あねご三級建築士のブログ


舟唄伏見継唱会による淀川三十石船舟唄披露の前に、御香宮神社宮司の三木(そうぎ)善則さんの講演がありました。 伏見桃山城と豊臣・徳川両家とのかかわり。城下町であり宿場町でもあった伏見という町、そして淀川三十石船についてのお話。とても内容が深くて面白く、日本史音痴の私には驚きの講演内容でした。徳川家康から家光まで、征夷大将軍の就任はこの伏見桃山城で行われたとは意外でした。歴史の転換期に大きな意味のあるお城だったんですね。


この日の会場呉竹文化センター(京阪・近鉄の丹波橋駅前)近くに伏見桃山城があります。築城したのは晩年の豊臣秀吉。おいの秀次に関白の地位と聚楽第を譲ったあと、桃山城を隠居の住まい、別荘として考えていたのですが、嫡子秀頼の誕生で秀吉は心変わりを。「幼いわが子のためには隠居などしておれないワイ」と桃山城を本格的な城郭として築いていきます。


この時、もともと京都盆地の南側を流れていた宇治川を巨椋池(おぐら池)と分離して伏見に導きお城の外堀にするという土木工事が行われ、城下は淀川とつながり水位も上がりました。伏見は港町に、そして東海道五十三次に続く宿場町として栄えます。本陣も4つと多かった。


淀川三十石船は江戸時代に京都と大阪を結んだ旅客船。もしお米を積めば三十石運べる大きさがあったのでこう名付けられたらしい。長さは18m、幅は3m弱で定員は28名。一日900人を運んだそうです。

下りは夜京都を出発し朝大阪に。流れに沿って竿で操船。

上りは朝大阪を立ち、夕方京都着。どのように操船していたのでしょう、流れと逆なのに。なんと9箇所のポイントで、人間が綱で船を引っ張っていたんですって。


舟唄は船頭たちの労働歌。苦しい仕事に負けない、高らかな明るい歌声が素敵でした。

三十石船自体は、明治以降蒸気機関のある外輪船、そして鉄道網の発達によりすたれてしまいましたが、舟唄は今もこのように歌い続けられています。



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お開きの後、ホワイエで三十石船の旗を配る 船唄伏見継唱会のメンバー。


真ん中の女性はナレーションと進行を担当していた方。分かりやすく楽しい催しだったのは彼女の力量も大きかったと思います。