前にもアップしたように、歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』が5月26日(日)21:00~23:00に、NHK・Eテレ「古典芸能への招待」で放送予定です。十八世中村勘三郎十三回忌追善として、中村勘九郎と中村七之助が主演の話題の舞台です。

ぜひご覧になって古典芸能にふれましょう。

 

『籠釣瓶花街酔醒』は、「かごつるべ さとのえいざめ」と読みます。歌舞伎の演目を外題といいますが、通常縁起を重んじ、五・七など奇数で表現されることが多いです。

例えば、五字では『義経千本桜』『曾根崎心中』、七字では『仮名手本忠臣蔵』『京鹿子娘道成寺』など。一字では『暫』、二字では『土蜘』、三字では『勧進帳』、四字では『絵島生島』、六字では『ヤマトタケル』など。

 

さて、『籠釣瓶』とは何でしょう?実はこの歌舞伎の主人公のひとつは、人間でなく、刀。銘を「籠釣瓶」という。もともとの釣瓶は井戸水を汲み上げる桶だが、通常木製(私が使っていたのはブリキ製)で、竹で作った釣瓶(籠釣瓶=非常用に竹と紙に作る)では井戸水を汲めない。すなわち、水も溜まらない。銘『籠釣瓶』の刀に水をかけても、水滴をも切り裂いて刀に付かない、水も溜まらない程の切れ味の名刀という意味である。

この名刀は、伊勢桑名の刀工 千子村正(せんご むらまさ)作で、村正は最も有名な刀工。江戸時代以降、妖刀と呼ばれる。それは、徳川家とかかわりがあり、①家康の祖父である清康が家臣に村正で殺害された ②家康の父である広忠は村正の脇差で切られた ➂家康が子供の頃、村正の小刀で手を負傷 ➃家康の長男の介錯に使われたのが村正 ➄家康の敵である真田幸村の愛刀が村正 ➅関ケ原論功行賞のとき、家康が誤ってケガをした ⑦駿河大納言忠長が切腹した刀が村正などであり、村正は徳川家にとって仇名す妖刀ということになったと言われる。

但し、これらは根拠がないとされる。徳川家は村正を二振り所蔵しており、江戸幕府終焉の時に、尾張徳川家に下賜され、現在徳川美術館に所蔵されている。徳川家にとって仇名す妖刀ならば所蔵されるはずがない。現在、あべのハルカス美術館で開催中の『徳川美術館展 尾張徳川家の至宝』で

村正が展示(刀 銘村正 徳川家康・徳川義直所持)されている(先日、見てきました)。

しかし、一般には村正は妖刀とされ、いったん鞘から抜かれれば、血を見ないとすまない妖刀とされる。

 

さて、あらすじをかんたんに解説しよう。実際に起きた事件「吉原百人切り」を元に書かれたもの。

群馬県佐野の絹商人で、あばた顔の佐野次郎左衛門が吉原で花魁の八ッ橋を見初め、通い詰め、身請け話が持ち上がりますが、しかし、八ツ橋には昔からの情夫である繁山永之丞がおり、八ツ橋に縁切りを迫ります。八ッ橋は次郎左衛門の真心に心を動かされながらも、満座のなかで、次郎左衛門に愛想尽かし(身請け話を断り)をします。

 

「花魁、そりゃァあんまり袖なかろうぜ。夜毎に変わる枕の数、浮川竹の勤めの身では、昨日にまさる今日の花と、心変りがしたかは知らぬが、もう表向き今夜にも、身請けのことを取り決めようと、ゆうべも宿で寝もやらず、秋の夜長を待ちかねて、菊見がてらに廓《さと》の露、濡れてみたさに来てみれば、案に相違の愛想尽かし。そりゃもう田舎者のその上に、ふた目と見られぬわしゆえに、断られても仕方がないが、何故初手《しょて》から言っては下されぬ。江戸へ出るたび吉原で、佐野の誰とか噂をされ、二階へくれば朋輩の、花魁方や禿にまで、言われるようになってから、指をくわえて引っ込まりょうか。そこの道理を考えて、察してくれてもよいではないか。」

 

次郎左衛門は、その場は、引き下がりますが、後日、妖刀「籠釣瓶」村正を持って、八ッ橋のもとに現れ、「恥をかかせたなあ」と村正に引きずられるように、八ッ橋を切り殺します。

籠釣瓶はよくきれるなあ!

 

キャストは

佐野次郎左衛門 中村勘九郎

八ッ橋 中村七之助

繁山永之丞 片岡仁左衛門

亀蔵、松緑、歌六、鶴松など。

シネマ歌舞伎では、勘三郎、玉三郎が演じてます。勘九郎が父の演技にどうせまるか。

 

温厚で真面目な次郎左衛門が狂気に走るさま、愛想尽かしをせざるを得ない八ッ橋の心の奥底。

さあ、歌舞伎を楽しんでください。