100パーセントの女の子について考える | きゅっきゅ8のえんがわで

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人生は演劇だ。社会劇場、世間の目を観客に、何者かを演じて生きる。無限大の可能性を信じて、制服に征服されぬよう、着たい服をまとい息をする。こころの店、きゅっきゅ8(きゅっきゅや)のえんがわで、うたたねしながら感じる音や光。
ゆき過ぎる日常をたねに、うたう。


村上春樹の短篇選集『象の消滅』に収められている「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」

実は、村上春樹の作品をきちんと読んだことはない。流行りものは極力、見ない、読まない、買わない、持たない…という、例のあまのじゃく心による。

近年、朗読でこの話を聴く機会があり、素敵な話だと覚えていた。そして偶然にも、ちょっと芝居仕立てで、2回目を観る機会に恵まれる。


ここまできたら、普通は、原作を読もうと思うのだろうが、まだ、その日は来ていない。

この話の中での「100パーセント」というのは、好みや容姿などではなく運命的なものとして描かれている。
わたしは、「好き」には順位がない気がしていて、Mr.Childrenの「LOVE」の歌詞には、すごく頷ける。
日本は一夫一婦制だが、世界には一夫多妻制や、ある家の一人の女性と別の家の兄、弟の2人の男性が結婚するという地域もある。

せっかく出逢ったのだから、みんな仲良くなればいいと思ってしまう。1人ができる範囲には限りがあるわけで、やはり、これは、この人に頼りたいとか、これを頼むならこの人というのがあると思う。人の周りに色々な人がいるのは、きっと、1人では補えないものも、何人かいれば、得意なことを活かし合って生きていけるようにではないかと。
2人でご飯でも、みんなで雑魚寝でも、何でも仲良くすればいいと思う。

まあ、なかなか理解されないのだが。特に、結婚している同世代の友人には。


そして、自分が思う100パーセントの女の子について。これは、運命的なものではなく、「ああ、女の子だなあ」と思う、ほぼ100パーセント自分には無い特徴を備えている女の子の姿。こんな子、いないよと思うかもしれないけれど、実際、わたしの周りには何人か居るのだ。そして、なぜか恋の相談をしてくる不思議。


華奢で、目がぱっちりで、うるっとしてて、声は高めで歌ってるような感じ。でも、ふとした時には低い声。言葉のあちらこちらに、んふふって、ふわっとした風のような笑い声。お菓子作りとか細かい作業が得意で、でもたまに失敗して、人なつっこくて、小顔。泣くときには、人が周りにいても、顔伏せたりしないで、ぱっちりな目のまま、大粒の涙を流す。怖かったとか寂しいとか、遠慮せずに言う。そして一途。とっても真っすぐ。目を離すと、ふらっとどこかへ飛んでいってしまう、危なっかしさ。

憧れる。