さて、このタイトルはあえて、日本語にまつわる問題を一つ、仕込んであります。
それはおいおい明らかにするとして、昨年末、某食品メーカーの社員による内部告発本がいろいろと物議を醸していました。
それに関してメーカー側は、あれは複数の社員ではなく単独である、というような声明を発表していたようですが、そうしたことではなく、「メーカーが公益に反する行為をしている、という趣旨の内部告発が社員によってなされた場合、その社員の処遇をどうするか」というところが、大きな焦点になっているようでした。
ところが、です。
問題はそうしたところですらありません。
そもそも、何をもって「公益」と認定するか、というところからして、すでに食い違っている、というわけです。
つまり、「公益」という言葉を使おうにも、メーカー側としては、公益とは「ワクチンを生産すること」であり、反ワクチン側の人としては、公益とは「ワクチンを生産しないこと」を意味しています。
このどこに、何かやり取りが成立する可能性があるのでしょうか。
つまり、お互いに「公益」に関して何らかの意味あるやり取りをしようにも、そもそも何をもって「公益」とするかが根本的に食い違い、相容れないわけですよ。
これはもう、話し合い以前の問題ですね。
メーカーの思う「公益」を推し進めれば進めるほど、反ワクチン側の人としては、それは「公益」どころか「公害」なわけですよ。
ところが、メーカー側としては、無闇にメーカーを批判されることの方が、「公害」的な感覚になります。
しかも今回はメーカー外ではなく内部告発である、つまり文字通り「獅子身中の虫」なわけですから、そらもう、「駆除」したくなるのが会社組織というものでしょう。
獅子身中の虫 | 会話で使えることわざ辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
もし、組織がこうしなければ、組織の内部秩序はいずれ崩壊しかねませんから、これは機能としては「免疫系」ですね。
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で、こうしたことはもう、ゾロアスター教の昔から「光の子と闇の子の戦い」として捉えられているわけですよ。
ただし、例えばこうした、光と闇の戦いといった発想は、ゾロアスター教では楽観的なものであり、現代のそれは主としてイスラエルで発達したとされているようですが。
さて、問題は、闇の側から見ると、闇ではなく光の方が潜在的な闇を抱えていると見えている、ということですかね。
これは、例えばペルシャとインドでは、神々と悪魔との立場が互いに入れ替わっている、というところにも、その痕跡をとどめていますね。
つまり、この世界においては、その本質が光であろうが闇であろうが、どちらもお互いに「私は光、あなたは闇」としている、という点では同じことだ、というわけですよ。
そらもう、自分は光の側だと信じている人が、「あなたは闇そのものだ」と言われたら、心外ですから、簡単な指摘も受け付けられませんよね。
ただしこれは、その人が実際に光かどうかとは別で、「自分は光だ」と心底思い込んでいるかどうかの話、つまり真の自己のことではなく自己概念についての話です。
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定義が異なっていたら、その後に展開される議論はすべて、ことごとく異なってきます。
これは、幾何学の体系において顕著ですが、例えば、ユークリッド幾何学の第五公準というものがあります。
この公準(公理)を「積極的に疑う」ところから、非ユークリッド幾何学が発展しましたが、これらの幾何学は、ユークリッド幾何学とはかなり異なった世界を展開しています。
例えば、ユークリッド幾何学では、三角形の内角の和は180度になりますが、これは描かれている面が平面の場合になります。
その面の曲率が正の場合、内角の和は180度より大きくなり、曲率が負の場合、180度より小さくなります。
そして、地球平面上に描かれる三角形は、厳密には、実は180度より大きくなっています。
これは、地表面は球面でもありますが、球面は正の曲率を有しているからです。
さて、ということは、「三角形の内角の和は180度なのか」ということに関しても、例えばこのように、平面上での話なのか、曲率が正あるいは負の面上での話なのかによって、話はかみ合わなくなります。
こうしたことは先の、平行線の公理を変化させてみた結果として生じたものでした。
つまり、議論の前提が異なっているため、話がことごとく異なっている、ということです。
さて、ですから、ユークリッド幾何学のこの公理は、「平面」の定義だとすればいいのではないか、とは思いますが。
というのは、例えばですが、ユークリッド幾何学では、「線」の定義は以下のようになっています。
「線とは幅のない長さである。」
例えばこのように、第5公準は「平面性の定義」とでもいうようなものなのではないか、ということです。
実際、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との違いは、この公理の発展形として、
一直線上にない一点を通り、その直線に平行な直線が
・ただ1本引ける……ユークリッド幾何学
・1本も引けない……曲率が負の非ユークリッド幾何学
・何本も引くことができる……曲率が正の非ユークリッド幾何学
として、それぞれ端的に識別されます。
つまり、この公理はどちらかというと、面の性質を区分する機能を有しているということになります。
ですから、今までの捉え方では、平面上において成立する性質として、この公理を捉えていましたが、実はそうではなく、この公理の性質が成り立つような面が平面である、ということだったのではないか、というのが、ここで私が思いついたことです。
つまり、今までの捉え方には、例えば以下のような流れがあるものとします。
平面 → 平行線の公理
そうすると、ここでの思い付きは、以下のようなことになります。
平面 ← 平行線の公理
