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1/17000の闘争と逃走

日本全国に根を張る巨大組織。
その中のたった一つの小さな存在が反乱を起こし、闘争と逃走を開始した。
その記録と手法を簡明な文章でお届けする。

 

【参考意見】様  2020年6月19日

 

>>昭和5年発行「天理教その搾取戦術」より

 

(続き)

 

さて、だいぶ話がそれたようだが、本道に帰って、お話を進めていくこととしましょう。

 

* 私個人では、元の理は「神話の世界」だと思っておりますので、その神意や経緯の要点を採用するだけです。

  泥海古記全部の生命発祥と成長、生まれ変わりの過程が「真実だ」等とは主張できません。

  ですので、泥海古記の元の理に付いてはコメントを控えさせて頂きます。

  本日の記事、批判に対してお答えの出来る方はご意見をお寄せください。

  改めて、本ブログに掲載させて頂きます。

 

もう一度、天理教の主張を見ますと、

 

「人間は最初五分に生まれ長き年月の間に八千八度の生まれかわりをして遂に五尺の身体にまで成人したのであります」

 

と、あるのを読むことができる。

これがまた非常に面白いのでありまして、

一体どうして五分の人間が五尺になったかというと、

 

これは、「人間創造世界創造の原始的事実に基ずくものである。

 

即ち、

 

国常立尊 人間=眼胴、水気、潤い 世界=水一切

面足尊 人間=温み 世界=火一切

月読尊 人間=骨突張り、男一つの道具 世界=竹木一切突張り

国狭槌尊 人間=皮継、女一つの道具 世界=金銭縁談よろづ継ぎ

大戸辺尊 人間=爪、毛、誕生、成長 世界=動物植物鉱物一切引き出す

雲読尊 人間=飲食出入 世界=水気上下

惶根尊 人間=息吹き分け、物聞き分け、物言い分け 世界=風一切

大食天尊 人間=生れる時親子の縁切り、死ぬとき此世の縁切り 世界=切れ物、刃物を初め切断一切

伊耶那岐尊 人間=子種 世界=種物一切

伊耶那美尊 人間=女の雛型、人間種蒔代 世界=苗代一切

 

人間の生活力、及び生活機能並びに生活に必要なる物質は、以上十種の神の貸物である」

(大平良平著「人生の意義及価値」55頁~56頁)

 

と、明なる如く説明している。

 

 

以上十種の神が作り為せるものであって、人間は最初五分であったと説くのである。

 

この点=即ち、五分の人間が八千八度の生まれ変わりで五尺になったという点で、

何でも科学説に当てはめればよいことと思って、

これ本教が進化論と同一なる所以なりと、

大いに鼻を高くしている天理教学者があるが、然らば借問す。

 

 

1、神によりて創造の当初五分に作られたるものなるに、何故に八千八度の生れ変わりを為せる今日、等しく五尺の人間でないか、身長の高低、身体の肥瘦などを現わすに至ったか?

 

2、進化論一般に於ては「自然淘汰」「適者生存」等の必然の発展として、ハックレー氏の「自然に於ける人類の位置」に於て述べている「人猿同組説」と如何に関係あるや?

 

3、更に人間が五分であった。それは天理教の創造物語りである泥海古記によれば岐魚と巳とが人間の祖先になっている。さて、生物学、人類学、また考古学より、古代人は巨大なる骨格を有していたとの実証があるが、これは進化論では説明がつくが、天理教では説明できまい!これを如何にするか?

 

4、国常立尊=男神、面足尊=女神とが相談して、

「こうして広い世界に、吾々両神居るだけでは、何の楽しみも無い。ひとつ人間というものを拵えて、その陽気遊山を見て楽しもうじゃないか」(大平良平著「人生の意義及価値」33頁)

これによれば、天理教の神は創造の当初に於て、何の楽しみも無い。故に楽しむために人間を作ったこととなる。

然らば、天理教の神は、神自身が楽しもうとしてであって、功利主義的な得手勝手な神ではないか。

 

 

上述の如き四点に於て、天理教教理は、よくこれが解答を為し得るや如何に?

 

 

第一問に対しては「いんねん」(後述する)を取って来るだろう。

 

そして第二問に対しては、進むに従って成長するという点で、進化論的だと言うかもしれぬ。

 

また第三問に対しては、進化論だと主張する説明を放擲せねばなるまいであろう。

 

第四問に対しては、神の功利主義によりて生れ出された人間に、何故苦しみを与え、迷う如き心を作り与えたかに対して窮するであろう。

 

 

また借物は肉体財物なりと説くが、

神の創造せられた点によりて、

心もまた神の借物ではないか。

 

それを何故に心は自分のもの、肉体は神の借物だなぞと説くか?

 

肉体もまた神の作られたものであるという点で、神よりの借物なのだろう。

 

してみれば心もまた神の借物だとするに何の不思議がある?

 

それを、神の借物は肉体だけだとするは、神もあんまり無茶ではないか。

 

 

斯くして造った人間の、心が悪いから苦しい思いをするのは当然だとは、

これを如何に解しても、智恵無辺、大慈大悲の神だと言われるか。

 

 

斯くの如く経緯を経ている天理教教理を、信徒諸君は知るのであろうか。

 

また知ろうとも思わぬのであろうか。

 

知って信ずるものとせば、余は何事もこれに対して言う言葉を持たぬ。

 

 

哀れにもその人々は、

もはや天理教の外観に眩惑して、

百尺竿頭一歩を進めんとするの気宇無き人として何事も問わない。

 

が然し、知らずして信ずるとせば、

余は、その人の不熱心により如何ばかりの損失を招来しているかを憾まずにはいられないのである。

 

また、それでは天理教徒として、教それ自体に対して不熱心な信者となりはしないか。

 

自ら奉ずる教の教理を研究しないほど、これほど教祖に対しても不熱心なことはあるまいではないか。

 

 

それ等の人々よ、

諸賢は、ただ天理教教師の言に欺かれず、

虚心坦懐に静かに自分の教典を研究してみたまえ。

 

そして自分のものになったならば、それこそ最も価値あるものであるのだ。

 

請売り的のものは不純である。

 

 

余は国民の連帯責任という立場より、

またはその人個人に対する人間愛よりして、

右の言辞を提供したいのである。

 

然らざれば、諸賢は遂に天理教屋の営業政策により、

漸次搾取されて、とどのつまりは天理教教師とならせられ、

無一文となるに非ざれば、

嘘と知りつつ人を欺くの行為を敢行するに至るでありましょう。

 

その人の不幸ばかりでなく、

また社会に無生産的な遊民を一人作るという点に於て、

真に憂うべき結果を招来すると言わねばなりますまい。

 

 

この理がお解りになるならば、余は勧む。

偏えに勧む。

徹底的な研究をせられよと。

 

研究が徹すれば、自分自身が一人で悟得するものであることを付記して、研究者の為に光明を点じておこう。

 

 

 

いずれ、お話しすることではありましょうが、

天理教の神、即ち「天理王命」は実在するかしないかについて一言、

思い出したままを述べておくこととする。<<

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

【参考意見様】

 

みかぐらうた一下りの三は「さんざいごころ」(散財心)だと思いましたが、

明治33年の御神楽歌釈義を見ると確かに「さんさいこころ」(三歳心)になってますね。

それに、子供の頃には「さんさい」と歌っていたような覚えがあります。

 

ところで十全の守護の中に「金銭縁談よろづ継ぎ」なんて今でもあるのでしょうか。

 

明治33年発行 中山新治郎著  御神楽歌釈義(コマ番号13~)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816096

