新大阪に行く用事があり、新大阪のGoogleマップを見ていたら、「さいの木神社」 という神社が目に止まった。
 
さいの木? それ何?と思って調べてみたが、
 
http://bit.ly/UM9t82
とし‐ぎ【年木/▽歳木】
1 新年の燃料として、暮れのうちに用意したたきぎ。《季 新年》
2 戸口や門松のそばなどに置き、年神に供える木。節木(せちぎ)。若木。幸い木。《季 新年》
 
これかなー、と思う程度で、よくは分からず。
 
そこで、「さいの木神社」 を調べてみたら、「中島大水道」 の物語に繋がった。
 
http://bit.ly/LXsUIP
このブログの中盤から、「さいの木神社」 の説明が始まります。
 
少し引用。
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さいの木神社
祭神 行者神変大菩薩
 
合祀
西尾六右衛門(山口村庄屋)
澤田久左衛門(大道村庄屋)
一柳太郎兵衛(新家村庄屋)
 
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徳川四代将軍家綱の代 低湿地の西成郡二十三ヶ村淀川洪水のたびに荒廃した 疲弊した農民を救うため封建の世に一介の庄屋の身を犠牲にし京都郡代所の反対をおして延宝六年四月八日中島大水道の堀さくを完成 その責を負い当地にて自決され農民の神として当地の発展に寄与さる その遺徳を讃え当社に合祀
 
西村の細目木は3名の庄屋が江戸をにらんで切腹自殺したと伝えられる地です。この神社には村を水害から守るために中島大水道を開削し、幕府の命にしたがわなかったために自害した3名が祀られています。

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▼ほほー、昔、そんなことがあったのか。
延宝6年…これも調べてみると、「えんぽう」 と読む。延宝6年は1678年。江戸時代前期、徳川家綱4代将軍の頃です。
 
その「中島大水道」 がどうなったのか、調べてみました。
 
http://bit.ly/SgADW7
このブログに「中島大水道」 が載っていたので、少し引用。
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江戸時代より、中島大水道(大野川)は十三の町を「W」の字のように横切って流れていました。戦前までは舟運水路としても利用されていましたが、戦後、下流域での地下水のくみ上げによる地盤沈下などで河川機能が著しく低下し、水質が悪化、悪臭とごみの川になってしまいました.
 
中島大水道は高度成長の発展とともに消えていった河川ともいえます。昭和39年に開業した新大阪駅、昭和41年に完成した十三バイパスはまさに中島大水道の上に作られた構造物です。現在、中島大水道の石碑はいくつか存在しますが、河川があった名残はほぼ皆無です。少し寂しいですね。

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▼何だ、残ってないのかー。洪水が起きるから作ったのに、河川機能が低下したということは、他の河川が、大雨の時にも大量の水を氾濫なく流せるようになった、ということなのでしょうか。
 
もう少し、「中島大水道」 について見てみます。
 
http://bit.ly/QcSqiT
このブログにも説明がありました。
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延宝六年、水害のための不作に悩んだ当地の農民は、排水用の水道工事を考えました。
莫大な費用が掛かるため、陳情にいくと幕府は「全額百姓負担」とのこと。農民は「せめて幕府に半分持って欲しい」と嘆願すると、幕府は態度を変え「生意気な、工事はならん!」と一蹴。
 
仕方なく、許可を得ぬままに三人の庄屋さん主導のもと突貫工事を始め、なんと二十八日間(異説五十日)で、九.五kmの水路を完成させました。
 
途中、奉行所から工事中止を言い渡されましたが最後までやり抜きました。工事の途中、三人の庄屋さんはその責任をとって、役人に捕らえられる前に切腹したそうです。
白装束で、将軍のいる江戸の空を睨みつけながら。
 
切腹の場所は、西中島七丁目にある「さいの木神社」。今でも四月九日に慰霊祭が行われています。
 
資料につきましては、三善貞司先生の大阪春秋84号執筆作と「わが町昔さが誌」・渡邊忠司先生の「町人の都大阪物語」・東淀川農業協同組合編「百姓普請の中島大水道」・「東淀川区史」などを参考にさせていただきました。


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▼ここにも、まだ水を湛えている中島大水道の写真がありました。
 
で、前記のブログの「最後に一言」 のところには、いいことが書いてありました。
引用します。
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最後にひと言。
 
 資料を当たると、ある小学校の記念誌に「むかしはここで遊びました…、汚いドブ川になりました…、子供が溺れました…、この川は危険です…、埋め立てて遊べるようにしました…、私たちの町はこんなに素敵に変りました…」という記述がありました。
 
