「日々、敬老」・敬老の日の起源と悲田院(聖徳太子) | メメントモリ 生と死を考えるブログ

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今日は敬老の日ですね。

兵庫県のある村長さん(のちに兵庫県議会議員)が提唱したものだそうです。
最初は「としよりの日」と呼ばれていたそうですが、ひびきが悪いので、「老人の日」と改称され、今の「敬老の日」になりました。
ちなみに、日本以外の国にはないとか。

もともとは9月15日でした。

なぜこの日なのかハッキリしないのですが、
「聖徳太子が悲田院(ひでんいん)を建立した日だから」、という説もあります。

悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき、身寄りのない老人や病人、貧しい人や孤児を救うために作られた施設で、これが日本に社会福祉のはしりといわれています。

では、「悲田」とは何でしょう?

「悲田」とは、仏教で教える、三福田(敬田・恩田・悲田)の一つです。

「田」という字がついているのは、施しのタネをまいた人が幸福の報いを受けるので、田んぼの収穫に例えられているのです。
「情けは人のためならず」ですね。

注意すべきは、誰にでも施せばいいのではない、ということ。

道楽息子にお金を与えていてはますます堕落するばかり。
テロ組織に献金したり、オレオレ詐欺にお金を振り込んでいては、悪の連鎖が速まるだけです。

では、どういう人に施せばいいのか?

それを教えられたのが「三福田」なのです。

○敬田(敬うに値する人)
○恩田(ご恩を受けている人)
○悲田(本当に困っている人)

これらの人に施しをすることは、とても良いことだと仏教で教えられています。
こうしてみると、今の敬老の日は、「ご恩を受けてきた年長者を敬い感謝する日」「身寄りのない年長者へ施しをする日」となります。

ならば、「日々、敬老」があるべき姿。
「敬老の日」は、「日々、敬老」のきっかけとなる日なのかもしれませんね。



※「孝行」の「孝」の字と「愛」の字については、こちらの記事をどうぞ

http://ameblo.jp/kyoumoarigatoune/entry-11924220834.html