 

* 「散財心」です。

  でも、散財心というと上の者はお金集めが出来なくなりますので、真っ先に外してしまったのでしょう。

  おかげで、一下り目全体の意味が分かり難くなってしまいました。

 

 

 

 

【参考意見】様  2020年6月19日投稿

 

>>昭和5年発行「天理教その搾取戦術」より

 

 第一章 つづき (P51~ コマ番号34)

 

 三、肉体は神のもの、財産も神の貸物

 

 

天理教教徒は、

信仰が篤くなればなるほど、

金品を惜しげもなく、

教会へ教会へと運び込む。

 

そしてこれを為すことによって随喜の涙をこぼし、有難い有難いと言うのを常とする。

 

斯くも天理教が、天理屋として営業するに至り、

繫盛を極め、

自分の所有物(彼等は所有物に非ずとするところのもの)を教会に持ち運ばせるには、

何かを先ず吹き込んでおるべき筈だ。

 

それは何であるかとは、余の度々質問されるものであるが、

その吹き込む第一の段階は、実にこの貸物借物の理なる怪物である。

 

まず我々は主観的感情的談論を避けて、客観事実である彼の主張に聴こう。

 

 

「借物の理──この神言は悉くお道の御教理の真髄であって、千古不磨の一大経典なのであります。

而してその御教理の大綱は教祖御生前中、天啓のまにまに自らお筆を取った『御神楽歌』と『御筆先』とに示されている。

天啓の教理の示す處に従いますと、

人間は最初五分に生まれ長き年月の間に八千八度の生まれ変わりをして遂に五尺の身体にまで成人したのであります。

 

御筆先に

体内へやどし込むのも月日なり うまれ出すのも月日せわどり

といって、その御守護の程を知ることができます。

 

而して絶大の御守護により創造せられたる我々の身上は誰しも自己の物の如くに思惟しているのであります。

これが抑々大なる間違いであって、決して自分のものではありません。

もしも自分の所有であるならば肉体は我が思うままになることができる訳ですが、

如何なる場合でも我が心通りにはできないものであります。

この一事既に肉体は我が物ではないことを証拠だてているのであります。

然らば何人の所有であるかというに、

そは言うまでもなく神様の所有に属しているので、

これを我々が貸して頂いているのである。

恰も他人のものを借り受けて之を使用することを得ても自由に処分するを得ないのと同じ訳合であります。

これ『借物の理』であって、本教の教理中最も重要なるものの一つである」

(「天理教とは如何なる宗教か」15頁~18頁)

 

 

さて読者諸君、この文を読まれて、なるほどと首肯ける節に注意されることができましょう。

 

この注意を喚起することにより「なるほど、そうかなあ!」といったような考えを起すような者がありますれば、

その人は早や、天理教の営業政綱に目が眩み、

搾取されるべく運命づけられた人也と言ってもよい程度の人であります。

 

 

このことを、よく考えねばなりません。

 

この文中には、巧みに伏せて織りなせる詭弁があり、欺瞞があることを洞察せねばなりません。

 

余は、これ等を洞察する注意と努力とを用いない人の、

あまりに多きを嘆かわしく思われてならないのである。

 

普通の人ならいざ知らず、

相当教養のある者が、

かかる詭弁を伏在せしめ瞞着を隠している上述の如き文字の上だけを見て、

なるほどと感心する人々の多きは、

余をして言わせしむるならば、

その文字をそのまま端的に受け取る人の常識の罪ではなく、

その人々に宗教的知識の欠けているということに帰すべきである。

 

勿論、天理教徒となる者は、

後述するであろうように、

種々なる動機や入信の過程はあるであろうけれども、

確かに斯かる宗教的教養不足のために、

斯くの如き詭弁を含蓄する一見なるほどと思わしむる文字を、

反省なく受け入れた罪に帰せねばならぬのである。

 

故に余は、その詭弁の個所を引き出して、

読者諸君と共にその詭弁、その為にせんが為の文辞の連なりを見ていこうと思うのである。

 

 

そして彼等が何故にこれを

「この神言は悉くお道の御教理の真髄であって、千古不磨の一大経典なのであります」とか

「本教の教理中最も重要なるものの一つである」とかと言うかについても述べることとするであろう。

 

まず我々は、

「天啓のまにまに自らお筆を執られた『御筆先』『御神楽歌』とに示されている」との文より、

その御筆先または御神楽歌なるものを見る必要がある。

 

これより先に、前節に於ても述べた如く、

天啓そのものは全く個人の意識より生まれたもので、

神あり神のお告げあり、

お告げを受ける人あり、

人の言語形式を借りて神様のお告げだと人が口外に述べられたものでなく、

人あり人の口より漏れた言葉を述べた人が、

これは神の言葉であり御意志であると言うに至り、

ここに天啓という考えが起きてきたのだということを充分理解せねばならぬのである。

 

 

即ち、神あっての人間にあらずして、人間あっての神であるということを銘記せねばならぬのである。

 

だから、神あっての人間に意志を伝えたものであるということは、

全く発生的根源的に反対なのだということに、深く意を留めねばならぬのである。

 

もし、これを逆にしたならば、

神秘論者になり、

幻の世界を書き一人悦に入り、

功利主義、

独善主義に陥り、

仏教に於けるが如き天人とて独りよがりのものなるに過ぎざるに至るのであります。

 

独りよがりは結局、馬鹿であり低脳であり進歩発展の志の無いものに過ぎませんことは、

余が今ここで、こと新しく喋々を要する必要はありますまいが、

割合に多く、この独善主義者や天人が多いので、

ここに注意を必要とするに至ったのであります。

 

これでも解らない人には余は、

認識論と一般宗教学とを研究されんことを、

その人の一生の重大な事柄として、

且又その人の最も大切な処世法として、

またはその人の利益のために、切に切に希望して止まぬ次第である。

 

 

それから前節にも既に述べたところでありますが、天啓の文書は天理教の教典だけではない。

 

他にも沢山ある。

 

そしてそれが悉く異なっているのである。

 

 

こういうことを知らぬのが一般の人々でありますが、

実際は天啓の文といいまして、

旧約聖書をはじめ丸山教の教典またはマホメットの教典、

余の知れる行者(現在なお生存す)の天啓の文字など、探し出せばザラにある。

 

この異なっている天啓を、一体どう説明すればよいのか。

 

もし天理教の神様が本当にあって、

本当に教祖中山ミキが神様の言うことを間違いなしに、

これを神様の言うなりに書き写したものとして、

この出来上がった天啓の文が、

他のものと同一事項(例えば天地創造の話)の上に異なっているところがあるのを、

他の宗教ではその異なっているままを主張するであろうし、

天理教は天理教でその自分のものを主張して、

相互が反対になるものを何の不思議もなく受け入れている。

 

(現実の信者の実状では)あまりにも無自覚な、反省の無い、思慮の足らぬことではないか。

 

尤も天理教屋は、これを聴かせるに、

目つぶし鼻つぶし耳つぶしをかけているのは、

どこまでも巧妙なヤリ方ではあるが、

この目つぶしにより盲者とせられ、

鼻つぶしで嗅覚麻痺症にさせられたり、

耳つぶしで聾者にさせられているとは、

あんまり虫が良すぎはしないか。

 

あんまりお人好しではないか。

生きているのか死んでいるのか訳の分からない生活態度ではありませんか。

 