 私が正しく訂正します。「むかしはここで遊びました…→(むかしはここで遊びました)、
汚いドブ川になりました…→(私たちが皆さんのためを思った結果、汚れました)、
子供が溺れました…→(汚れた川には人は近付かないものですが、変った考えの子供が溺れました)、
この川は危険です…→(こんな子供がいるから危険です)、
埋め立てて遊べるようにしました…→(特別に埋め立てて遊べるようにしてあげました)、
私たちの町はこんなに素敵に変りました…→(私たちの町はこんなに素敵に変りましたがまだ危険な場所があれば埋め立てましょう)」
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▼「中島大水道」、
(1)作らざるを得なかった事情、
(2)無くしても構わなくなった事情、
(3)無くしてしまわないといけなくなった事情。
 
いろいろあるんですね。(2)は、(1)を受けているはずですから、
中島大水道の場合、「洪水被害がなくなった」 ということなのでしょう。その理由も見つかれば良かったんですが、取り敢えず今回は、(1)と(3)だけ、垣間見ることができました。
 
「中島大水道」 ができた経緯については、大阪市のホームページ、東淀川区の中にも、説明がありました。更に、ここには、前記ブログには書かれてなかったことも載っていました。
 
http://bit.ly/Uhb35D
引用です。
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中島大水道跡(なかじまだいすいどうあと) [2009年3月16日]
 
 江戸時代、北中島一帯は一万数千石の米を生産する農村でした。しかし、低湿地で土砂堆積による洪水がひどく、河川の氾濫は淀川治水工事によって防ぐことができましたが、田畑にあふれた雨水などは排除できず、村民は幕府に排水路の設置を何度も訴えました。
 しかし許可はおりず、延宝元年(1673年)、たまりかねた一柳太郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋が先頭に立って、排水路を設けてほしいと幕府に強く訴えました。延宝5年(1677年)、ようやく幕府は「工事に関する費用は、すべて百姓が負担する」という条件をつけて、排水路の設置を許可します。しかし、延宝年間は悪水で不作に苦しんでいたため、「せめて多少の補助を」と嘆願すると、感情を害した幕府は許可を取り消してしまいました。ついに耐えられなくなった三庄屋は、延宝6年(1678年)3月11日、新太郎松樋を水路の拠点として、無許可のまま工事を強行しました。村民たちは老若男女を問わず工事に参加し、昼夜の別なく働いて、福村吐口樋までの5102間(約9200メートル)、深さ3尺(約90センチメートル)の水路を28日間で完成させました(約50日間で完成させたという説もあります)。
 許可を得ず強行した三庄屋に幕府は怒り、工事の即時中断と出頭を命じますが、三庄屋は同年4月9日、西村の細目木(さいのき:現在の淀川区西中島7丁目)付近で、江戸の方角を向き、抗議の自決をしました。村民たちはこの悲壮な行為に感動し、幕府もこれを無視できず、2年間をかけて補助金も出し、中島大水道を完成させました
 現在の東淀川区から淀川区を抜け西淀川区に至り、大阪湾に直結した大水路は埋め立てられてしまいましたが、西淡路5丁目の新幹線の高架のそばに「新太郎松樋」の石柱と「中島大水道顕彰碑」が建てられています。
 
(「広報ひがしよどがわ」平成15年5月号に掲載)
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▼前記のブログで登場しなかった部分が、
「幕府もこれを無視できず、2年間をかけて補助金も出し、中島大水道を完成させました」
というところです。
 
庄屋さん3人の抗議の自決は、幕府を動かしたんですね。
 
 
▼為政者とルサンチマン
 
ざっくり言ってしまうと、日本で神様として祀られるのは、
(1)特に秀でた善政を行った人
(2)つらい思いをしてまで、他人のためになることをした人、
のどちらかである場合がほとんどです。
 
前記(1)が祀られるのは、平たく言えば、金メダルとか、ノーベル賞とか、そういう感じで捉えても間違いではないと思います。
 
為政者、つまり政治家というのは、善政を敷いて当たり前。ちょっとやそっと、善政を行っても「それが仕事だ」 ということで、褒められることはありません。政治家の先生方、大変でしょうけれど、頑張って下さい♪
 
 
次に、日本で(2)が祀られるのは、「為政者への抗議」 が高く評価されるからではありません。
 
残された人々の後悔が反映されるから、お祭りされるのです。 ←
残された人々の後悔が反映されるから、お祭りされるのです。 ←
 
中島大水道の物語では、「多くの人々のためになった」 という業績が認められ、
「あー、あそこまで追い詰めなければ良かったな」
という残された人々の後悔が反映され、幕府も動くことになり、3人の庄屋さんは神様として祀られたのです。
 
「抗議したこと」 自体を褒めて良いわけでないので、この点には注意が必要です。何かと「反体制的な活動」 に酔う人々もいらっしゃるようですが、ルサンチマンに陥ることのないように気を付けないといけません。
 
http://bit.ly/bxzt6z
ルサンチマンとは、フランス語で、「主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情」 ということだそうです。1880年代には確立されている考え方です。
 
ルサンチマンは、決してかっこいいものではないので、自分がルサンチマンに陥ってしまわないようにしましょう。
 
 
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