいは否定しようがない人が地球を生きている人、という感じになり、つまり、「苦」を自覚している人の方が、「苦」に取り組む動因を有しているという点で、いずれ癒される可能性を宿している、ということです。

 

なので、例えば「苦はない」というのは、「本来、苦はない」というような背景からの言葉であり、それはプロセスという観点からは、「苦は必ず癒える」ということを意味してはいますが、間違っても「苦を抑圧否認せよ」という意味ではありません。

 

「苦はない」→「苦を抑圧否認せよ」という無意識の思考の流れは、例えば「自分が苦しんでいるのは自分が「罪深い」からだ」といった罪悪感ベースにおける知覚ないしは解釈であり、前後即因果の誤謬を神と自分の関係に適用したものです。

 

話を戻しますと、ですから、この路線で捉えたとき、地球はマルデクのカルマを引き受けて癒すという役割がある、ということになります。

 

で、そうしなければ、意識の分断状態は別の次元における(直線的時間では「遥かな過去」あるいは「遠い未来」になります)太陽系の中のマルデクを破壊して、そしてそれが地球に覆いかぶさる、というようにして、太陽系の内部には、宇宙の全体性から切り離された「極小無限ループ」が形成されている、ということになり、人はどうしても、この「極小無限ループ」にいったん囚われてしまうというわけですが、おそらくですが、これが「自我生成コイル」となっているものと思われます。

 

ですから、よく、「自我はどのようにしてできたのか」みたいな疑問がありますが、これに関してはもう、太陽系の構造自体に起因しているとするより他はなく、しかも、こんなことまで予測して太陽系が設計されたとはちょっと考えにくいので、これは「太陽系の「初期故障」」とでもしておいた方がいいのかもです。

 

新幹線、初期故障千件 1964年10月27日 「再現日録 東京五輪の10月」(27)|47NEWS(よんななニュース)

 

ただ、こうしたことはどうであれ、人がする必要があることは結局、本質的には昔から変わっていませんが、ただ、そのアプローチ法に関しては、昔とは様変わりしているわけであり、その意味で、奇跡講座は「現代の福音書」である、という表現をすることもあるようです。

 

というわけで、意識の「方向分岐」に関する「お話」でした。

 

で、まあ、ここでも、こうした「初期故障」の対応や対策に追われるのは、決まって「スタッフ」「関係者」であり「お客様」ではないという。。。

 

というわけで、「令和ちゃん」とは日本人の集合魂の表象、なのかもですね。

 

あの頃から、今後の地球の「かじ取り」は、現人類にバトンタッチされたっぽいですから。

 

年号キャラ「令和ちゃん」なぜ流行? SNSに「擬人化カルチャー」が定着した3つの背景: J-CAST ニュース【全文表示】

 

知らんけど。

 

それから追記しておきますが、この「方向転換」は、どの人もいずれ何らかの形でその段階を通過するものですが、ただ、それを今回の人生で迎えるのか、あるいは別の人生で迎えるのかは、それぞれの選択によっています。

 

ですから問題は、こうしたメカニズム自体とは別のところにあり、それは、例えば人生は今回のものだけだと信じるといったところにありますが、このこと自体が間違っているわけではないんですよね。

 

ですから、輪廻は本当だということではなく、自分は実際には常に多重的な生を生きている、つまり時空を超えて同時に複数あるいは無数の生を生きていて、今回の人生はそのうち特定の生がリアルに自覚されている、というような感じです。

 

これは霊的には「類魂説」のようなことですが、しかし、いわゆる「過去世のカルマ」といったものも、現在においてのみ解消できるという意味では、「人生は1回限り」という捉え方もまた可能です。