我が家にとっても永遠のテーマである「怒る」ということについて。
僕と妻の子供を「怒る」という事象に対する捉え方は真逆です。

妻は全く怒りません。諭すように話して、子供のしたことを受け入れます。(そういう本も読んでいるはずです。)
一方の僕は、運動部で大声を出す、仲間内で怒鳴り合うという環境で育ってきたせいか、怒るということについては一定の意味を見出しています。
ただ当然、怒鳴って子供を威圧して従わせる、という意味では全くありません。
言い方の程度の差はあれ(部屋に響き渡るような大声を出さなくてもいいと思います)、怒るということは、やっていいこと、悪いことの判断軸を教えるということだと思っています。
そして、この怒るという出来事を通じて、子供はやっていいこと悪いことを判断するため、これが甘かったり不十分だったりすると、その判断軸も曖昧になってしまうのではないかと考えています。

一方でこの「怒る」という行動の扱いが難しいのも事実です。
僕は、親の気に入らないことを全て子供に怒っていい、というニュアンスで言っている訳ではないのです。
もちろん、子供のやったことを受け入れてあげるシーンもあります。

僕が考える「怒る」の使い方は、冒頭にも書いていますが、やっていいことと悪いことの分かれ目で、やってはいけないことを教えるときに使うべきなのではないかと考えています。
分かりやすいのが、お友達を叩いてしまった時。
当然、なぜそうなったのかという子供の話は聞きますが、自分の意見の主張の仕方として"手を出す"ということは、間違っているのではないでしょうか。
感情表現に困ったら短絡的に人を殴ってもいい、という価値観が形成されそうだと僕は思っています。
ケンカになってしまった経緯はきちんと耳を傾けつつ、その上で【人を叩く】という行為自体は、絶対に許されるべきではない、という温度感で子供に話すべきだと思います。
これを、完全に子供の気持ちに寄り添って怒らずにいたら、「これでいいんだ、同じようなことが起きてもまた誰かが助けてくれるんだ」という考えに陥り、結果大人になって誰も助けてくれないという状況に直面しそうな気がしてしまうのです。

もう一点、「親が怒る」という観点でこれが大事だと思っているのが、どんなに親が怒らなくとも、社会に出れば必ず誰かに怒られます。
園の先生や、道を歩いている人に「うるさい!」と怒鳴られることなど、さまざまです。
親が怒らずに、他の誰かに怒られてやってはいけないことを学んで帰ってきて、「うちの子は怒らなくても学べている」と考えるのは少し違うのかなと思っています。
ただ、家や家族、親が子供の逃げ道である重要性は疑いようもありません。
学校で厳しく怒られて、家でも厳しくされる、というのはやはり子どもにとっては非常に大きな負担とダメージだと思います。
そこは上手く見極めつつも、怒る(悪いことだと教える)という役割を他ならぬ親が負うべきだと僕は思っています。
正直に言うと、僕は何があっても怒らないという教育方針は、ただ子供に嫌われたくないだけなのではないか、と感じてしまうのです。
子供を愛するということは、"優しい"だけが答えではないと思っています。
例えば、社会に出て他の誰かに怒られそうなこと(時間や約束を守る、とか人のモノを取らない、みたいなことも含め)を先んじて教えてあげて、分別がつく人間に成長させるということも、愛情表現のひとつだと考えています。

物事の道理を教える上では、本気で怒らなければ「本当にこれは悪い事なんだ」という認識が育たないと思っています。
個人的に僕がしっかりと怒らなければいけないと思っているのは、
・正しい道具の使い方(食器はオモチャではない、ハサミなどの刃物は使い方を間違えると大事故になる、など)
・人との接し方(人の気持ちに共感する、人を思いやる、など)
・常識的なマナー(テーブルの上に足を乗せない、時間を守る、など)
です。

最後に、まだ想像でしかないですが、逆に一切怒らなくてもいいんじゃないか、と思っているのは、子供がある程度自立し始めてからだと現時点では思っています。
この時こそ、子供の話に真剣に寄り添い、話し合いで答えを探していく、ということが大事になっていくのではないか、と。
小学校高学年〜高校生、くらいにかけてですかね?

あと、なんでもかんでも怒鳴りつけるのはダメだと思ってますよ!
怒鳴られると脳が萎縮する、なんて研究も聞いたことがありますからね。