それで財産は取られ、

それでも醒めずに有難い有難いと手を合わせ、

食われないと知って唯一の食う道、

即ち教師たらんとして熱心になり、

悪いと知りつつ他の善良なる人々を、

信者に誘い入れる過程は、

一括して後述することとするが、

これ等に目覚めなかったならば、

これこそ社会という大きな事を持ち出すまでもなく、

その人の一生にとって由々しき大問題を惹起するものであると云うことを、

敢てクドいようだが注意を喚起しておくこととする。

 

 

ついでだから述べておくが、

盲者にし聾者にし嗅覚麻痺症とする恐るべき薬物(精神的の)は、

実に彼等が尊んで言うところの「御神楽歌」にある次の文句である。

 

即ち

 

「三に、さんさいこころをさだめ」(御神楽歌一下り目第三句、御神楽歌述義十九頁)

 

なるものである。

 

この意味を言うと、

一言にして述ぶれば、理性の心を無くして三歳の小児の如き心になれということに解している。

 

これだけによっても、

どんなに彼等の言うがままに、

ならなければならぬかと云うことを、

強く深く吹き込むかが分るではないか。

 

これを強く深く吹き込む底意は結局、自由にすることによって財物を巻き上げるということに存するのである。

 

実に恐るべき、また真に憂うべき手段方法ではないか。

 

 

ついでだから前管長の、これに対する解釈を述べておく。

 

* 前管長=初代真柱です。

 

「此の章の大意は信仰の心は純一無為にして神に依頼すべきことを示されたるなり。

さんさいこころをさだめとは三歳小児の心を守りて失わざるべしとの義なり。

教祖嘗つて曰く三歳小児の心にあらざれば吾が教を信ずること能わずと。

蓋し繊毫の邪念なく世の悪習に感染せられず和粹の気内に充満して父母を慕うことを知るものは小児の心なり。

然らば則ち神を信ずるものは此の心なり。

道を守りて他に移らざるものは此の心なり。

孟子曰く大人は赤子の心を失わざるものなりと蓋し其の純一にして無為なるを謂うなり。

基督曰く此の小児の如く謙遜なるものは天国に於て至大なるものなりと。

蓋し小児の疑わず傲らず貪らざるを謂うなり。

老子曰く気を専にして柔を致すこと能く嬰児の如くならんかと蓋し純一にして含和なるを謂うなり。

要するに三賢の言う所は其の旨各々異なれども道の極致唯小児の心を以て之に到達すべしと云うに至りては則ち一のみ而して今我が教祖の教え給う所もまた同じ。抑も亦妙なりと謂いつ可し」

 

 

ここにもまた我々は、

彼等が陰険なる手段、

勝手なる熱があることを見ることができる。

 

勿論、人は純一無雑、

清浄潔白であることは他の宗教ばかりでなく、

道徳倫理の等しく主唱するところであって、

けっして殊新しく、

事新だてて偉そうに述べるに当たらぬところである。

 

しかもこの解釈の言の中にも、三歳小児の心となれとある。

赤子の心を失わざれとある。

小児の如く謙遜なれと言う。

疑う勿れ、傲るべからず、貪るべからずと言う。

 

 

而して自らはどうか?

三歳心でないから理屈もコネる。

謙遜どころか傲然と構える。

貪る勿れと言っておいて、貪るに貪り、

遂に一文無しより今日の大を為したではないか。

 

貪らなかったら今でも、やはり一文無しであるはずだ。

 

今でも貪る意志が無かったならば、

それ等の財物は、いくらでも使い道はあるんだということは、

毎日報ぜられる新聞の三面記事を見ている者でさえあれば、

誰でも気の付くところではないか。

 

 

これ等については後述することとする。

 

(続く)

 

【参考意見】様  2020年6月19日投稿

 

>>昭和5年発行「天理教その搾取戦術」より

 

* 「貸しもの借りもの」の検証の前に「天啓」に付いてです。

  長いのですが、途中で切ると分かり難いのでそのまま載せます。

 

 

天啓とは何であるか?

 

余は、これについて語るであろう。

余は天理教に於ける、

所謂天理教学者若しくは天理教教師或いは信徒等が、

天理教を以て「天啓」の教え、

「天啓」による宗教と自称する。

 

しかも、それを誇りとさえ思っているものの如く思われる。

 

確か廣池博士(天理教信者)であったと思うが、

天理教は天啓の宗教なるが故に価値あるものであるとか述べられていたものを目にしたことがある。

 

それほど天啓は価値があり、絶対に信用していいものであろうかとの質問は、前述の「天啓とは何であるか?」なる問いを明らかにすることによって、自ずから明白にさるべき質問であると思う。

 

 

彼等天理教徒は言う。

 

「天理教は天啓の宗教だから大へんなものだ」と。

 

余は天啓が何故大へんだかを述べるであろう。

 

そして天啓の意味さえも知らぬ、盲目的一般大衆の蒙を啓き得れば幸甚と思うばかりでなく、

社会にとり、吾等民族にとり、

さらに不正の利を搾取せんとする徒を少しでも減少せしめ得るという意味に於いて、

又々、文化向上のために有益なることとなるであろうから、余はこれが簡明に従事するであろう。

 

 

「天啓」とは「啓示」とも言われるものであって、

その意味はと言うに、

神の性質及び聖意は特に霊感を受けた人を通じて行われ、表徴されるということである。

 

つまり「天啓」若しくは「啓示」とは、

神が人(霊感を受けた)に神の意を伝え、

または神の意志によりて人を行為せしむるとのことである。

 

 

神よりこれを見れば、人間に対して自己を啓示するといい、

人間よりこれを見れば神より天啓或いは啓示を受けたと称するのである。

 

天啓という意義は、ただこれだけの事に過ぎない。

 

 

そして天理教は天啓の宗教だということは、天理教は神の聖意または性質が、特に霊感を受けた人、即ち中山美伎を通じて表れた宗教だということである。

 

 

そこで、この天啓の語の意味する概念について注意せねばならぬことは、左の点に存する。

 

(1)神が存在していねばならぬこと。

(2)単なる人であってはならぬ。必ず霊感を受けた人でなければならぬ。

(3)従って霊感という意識状態はどうであるか。

 

 

さて(1)に於て、

 

神が存在せねばならぬことは天啓成立上、必ず必要とすべきものであることには異論はあるまい。

 

が、しかし天理教徒の誰れ一人としても、

中山美伎が天理王命を云う前までは、

神即ち天理王命があると知る者は無かったことは確かである。

 

何故知る者が無かったか。

言うまでもなく、霊感を受けた人、即ち中山美伎がいなかったからである。

 

して見れば、この事柄をこうも考えるによいであろう。

即ち、

中山美伎がいて、それが霊感を感じ、そしてそれに乗り移ったのが天理王命という神だと言うことができる。

 

して見れば中山美伎あっての天理王命であって、

いくら天理王命が存在していたにしろ、

中山美伎が生まれ出なかったら、

天理王命は今日ありっこないであろう。

 

こう言うと天理教徒はイキリ立って弁解する。

 

教祖がお生まれになったのは「しゅんこくげんの理」によるものだというのが、お定まりの文句である。

 

「旬刻限の理」というのは、神の予言した時の到来ということを意味するのである。

 

 

つまり、神が教祖を生まれ出でさせるべく、ちゃんと予言して、

その時が到来したから教祖が生まれたのだという天理教徒の言葉を、そのまま信ずる者にとりては問題は無い。

神様が言ったとおりだからと信ずる者にとっては問題は無い。

 

がしかし、

 

同じ天啓でも、教祖の中山美伎が言った天地の出来方を知らせるものと、

キリスト教または天理教の天地の出来方を比較して見るに、

その説き方、出来方が異なるのはどうしたことであろう。

 

しかも、何れも天啓という点には変わりはない。

そして、何れもの信者はそれを信じて疑わぬ。

 

何故かというに、天啓の宗教だから間違いは無い。

神様が直接言ったのだから間違いはないと言うのを通例とする。

 

極端な例ではあるが、ここに或る行者がいて、

神様の霊感を受け天地の出来る話をしたとする。

(著者の知れる行者で実際創造譚を天啓として受けたと言う者がある)

これを今の天理教徒は、すぐ信ずるによいか、余は敢て借問するのである。

 

宇宙は一つよりない。

 

その宇宙が二つも三つも、まだまだもっと多くの出来方があると言われているのは、どうして考えるによいか?

