生きていく上で
「めんどくさくないこと。」など無いと思います。
意識するしないに関係なく
というか
心臓が動いて、血液を送り出し、循環させていることすら
無意識なこととして行われていますが
カラダには、ある面では、ストレスで
「めんどくさいこと。」といえるかもしれません。
「そんなこというなら生きるということを続けないほうがイイのか。」
そんな風にアタマに浮かんだんだとすれば
他人の意見に対して「考えること。」という
めんどくさいことをしているってことですから
そう、そういうことなのです。
まぁ、しずれにしても破壊的な思考による現実逃避は
企業の再生などのケース以外は
お勧めしませんが。
最近乱発されている
「面倒くさい」というキーワードも
使い方や使われる場面で様々な意味に変化をしたりします。
そもそも「面倒」というのは
「手間がかかったり、解決することが容易でなかったりで、わずらわしいこと。」だったり
「世話」のことだったり
「体裁が悪いこと。見苦しいこと。」のことを言います。
スマートにというか、カッコウ良く進めることのできないときに
簡単に口をついて出る
「めんどくせぇなあ。」
物事をスタートさせるときに、とっかかりやきっかけが見えないときに簡単に逃げ道をチョイスすることを自爆装置のスイッチを押すかのように後押しする
「めんどくせぇなあ。」
責任を背負わないように、なおかつ、拒否することによって他人を傷つけないようなフリで、実は、自分が傷つくことを回避するための号令
「めんどくせぇなあ。」
そうかと思えば
「これって、めんどくさいっすね。」って言いながら、目を輝かせて、ファイト満々、やる気モリモリ、モチベーションアップのトリガーを引くことの原動力にしてる人もいます。
「こいつめんどくせえなぁ。」って、あたかも上から目線で、自分のものさしに合わない人を笑いの種にしている人たちもいます。TVプログラムで、芸人さんたちが仕事でやってることと、自分が立っている場所が同じだと勘違いでもしているのでしょうか。
「めんどくさいこと。」がすべてのソリューション(解決策)の源であることは、いうまでもありません。
そして、それが、誰にとって
「めんどくさいこと。」なのかってことです。
節電で、地下鉄の長い長い階段が
「めんどくさいこと。」として、仕事帰りの重い体にムチ打つようなことになったりします。
電力会社の責任がどうこうっていう論旨のすり替えに乗っかって
もう電力の垂れ流しという「めんどくさくない。」方向に簡単に流されはじめている現実。
自分の都合、自分だけの都合。
提供される商品やサービスは、細分化されて
かゆいところに手が届く状況で
それが当たり前で
知らず知らずのうちに
ちょっとでも「めんどくさいこと。」からどんどん引き離されてしまっている、プチ、洗脳されている現実。
「めんどくさいこと。」に
実直に、淡々と
いっしょうけんめい
立ち向かっている
美しさ。
他人を好きになって
自分の心が揺さぶられるのが「めんどくさい」から、と平然と言ってのける
恋人のいない人、人付き合いを拒絶する人たち。
そしてそれを「そうかそうか」と聞いてやって、物分かりの良い人を装っている
本質から目をそらして「めんどくさいこと。」から自分も逃げている人たち。
そういう気分のときがあることは
否定もしないし、排除しようとも思いません。
でも
やっぱり
「めんどくさいこと。」が
おもしろいことの
原石なんです。
それを
簡単に放り投げることもできます。
そう、いとも簡単に。
カッコウ良く、いろいろなことをこなせる人がいます。
努力していても人に感じさせない人もいます。
そういうところばかりに目がいって、憧れて
エッセンスだけをすくい取ろうと、ショートカットする方法ばかりに気持ちがいってしまう。
そして、それすら突き詰められない。
「めんどくせぇなぁ。」って言いそうになったら
それを飲み込んで
一呼吸おいて
「また現実逃避ですか。」って変換してみてはどうですか。
「めんどくせぇなあ。」っていう人が抱えている「めんどくせえこと。」ことはウェルカムですが
「めんどくせぇなあ。」って簡単に言っちゃう人は
それを正当化することに躍起になっている人は
やっぱり
さびしいなと思います。
強がれとか
弱みを見せるなとか
そんなこと言ってるんじゃないです。
目標や目的の達成にに近づくというプロセスは
泥臭くて
みっともなくて
「めんどくせえ。」ことのオンパレードなんです。
楽をしたいのなら
徹底的にそのことについて考えてみたらイイのです。
それすら
「めんどくさい。」んじゃ
ねぇ。
This is HASHIMOTO☆QUALITY