ま、それはともかく、ここで言いたいことは例えばこのように、前提が異なっている場合、その後の議論はことごとく噛み合わなくなるか、せいぜい部分的に一致を見るに終わるのではないか、ということでした。
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ところが、この「部分的な一致」というのが、意外に見逃せない、というか「曲者」のようでした。
これは、実質的には、「互いに真逆」の状態を同時に含んでしまうことになるからです。
それはどういうことか。
先の非ユークリッド幾何学において、あれらの幾何学の名称として、以下のようなものもあるようでした。
・ユークリッド幾何学 : 放物幾何学
・曲率が負の非ユークリッド幾何学 : 双曲幾何学
・曲率が正の非ユークリッド幾何学 : 楕円幾何学
これはどういうことか。
このように、円錐曲線を区分するとき、「楕円、放物線、双曲線」として区分することがあり、
これはそれぞれ、曲率が正、曲率がゼロ、曲率が負に、それぞれ対応しているからです。
曲率が正の非ユークリッド幾何学のことは「リーマン幾何学」とも言います。
曲率が負の非ユークリッド幾何学には、ロバチェフスキーやボヤイなどがあるようです。
さて、ここで円は楕円の特殊形とされます。
というのは、楕円には焦点が2つありますが、円はその2つの焦点が1つに重なっているものとみなすことができるからです。
そして、楕円の焦点のうち、一方がどんどん離れていったとします。
すると、やがてその焦点は視界から消える、つまり「距離無限遠」となります。
この時の円錐曲線は放物線となっています。
さて、それでも焦点が離れていったとしたら、今度は、「反対側から現れる」わけですよ。
そうすると、これは双曲線となります。
そうすると、反対側から現れた焦点と、初めの焦点とが一致するとき、これは「交わる2直線」となります。
このときも2つの焦点は、円と同様、重なっていますが、ただし、重なり方が円とは「反対」になっています。
にもかかわらず、「重なっている」ということ自体は同じです。
例えばこのように、「部分的に一致」ということにも、性質が真逆のものが含まれているのではないか、ということです。
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さて、心の健康について捉えるとき、「ポジティブである」というのは、どうしても避けられないものがあります。
では、「自分がポジティブである」ということだけではなかなかうまくいかない理由は何なのか。
そこに持ち出されるのが、自分がポジティブであることにより、周囲の人が多大な迷惑をこうむっている場合がある、ということです。
そういう人を見ていたら、ポジティブであることの「弊害」について思われてなりません(笑)。
また、自分が「あえてネガティブ」であることにより、結果として相手がポジティブになることもあるので、このように、自分を「あえてネガティブにする」というのは、とても「うまみ」があるわけですよ(笑)。
ただしこれ、実は初めのありようが反対になっただけ、だったりします。
つまり、初めのありようは、「自分はポジティブだが相手はネガティブ」というものでしたが、その次のものは、「自分はネガティブであることにより相手がポジティブとなる」というものでした。
つまり、関係のうち一方がポジティブ、もう一方がネガティブという二元性の上に成立しているという点では同じであり、ただ、どちらがポジティブかという立場が異なっているというわけです。
そうするとどうしても自分は、「勝手に傷つく」流れとなりがちです。
こうしたことは構造的なことであり、いわゆる心理的問題ということではありません。
ここで、「ポジティブには 2 つある」、つまり、先に言及した、周囲の人が多大な迷惑をこうむるようなポジティブさとは別に、自分がポジティブであっても相手が傷つかないような、そういうポジティブさがあるのではないか、ということです。
そうするとこれは、「自分がポジティブである」ということ自体は一見すると同じでも、実際には何か真逆のありように関する言及である、ということが、何となくわかってきます。
そして、この両者を混同すると、わけがわからなくなります(笑)。
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さて、「公益」とは何か。
これでようやく、タイトルのところに戻ってくることができました。
ただしタイトルは、「何が「公益」か」でした。
今、戻ってきたところは、「「公益」とは何か」でした。
これ、同じ意味であるというのは、お分かりいただけるかと思います。
つまり、「公益」ということに関して、改めて問い直そうということです。
ところが。
「何が「公益」か」といういい方は、日本語だと、怒りだったり不満だったりの感情を表しているんですよね。
これ、「公益」という言葉だと分かりにくいですが、例えば「何が「あなたのため」だよ」とかだと、この怒りとか不満とか、あるいはケチをつけたい気持ちとかが感じられてくるかもしれません。
ところが、例えば「万人の幸福のために益するところのものは何か」みたいなテーマ設定にすると、これは途端に理知的なことになります。
ところが、言葉上の意味としては、先のものと実質的に同じなわけですよ(笑)。
では、「何が「あなたのため」だよ」というのも、もしかしたらですが、「真に相手の利益になる行動とは何か」みたいな意味なのかもですね(笑)。
ま、相手に対する敵意とかから「何が「あなたのため」だよ」とか思った場合には、感情からのものかもですが(笑)。
しかし、「真に相手の利益になる行動とは何か」つまり「利他」について思索を巡らせるときにも、実際には感情が伴っていませんかね。
例えばこうしたことが、記事の冒頭でちらっと言及した、「日本語にまつわる問題の一つ」でした。
ま、ざっとこのような問いかけで記事を終え、結論らしき結論をあえて出さない、というスタイルも、たまにはいいのかもです(笑)。
ではでは~。