 

* 「天啓」で始まった宗教が複数存在する以上、当然、宗教間で「天啓」に矛盾が生じるわけです。

  特定の宗教を信仰している人は、自分の宗教の天啓は正しくて他の宗教の天啓は間違っている、と素直に信じている事がおかしいという訳です。

 

 

この点について卑近な例を引いて、もう少し説明を明らかにしてみよう。

 

一冊の著書が出来るには、原稿及び用紙が必要であり、活字を組むものが必要である。

さらにそれを印刷で刷り、

製本することによりて、

ここに一冊の著書が出来上がる。

 

だから(イ)なる現在ここにある本が出来るには、

必ず(イ)なる原稿、用紙、活字を組むこと、製本することを要すれども、

これは同時に(ロ)なる原稿、用紙、印刷、活字を組むこと、製本することを必要としない。

 

否、必要不必要でなく、そんなことはできない筈である。

 

即ち一冊の本を現在の本として出すまでには、

これに要する材料と、これを造り得る一定の過程とがあればよいので、

その材料や過程は決まっているものである。

 

ところが宗教に於ては、以上の例でいえば、まことに妙なことになる。

 

それはここに、ある一冊の本を作るに、

あるものは赤い紙で、あるものは青い紙で、またあるものは白い紙で印刷すると言う。

しかもその印刷の仕方は、

あるものは新式の機械を以て、あるものは旧式の機械を以て、またあるものは手刷りでするとする。

そしてまた製本屋へ廻す段になると、

あるものは甲の製本屋へ、あるものは乙の製本屋へ、またあるものは丙の製本屋へ廻すとする。

それから原稿も、

あるものは甲の寄稿家の文芸の原稿を、あるものは乙の寄稿家の哲学の原稿を、またあるものは丙の寄稿家の科学の原稿を組んで出来上がったものが、

ただ一冊の宗教の本だと言ったら、読者諸賢は、馬鹿な、そんなことがあるか。

それは甲乙丙、または白青赤、または印刷製本の巧劣が出来るはずだと難ぜられるかも知れぬ。

 

が、実際天理教に於ける教理には必然こんな奇術を行う理屈が含まれているのである。

 

そしてそれが、宇宙が三つも四つもあると云うならいざ知らず、

全体として宇宙(太陽系とか、または他の星系とかいう小さい意味での宇宙でなしに)は一つより無いはずである。

 

さらに、これは因縁の理と言って天理教がここで述べている「借物貸物の理」の次に、

天理屋として商売する時に、盛んにお客(哀れクソ真面目正直一途な信者)に振り撒くところの

「いんねんの理」のところで申し述べるだろうが、

実際こうして宇宙を作った神様が、

客観的に存在するものとせば「いんねんの理」より必然、

神様は存在せなくなるという結論に至るのであります。

 

 

そればかりではない。

 

人間及び万物を造った神様(換言すれば一つの宇宙を造った神様)が、

キリスト教のエホバであったり、

天理教の天理王命でもあるとしたら、

一体どっちが本当の神様でどっちが偽モノなのか、

それとも同一の神に名づけた異名がエホバ神、天理王命等なのか、

それとも天理王命とエホバ神と二体の神がいたのか、

明らかにせねばならぬところではないか。

 

キリスト教の教理(所謂信仰派の)よりせば、

天地創造の神はエホバ神一体より無いはずであり、

天理教より言えば、

天理王命が一体より無いとその教理に説く。

 

 

して見れば、どっちかが本物で、他が偽物なんだろう。

いや、一つより在ってはならぬものであるべき筈である。

 

然るに不思議なことには、この本物か偽物かという大事件に関して何等の不思議とも思わず、

不審も抱かざる彼等二教に於ける教師の態度は、

実に盲者唖者聾者に等しき態度ではないか。

 

さらに真実に神を求めんとするの念の薄き実に極まれりではないか。

 

しかも驚くことには、両教(実際はこれ以上だが)とも、

各自の神が厳然として存在していると号するに至っては、

全くこれ等の態度を何と評してよいか不明に陥るのである。

 

評し得なくて不明に陥るのではない。

アキレて不明に陥るのである。

 

 

しかし残念ながら、これを在りと信じ、

教師の言を直ちに受け入れ、

これに盲信するの徒の多きことは驚くべきことであり、

またそれほど口舌の詭弁、弱所、虚所をつく彼等の態度の恐るべきことを知らねばならぬのである。

 

 

 

さらに第(3)の問題であるが、

今ここに天啓を得たと天理教徒内に自称して出づる者があったら

(実際はあったのである。また而してその具体化せる者は大西愛次郎である)

天理教に於ける信徒、教師または天理教当事者は、これに対して如何なる処置をとったか。

 

 

天啓は第三者の、どうしても知り得ないものである。

 

当人と神との交通であれば、第三者の知り得ないことは当然過ぎるほど当然である。

 

 

然るに天理教内に、この種の者出づるに及んだ時、天理教当局者は邪説曲説を唱える者として、これを排斥したではないか。

 

* 教団内でも「天啓者」は教祖と本席の二人だけしか存在しない事になっています。

  ナライトさんが最終的にどのような扱いを受けたかご存知の方も多いでしょう。

 

これ何によりて排斥の理由としたか。

 

言うまでもなく、常識の尺度を標準としたに外ならぬではなかったか。

 

されば余等が、これに対して宗教学的心理学的の考察をすることを以て、

天啓の宗教は人間の理屈を超越したところにあり等と称して、

盲目的信者の理性が目覚めることを恐れて、

目隠し耳隠しをすることを以て、

これ事とするは如何にも封建的旧習の「由らしむべし知らしむべからず」式の醜手段を弄するものと言わねばならぬではないか。

 

実に慨かわしきことは、

これ等の見易き道理を弁ぜずして、

いたずらに信者の多きを以て、

天理教の膨大なるを以て、

所謂知識的識者(その実は宗教的常識に於ては三歳の童子よりも無学なる徒)が、

その教えに加入する故を以て、

換言すれば、皆行くから行く、皆が悪いと言うから悪い、皆が良いと言うから良いと言う

(但し病気が癒ったから信ずると言うことは、詳細を後述に譲る)ような、

何故に悪いと皆が言うのか、

何故に良いと皆が言うのかと考えることなく、

人の言うがままに信ずるのは如何にも軽薄な、

軽っ調子な盲動と言わねばならない。

 

こう言うと、

 

すぐ御教祖が「三歳心となってこい」と言っているから、

三歳心になっていくと言うだろうが、

それは教祖の意に反すること甚大である。

 

余が、教祖をしてキリスト的または古来よりの大聖人と称せられているものの列に入れて、

教祖の三歳心を解するならば、

教祖の三歳心とは決して謂れなき盲信でもなければ、

軽動でも、すぐ信ぜよと言うのでもない。

 

