今日、祖母が亡くなりました。


夜中の1時半頃に母に連絡が入り、母ら子4人は病院に直行。
私は2時頃に母から亡くなったと知らせを受け、病院に向かいました。


夜中の2時に車を走らせることなんてほぼないので、新聞屋さんが新聞配達の準備をしていたり、飲酒運転らしき車を見かけたり、現実感のない世界の中、ぼんやりと祖母が亡くなったことを考えていました。


こんな時、目の前で起こっていることも、人の声も、ただ通り過ぎるだけだなと思います。
全てが景色になって、私は眺めているだけ。


前日、というか、ほんの11時間前、私は苦しそうに呼吸する祖母と最後の面会をしました。
私はそういう時だめで、涙が出るだけで声も出ない。
祖母と母の姿に、母と自分の姿も重ねていたと思います。
いつかもう1度来る未来なのかなとか。


病院に着いて清められた祖母に会い、でもまじまじとは見られず、清められる前は口の周りに血が付いていたと聞いて、何でそんな苦しまなきゃいけなかったのかな、と考えていました。
祖母が亡くなったと聞いて、というかその前からたくさんの子や孫が何度も面会に来ていて、全く孤独死とはかけ離れていた祖母の死。
でも死ぬのは自分だけで、焼かれるのも自分だけ。
孤独死とは?
私はまだ、以前書いた以下のブログのようなことを考え続けています。

死ぬのはいいけれど、何で苦しんで死ななきゃいけないのかな。
もちろんそうでない人もいると思うけれど、生きて生きて生きた先に、老いて病んで(少なからず苦しんで)死んでいくなんて、どうしてそんな設定を生きなきゃいけないのか。
そんな設定を生きるとわかっていて、それでも生は喜びなのか。


考えても仕方ないけれど、生と死について私は考え続けるんだと思います。
全部、「生きているうち」なんですね。
当たり前だけれど。