* みかぐらうたでは「三歳心」ではなく「散財心」なのですが、仮に「三歳心」としてもこれだけ批判されている事に反論は難しそうですね。

 

一口で言えば、執着を離れて物事を見よということである。

 

天理教に執することは、

既に我意を入れていることであって、

決して三歳心とは言われぬのである。

 

もし然らずして三歳心を、何でも彼でも言いなりになれと言うにあるならば、

それは人間をして、より良く生かすことでなく、

動かせば動き転ばせば転ぶ、物体と化せしむる以外の何事でもないのである。

 

人間にして、真に価値ある生産に真に全力を注ぎ、

人類の文化向上に資せしめる為に、

人間に力を与えるのが真に価値ある宗教と言うことができるにせよ、

ウンウンと何でも彼でも、

神様の天啓だから、

教祖のお諭しお指図だからといって、

それに盲従するが如き態度は、

活力を得るどころか、

それはそれこそ「生ける骸」である以外の何物でもないのである。

 

 

さて、霊感という意識状態を明かにする段取りとなったが、

これは宗教心理学と変態心理学とに亘るのであるから、詳しくは後述に譲ることとする。

 

 

 

さて、この頁を終わるに際して「天啓」について天理教は如何に見ているか、

その「天啓」なるものにどんなに勝手な理屈をコネているかを明瞭にするために、

三、四文引用してこれに批評を加え、読者諸賢の厳正な批判に資せんと思うのである。

 

 

所謂、教祖直伝と云っている御神楽なるものより始める。

 

これは言うまでも無く「屋敷を拂うて田売りたまえ」と言われる歌の同類であって、天啓による歌であるとする。

 

 

それは次の様なものである。

 

「よろづよのせかい いちれつみはらせど むねのわかりたものはない」

 

これに対して、前管長中山新治郎氏は次の様に解釈を加えている。

 

「この章の大意は未だ天啓の教えを聴かざる世界人類が闇黒界裏に彷徨する状を示されたるなり。よろづよのせかいいちれつは全世界の人類一同の意なり。みはらせどは神の遍く人類一同を看給うを言う。むねのわかりたものはないとは未だ天啓の教えを聴かざる者は罪悪および禍害を擺脱する道と無上目的に向いて進行する道とを知らずとの義なり。

熟々世界の現状を察するに罪悪及び禍害充満して光明なるべき霊性は光明ならず健全なるべき身体は健全ならず平和なるべき世界は平和ならず我等人間の生存及び発達殆ど将に危機に迫らんとす是に於て救済の要求大に全世界人類の心に起れり而して此の救済の要求に応ずる天啓の光未だ斯の世を照さざれば全世界人類は方に疑雲迷霧中に彷徨しつつあるを免れず是慈悲無限の救済者天啓の教えを垂れ給える所行なり」(御神楽歌述義、中山新治郎著)

 

 

所謂、天啓の教えを説く御神楽歌に為すべき解釈として、

如何に加言、付会の多きかは一言して明瞭であろう。

 

この歌をズゥと読んでいけば、大概は解るが「むねのわかりたもの」というのは一体何を指すのであるか。

この「むねのわかりたもの」に於て、この一つの命題はこうなる。

 

 

即ち誰の「むね」を、誰が解るのかという点に帰する。

 

さて「むね」を痛めるのが神であるならば、天啓の文としてふさわしい。

 

が、教祖の「むね」であれば、教祖は偏執病の具体的表徴を表したものとしか見ることはできない。

 

何故ならば、教祖は世界を(世界中の人類の心もちを)見透し尽くしたと豪語することになるから。

 

 

この「むね」を神の胸とすれば、何とまあ勝手気儘な神様ではないか。

 

後述するであろうように、

因縁の行末を知っているべき筈の神様が、

御苦労にも人間を作って、

罪悪禍害の充満したと嘆ずべきは、

とっくに知っていねばならぬのではないか。

 

神はすべからく自分の「いんねん」の表れとして人間界を救済すべきである。

 

神に何にも悪因縁が無かったならば、

何で子供たる人間に悪因縁の行為をさせるのであるか。

 

こんな未来の事も見透しできぬ神。

 

所謂、天理管長が言う、

罪悪及び禍害充満して光明なるべき霊性は光明ならず

健全なるべき身体は健全ならず

平和なるべき世界は平和ならず

我等人間の生存及び発達殆ど将に危機に迫らんとする、

極めて危険な現状を未然に防止得ざる、

力弱き、力無き神が何で「慈悲無限の救済者」となり得るか!?

 

これこそ、お臍がお茶を沸かす的な噴飯事でなくて何であるか。

 

 

我等は、管長のこの解釈を見ることによって、どれほどの美辞佳句麗文を見るも、それに眼を眩ませてはならぬ。

 

彼等が人の目を眩惑せしめ、

人の心を暗くせしめるものは、

常に斯の如き筆法に於ける、

内容空虚なるものを、形式、外容を以て脅しつけることである。

 

吾人は、くれぐれも形式、外容、見かけによって、その物や質や内実を決めてはならぬ。

 

現代は殊に、美服を纏い美辞を連ねた言葉を弄し、

会話に外国語等を矢鱈に入れ、

または漢語等を無暗に混ぜる人間には油断してはならぬ。

 

 

正に、中山新治郎氏の解釈は、斯く如き詭弁曲論である。

 

不明のものを、明瞭なものとする。

 

これほど独断、独り善がりがあろうか。

 

また世を毒するの最も甚だしいものであると言わねばならぬ。

 

 

御神楽歌は、この他に天啓に関するものとして、次のようなものがある。

が、それほどのものでないから、解釈は付けぬ。

 

「そのはずや といてきかしたことはない しらぬがむりでは ないわいな」

「このたびは かみがおもてへ あらわれて なにかいさいをとききかす」

 

何とまあ、勝手な神ではないか。

人間(神から見れば可愛い子供)に説いて聞かせもせずに、

どれほど「いんねん」だと言って、

病気にもすれば早世もさせたか。

 

神が作ったものであるならば、

しかも大慈悲無限な神であるならば、

こうすればいけないぞ、ああすればいけないぞと説き聞かすのが本当である。

 

それを知らせもせず説きもせずして、

人間の行為をずっと見るだけで、

中山新治郎氏の所謂この世に罪悪禍害が充満しなければ、

説いて聞かせに来ぬような神は、

何とまあ教育に不熱心な神ではないか。

 

また子に対して無関渉な、親としての資格なき神ではないか。

 

かかる点に於て、吾人は神様「天理王命」なんぞは、むしろ有難くもなんでもないと言わねばなるまい。

 

 

なお一例、上掲の歌に対しての解釈したものを、お目にかける。

 

これによっても、どんなに解釈が勝手気儘なものであるかを諒解することができる。

 

 

「天啓の教えは、理性に超越するものであっても、理性に反対するものではない。

理性に反対するものなれば、

如何に天啓であっても、理性を有する人間としては、これを信ずることはできない。

ただ、理性のみで知ることのできない真理や事実を、

神の全智によって人間に知らせ給うのが天啓である。

この意味に於て天啓の教えは人間の理性に超越するというのである」

(中西牛郎氏著「神の実現としての天理教」頁153)

 

 

中西氏の論断は、まことに不可思議、奇妙奇天烈の頂上である。

 

氏は相当の教養ありと聞く。

 

しかし、氏には失礼ながら、哲学宗教に関する教養あるやを疑わざるを得ないのである。

まことらしく、天啓は理性に反対するものでなく、超越するものであると言う。

 

ところで反対と超越とは、どんな風に異なるかを、氏は知っているのであろうかを疑われる。

 

勿論、余と雖も、二つの概念が同じだとは言わないが、

氏の述べているが如く全然別個のものではない。

 

もともと天啓は感情に関したものであることは、

今日多少心理学を学んだ者にとりては異存の無いところである。

 

然して天啓を感情に関するもの(天啓を受ける人の)とせば、氏の説論中に大なる誤謬がある。

 

そればかりか彼等(天理教学者)が如何ばかり、

中山ミキの夢中で口走ったことに対して、

これをよく価値づけようとして焦っているかも知ることができるのである。

 

 

即ち、天啓は神の御言葉である以上、真理ならずと言うことはあるまい。

 

(信仰篤き者にとりては)然るに、

氏は何故に

「理性に反対するものなれば、如何に天啓であっても、理性を有する人間としては、これを信ずることはできまい」

と言っているのか。

これ実に、

氏が超越と反対との概念が異なるということを説かんとして、引き出したものであろうけれども、

不幸にして氏の目的は達せられないのである。

 

それは前述したとおり、

天啓なるものは、

理性を以て正とも非とも判断し得ざるものである。

 

 

即ち、天啓で述べられたるものが、理性では真理だとは言われないのである。

 

ところがこれを真理だと言うのは、一体どうしたことであろうか。

これ明らかに、

理性に反対していることを認めるという点に於て、

理性に反対しているものであると言わねばなるまいではないか。

 

 

斯くの如く、詭弁は至る所に伏在しているのである。

 

読者は注意を重ねて、天理教の書物なり、教師の説教なりを聴かねばならぬ。

 

 

くれぐれも言う。

 

天啓の言は、必ずしも真理ではない。

 

それが理性に叶うもののみ真理であると。

 

また、理性を以て決し得ないものは、これを真理と決するのは大なる誤りであるということを。

 

 

また曰く、

 

「天啓と申しますは神が直接に人を介して我等人類に神意を述べられたのであって、智識や苦行や思索によりて発明せられたり考えられたりした教えとは大に異なるのであります。而して、宇宙根本の神様が吾が天理教祖を通じて、天啓を垂れられた所行のものは人類を闇黒の世界より光明の世界に導き、一切のあしき埃を拂うて此の世ながらの安楽世界、極楽世界となし地上に甘露台を築き上げんとの切なる神の思召によるのである」

(地場思潮社発行「天理教とは如何なる宗教か」頁3)

 

 

右の文にも見る如く、天啓は、智識や苦行や思索とは相容れぬものである。

 

だから個人の思いつきや、独りよがりや、勝手な事柄が多いのである。

 

それを天啓と信じない人には三文の価値も無いのである。

 

前述したとおりであるが、

ここに天啓だと言って、神の告を口走る者があるとしたら(実際あったものだが)

天理教徒は直ちにこれに信用を置くかというに、そうではあるまい。

 

誰かが、天啓だから俺の言いなりになれと言ったところで、よも言うとおりにはなるまい。

 

なるほどのものでなくては、

どうして天啓だから価値があり、

理性より超越したものであるなどと、よく言えるか。

 

実に無自覚な、

無学で薄っぺらな無知さに、

驚くというより呆れざるを得ないではないか。

 

 

天理教が「天理屋」を開業しているうちは、

これに迷い込むお客の来るうちは、

どうでもよい天啓を後生大事と崇め奉っておくんだが、

こんなものは何にもならぬのだと言うのが、

天理屋の物のわかった人間の腹の中だろう。

 

 

それにしても、あまりにやり方が残酷ではないか。

 

何故ならば、巻き上げる第一歩としての天啓だから。

 

 

さて天啓のことは以上で終わることとして、

この天啓が述べていることであるところの貸物借物の理なるものを説明する。

この貸物借物の理を信者に呑み込ませれば、

もう取るも剥ぐも自由自在だと、

ある教師が著者に語ったことがあるが、

実にこの貸物借物の理こそは、

見方によりて人生に活気を与えるものであり、

取りようによっては、身を滅ぼし、家を倒し、一家離散の憂き目にあわねばならぬ第一段階であるのである。

 

* 天理教側の矛盾と欺瞞に満ちた言い訳や勝手解釈が次々と論破・非難されています。

  読んでいて清々しい限りではありますが、ちょっと長いのと散文的文章が疲れますね。

  要点を押さえてお読みください。

 

抑々この「貸物借物の理」なる思想は、どこから来たか。

 

余はこれについて、お話するであろう。<<

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

【参考意見様】

 

教祖の登場が予定されたものならば、

そのことを過去に予言された天啓の記録などが残っていなければならないのでは?

登場した本人が、

自分で予定されていたと言っても、

それはジャンケンの後出しみたいなもののような気がします。

 

しかし「貸物借物の理を信者に呑み込ませれば、もう取るも剥ぐも自由自在」とは、怖いですねー!!

 

 

【参考意見】様  2020年6月17日投稿

 

 

>>昭和5年発行「天理教その搾取戦術」より

 

 第一章 つづき (P28~ コマ番号23)

 

 二、体や財産は天理王命の貸したものだから返すのが当然だ(借物貸物の理)

 

 

天理教が、六百万と号する信徒より物品を蒐集するのでなかったならば、

言うまでもなく、短年限に於て驚くべき発展はしなかったであろうことは容易に予想され得る。

 

少なくとも、

教祖中山美伎女が、

一文無しのスッカラカンになったとの歴史事実を知る者にとっては、

如何にして天理教が今日の大を為し、

今日の経済的威容を整えたかという点に対して、

徹底せる研究検討はさておき、

これに対しての好奇の眼を見張らぬ者はあるまい。

 

* 中山家が一文無しのスッカラカンになったという事実はありません。

  秀司が相場に手を出して失敗して没落した、という出来事はあります。

  一文無しのスッカラカンなら、不動産も全部処分し、家族皆が乞食生活をするところです。

  母屋を売り払い、田畑を年切質にだしてはいますが、全てを失った貧乏ではありません。

  また、教祖が嫁入りの際に持ってきた「布団」をおはるの嫁入りの際に持って行ったという事が確認されていますので、稿本教祖伝の「嫁入り道具から全てを施してしまった」というような記述は嘘だと分かります。

 

経済的には殆ど無に等しい状態より、

膨大なる財力団となれる天理教の今日に対して、

言うまでもなく天理教信徒は、

その教えの有り難きこと、

他宗教に見られざる力の故を以て寄進した。

 

最大原因によるであろうことは、あまりにも明瞭なる事柄に属する。

 

かくては吾人は、その財力をして提供せしむるに至る力に対しての考察を進めていくのは、これまた当然の事柄でなければならぬ。

 

ならまた、

 

力あるとして、その力の一般民衆に対しての働き方(所謂マルクスが「ヘーゲル法律哲学批判」に於て述べた如き「宗教は民衆に対する阿片である」との命題の阿片的宗教)は如何なるものであるかを明らかにせねばならぬのである。

 

さて、以上の観点より余は、

搾取的天理教師が、搾取=彼等天理教教師及び信徒は取る、若しくは取られるとは思っていないで

「あげさせる」または「返させる」とか「あげる」とか「お返しする」とかいう言葉で、

換言すれば財物の収納、貢納は神聖なる神の御名によりて行われているのである。

 

が、詐術を如何にするか、また一般民衆は搾取を如何にされるかを述べることによりて、

上述の問題を明かにすることができると思うのである。

 

 

だから、その方法=搾取する=及態度=搾取される=の初段階から順次に述べていくこととする。

 

 

まず方法の前提として、貸物借物の理と称する教理を、徹底的に論ずる。

 

そして教える(勿論それは、宗教に対して無知なる民衆に対して詭弁的論理を以てするものではあるけれども教理として教える)点に最も力を注ぐのは、これが聞き手に納得のいくような思想的状態を不幸にも聞き手が取るに至るならば、その聞き手はもはや随喜の涙を注いで、教師が出せと言われるままに財物を取られるという危険を含むものである。

 

そして、

 

聞き手=信者たらんとする者にあっては、いみじき不幸であるが、

聴かす手=天理教教師にとっては極めて大切な営業信条である。

 

だから教師は、

営業の結果としての収益を多く収めようとすればするほど、

ますます熱烈に神秘的口調で、

回らぬ舌に唾液を潤ませ、

ともすれば嗄れがちな発声器を努しつつ、

夢中に貸物借物の理を説き聞かせるにかかるものである。

 

この教師の態度は、

恰も実業家が一銭でも多くの収益を収めるために東奔西走する態度や、

小商人が腕をまくり手を振って店の前を通る通行人に呼びかけて、

店頭の品物を売りつけにかかる、

あの一見奇抜な風貌に類している。

 

 

さらに人に好感情を与える口舌を以て業とする所謂種々な芸人や、下劣なる教師、

かつてソクラテス時代に於てアテネの地に、当時の市民を詭弁を以て惑わし、

これ等善良なる市民より財物を巻きあげた、ソフィスト等に最も似ていると見てもよいであろう。

 

 

而して実業家の奔走や、小商人の態度や、教師、芸人の仕事に対して、

吾人はその正当を認め得るであろうけれども、

正ならざるを正とし、

不正を不正とせず、

真理を非真理に、

非真理を真理に、

不明を明らかとし、

明らかなるものを不明とする。

 

 

所謂「弱き論を変じて強き論とする」が如きソフィスト的態度に今日の我々が組みし得るであろうかどうか?

 

余は断じて組みし得ずと断ずるものである。

 

 

然らば「貸物借物の理」なるものが、

正しきものであり、真理であり、明らかな一貫せる理路を辿るものであり、強き論であるかを吟味せねばならぬ。

 

だから余は、これに対しての天理教的解釈を訊くであろう。

 

そしてまた、これに対する批判をせねばならぬのである。

 

 

彼等、天理教徒は次の如く言う。

 

「この神言は悉くお道の御教理の真髄であって千古不磨の一大経典なのであります。

而してその御教理の大綱は教祖が生前中天啓のまにまに

自らお筆を執られた『御神楽歌』と『御筆先』とに示され(中略)天啓の教理の示すところに従いますと、

人間は最初五分に生まれ長き年月の間に八千八度の生れ変りをして遂に五尺の身体にまで、

成人したのであります。

 

御筆先に

体内へ宿仕し込むのも月日なり 生れ出すのも月日世話どり

といって、その御守護の程を知ることができます。

 

而して絶大の御守護により創造せられたる我々の身上は、

誰しも自己のものの如くに思惟しているのであります。

 

これが抑々の大なる間違いであって、決して自分のものではありません。

 

もしも自分の所有であるならば、肉体は我が思うままになることができる訳ですが、

如何なる場合でも我が心通りにはできないものであります。

 

この一事既に肉体が我が物でないことをを証拠だてているのであります。

 

然らば何人の所有であるかというに、

そは言うまでもなく神様の所有に属しているので、

これを我々は貸して頂いているのである。

 

恰も他人のものを借り受けて、

これを使用することを得ても自由に処分するを得ないのと同じ訳合であります。

 

これ『借物の理』であって本教の教理中最も重要なるその一つである」

 

(地場思潮社発行「天理教とは如何なる宗教か」頁15~18)

 

 

以上で、天理教の所謂「借物の理」「貸物の理」という意味が漠然ながらも知られたことと思う。


 

心と肉体との関係は後述することとして、

ここでは我という考えの主体に、

この肉体=身体を神様が、

所謂「天理王命」が貸し与えたものだとするの考えである。

 

だから我は我の身体を神様から借りたということになるのである。

 

前者を天理教的に言えば「貸物の理」といい、後者をそれ的に言って「借物の理」と称しているのである。

 

* もう何百回も聞いたと思いますが

  「人の身体は神が所有し人間に貸していて、人間は借りているだけなのだから、人間の思う通りにはならない」

  というお話しです。

  これは、生き物の脳の発達の過程を見れば簡単に納得できるお話しです。

  (納得できない、理解できないという方はメールください。)

  とはいえ、脳の研究や進化の歴史など知られていない段階で、その内容や要点を「貸しもの借り物」という一言で表現した教祖の慧眼には驚くばかりです。

 

  天理教教団の問題は、この「貸しもの借り物」の教理を、「神から借りているのだから御礼をしろ、お供えをしろ」という金銭的な搾取に結び付けてしまった事です。最近では「お供えはレンタル料のようなものだ」等という天理屋までいるとか。呆れてものも言えません。

 

 

 

さて、上掲の文を見て誰でも感ずることは、驚くべき詭弁と、怪しきほどの独断が含まれているということにある。

 

必ずしも論理を以て物を考える理知的な人でなくとも、

少し注意深く物を考える人にとりては、おかしく思われる。

 

斯くの如き詭弁や独断は、彼等一流の逃れ場所たる「天啓」に隠れている。

 

「天啓」と大きく喚く声で嚇して、聴き手をドギマギさせて、

その暇に目つぶしをかける仕掛けがしてあるのである。

 

だから「天啓」は詭弁や独断の隠し場所であり、

見手に対しては目隠しであり、聴き手にとりては耳を掩うものであると言ってもよろしいだろう。

 

だから我々は「天啓」って一体なんだとの問題を提出して来なければなるまい。

余はごく大まかに、これについて述べることとする。

然る後、隠れ場所より白日の下に捉え来り、

視神経を鈍くするものを取り除き、

聴神経を麻痺させるものを剔抉して、

明らかなる視覚を以て、

確かなる聴覚を以て、

蔽い幕に隠れたる「貸物借物の理」なるものの正体を見究める必要がある。

 

何故ならば、これが知らず知らずに吾人を迷路に導く、第一の正門であるから。

 

(続く)

 

「天理教その搾取戦術」 その3

 

(続き)

 

* 「其二、貴様のような者に天理教が解かるかという心持より、相手にしないように信徒等に申し渡すか。」

  という態度に対する解説です。

  つまり「批判は常に無視する」という態度です。

  今も昔も、これが一番多いですね・・・。

 

次に述ぶるは、其二の問いに対する予想的回答である。

 

この第二の態度は、常に天理教教師並びに教徒の頑迷に固守する態度であって、

これを吹き込む者も、これを吹き込まれた者も、

共に「これ」を固守することをもって、

神の奉公これに過ぎたるもの他に無しとさえ考えているものであるかに思われるほど、

所謂「お道一筋」を高調もすれば実践もする。

 

そして斯くの如き態度に出づることを誇りとさえ思っている者が、実に枚挙に遑なきに驚かされるのである。

 

 

「世間並みの者に、お道のことが解るものか」

 

こうした考えは、消極的、固定的、頑迷的態度を招来することは、誰れ人も肯定できるであろう。

 

これ等の態度が、知識の権威と合理性の否定に結果することもまた当然であると言わねばなるまい。

 

* 批判を無視する態度は、知識と合理性を持たない人達の頑固な態度だ、と言われています。

 

ここに遺憾も無く「よらしむべし、知らしむべからず」との封建的専制的圧迫が加えられていることも看過してはならぬのである。

 

* しかも、信者に対して緘口令をしき、封建的専制的圧迫や圧力を掛けて従わせている、だそうです。

 

余は今ここに宗教家の責務を是非せぬ。

 

だが、今までの宗教家に於て、

真の宗教家と目されている者であったならば、

結果は神に移して、自分は黙々として他者の回心を礼心をもって待つものである。

 

現在の天理教教理はまた、これを教えるのである。

 

 

「たんのう」「たんのう」(忍耐、堪忍という意味である)と、口に筆にこれを大聲し疾呼する。

 

だから天理教に於ける教師も信徒も皆「たんのう」に宗教的色彩を加えた理念を実践躬行しているはずである。

 

否、真に宗教的信念に自覚した者は起座進退少しの忽せも無く、

この宗教的加色彩的「たんのう」を実践具現すべきはずの者である。

 

そして教内に於いて上位にある者にありて、最も著しくこの具現を為すべきはずである。

 

「上の行うところ、下これを倣う」という命題は他に於けると同じように、

やはり天理教内に於いても行われなければならぬ。

 

それが当然であり、道理に計った考えでなければならぬ。

 

* 下の者に「たんのう」と教えているのなら、上の者が率先して「たんのう」を実践するのが宗教家だろう、と言われています。

  当然のことですね。

 

だが次のような一小話がある。

 

「大和毎日対天理教名誉毀損事件というのがあった。

その原告は松村吉太郎であり、被告は田中豊州、西村嘉三郎である」

 

余は、この二行にも満たぬ小話というのもおかしなほど、暗示的な言辞を掲げることで足る。

 

事件の起こりが、いつ起きたものであるかも我々にとっては問題であるまい。

 

事実が無根のものであるか、有根のものであるかを疑う者は奈良地方裁判所で問い合わせればよい。

 

余がここに贅言するまでもなく、詳細はその人の眼前に展開されることであろう。

 

我々はこの事実と、天理教教理に於て、

ある人が言う天理教に於ける四道徳の消極的道徳の一つとさえ数え上げている、

この「たんのう」という教義とが、如何に関係するかを考えれば足るのである。

 

 

被告等が如何に為にせんが為に行われた、中傷讒誣をしたものであっても、

天理教に於ける大御所とも見做し得る松村が、

何故に宗教的加色彩的「たんのう」の態度を保ち得ることができなかったか。

 

まことに真理を把持する者であったならば、

それ等の中傷讒誣は些々たる茶事にあらざるか。

 

宗教家ならずと雖も、度量の濶大な者は、

以上の攻撃に対して平然たる態度を取り得る者は多いのである。

 

然るに、自己に属する教師、信徒には「たんのう」せねばならぬ。

 

* こんな裁判の事は知りませんでしたが、天理教の重鎮が「自分たちが教えている『たんのう』が出来ていない」と責められることになっています。

 

 

即ち、如何なる無理なことでも、横車を押すようなことでも、

天理教の教徒たる者は、神のお知らせとして、そこに不足なき心持をもっていかねばならぬと教えながら、

教える自分は、この重大なる教理たる「たんのう」の理を足蹴にして不足心を起すのは、

天理教で言う「不足は不足する理、不足は切る理」を弁ぜぬ仕草である。

 

彼松村が、この天啓たる「不足は不足する理、不足は切る理」を明確に認識していたならば、

原告として法廷に立つ必要があったであろうか。

 

 

余は断じて無かったものであると明言するのである。

 

そればかりか彼松村に、

形式的天理教の発展を念願するの心の切なるもの頻りにありということを論断するの一根源を暴露したもの

であるとさえ思われるのである。

 

* 「たんのう」だけでなく「不足は切る理」も実践できていない、との批判です。

 

何故にと言えば、

それは天理教の術語とも思われる、天啓と称する上掲の語を説明することによりて明らかになることと思われる。

 

 

「不足は不足する理」とは何であるかと言うに、不足は不足する因縁があって不足になるのである。

 

だから、それに甘んじて従う。

即ち、どんな攻撃も、それに甘んじて行う。

それに甘んじているということである。

 

 

「不足は切る理」とは不足を齎す原因に対して「はらだち」「いかり」の念を出すことなく、

これを過去の性格の所産であると見て、

人を怨まず人を咎めずとのことである。

 

これ等を怨み咎めることは、何等かの因縁をもって教えと結び付かんとすることを切断することだと言うにある。

 

* おふでさきのホコリは、「おしい、ほしい、かわいい、よく、こうまん」の5つです。

  教団教理で付け加えた「はらだち」を使って批判されてしまいました。

  

 

これによって、これを見るに、

松村の行為は教祖の天啓に反し、

宗教家的態度に反するばかりでなく、

普通人(即ち彼等お道の人という誇りを持つ天理教徒より見て世間並みの人々)の度量のある者よりも劣ると言わねばならぬのである。

 

* 松村吉太郎

  高安大教会初代会長  小東サク(まつゑの実姉)を母に持ち、初代真柱中山真之亮の従兄弟にあたる。

  教祖亡き後の教団運営に力を持ち、兄弟、子弟なども大教会会長になったり縁戚が多い。

  おさしず「表大工で裏鍛冶屋」の場面で登場している歴史書も多い。         

 

 

さすれば、

 

吾人は天理教教理を看板として、

搾取的営業に汲々たる彼等天理教屋の、

如実の姿を彷彿することができるような気がするではないか。

 

余は斯かる点より、彼等の教理を眺めていくであろう。

 

 

 

次に其三の態度に対しては、余の刮目して、この態度に出でられんことを望むものである。

 

* 其三、または雄々しく筆陣を張って、拙著に対論するか。

  批判に対して、堂々と反論なり議論に応じる態度、です。

  現実には、ほぼ無いでしょう。上記のように「裁判」なら多数あるのでしょうが。

 

彼等が真に教理の真理を認識しているならば、

攻撃ならざる天理教の所謂「おさとし」的の態度を持して、

余の批判に答うべき必然性をもつものと思う。

 

余はただ彼等が真向の武器とする教理なるものに、

如何程の真理性があるか、

これをして真理とする彼等の態度、

彼等の説明講釈こそ見ものであろうと思うのである。

 

 

 

次に天理教屋の営業政策とも言うべき教理について述べていくこととする。

 

読者はこれによりて余の前言せる事が、一見奇矯の観あれども、

正鵠を失わざるの論難たることを諒解されることと思う。

 

なおまた、これ等教理の順序、構成の階段を知ることによって、

如何に天理教がその阿片性を隠蔽して巧みに装い「霞の衣」的機構を有するものであるかも知る事ができるであろう。

 

 

而して最後に、

斯くの迷信は、社会の正義的立脚地よりして、

断々乎として排斥撲滅せねばならぬとの衝動に駆られざる者は、

ただの一人もあるまいと思われるのである。

 

かくて真実の社会、合法的社会機構を整正していかねばならぬとの念願は、

社会人として等しく脳中に存するものであることは、

いささかもの疑うべからざるものであると断ずるの僭越を敢てするものである。<<

 

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※柳谷素霊(1906年11月6日 - 1959年2月20日)日本の鍼灸師、医学博士

 

天理教その搾取戦術

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175975

 

 

【参考意見様】

 

一冊まるごと、天理教の「搾取」に焦点を当てたもので、

著者が医者ということもあってか、信者の心理、独特の選民意識などにも触れていて、興味深く思いました。

 

370頁もありますが、気長にやっていくつもりです。

 

 

* 一投稿分を3回に分けて掲載させて頂いたので、参考意見様のコメントは前2回にはございません。