「天理教その搾取戦術」 その5 | 1/17000の闘争と逃走

1/17000の闘争と逃走

日本全国に根を張る巨大組織。
その中のたった一つの小さな存在が反乱を起こし、闘争と逃走を開始した。
その記録と手法を簡明な文章でお届けする。

 

【参考意見】様  2020年6月19日投稿

 

>>昭和5年発行「天理教その搾取戦術」より

 

* 「貸しもの借りもの」の検証の前に「天啓」に付いてです。

  長いのですが、途中で切ると分かり難いのでそのまま載せます。

 

 

天啓とは何であるか?

 

余は、これについて語るであろう。

余は天理教に於ける、

所謂天理教学者若しくは天理教教師或いは信徒等が、

天理教を以て「天啓」の教え、

「天啓」による宗教と自称する。

 

しかも、それを誇りとさえ思っているものの如く思われる。

 

確か廣池博士(天理教信者)であったと思うが、

天理教は天啓の宗教なるが故に価値あるものであるとか述べられていたものを目にしたことがある。

 

それほど天啓は価値があり、絶対に信用していいものであろうかとの質問は、前述の「天啓とは何であるか?」なる問いを明らかにすることによって、自ずから明白にさるべき質問であると思う。

 

 

彼等天理教徒は言う。

 

「天理教は天啓の宗教だから大へんなものだ」と。

 

余は天啓が何故大へんだかを述べるであろう。

 

そして天啓の意味さえも知らぬ、盲目的一般大衆の蒙を啓き得れば幸甚と思うばかりでなく、

社会にとり、吾等民族にとり、

さらに不正の利を搾取せんとする徒を少しでも減少せしめ得るという意味に於いて、

又々、文化向上のために有益なることとなるであろうから、余はこれが簡明に従事するであろう。

 

 

「天啓」とは「啓示」とも言われるものであって、

その意味はと言うに、

神の性質及び聖意は特に霊感を受けた人を通じて行われ、表徴されるということである。

 

つまり「天啓」若しくは「啓示」とは、

神が人(霊感を受けた)に神の意を伝え、

または神の意志によりて人を行為せしむるとのことである。

 

 

神よりこれを見れば、人間に対して自己を啓示するといい、

人間よりこれを見れば神より天啓或いは啓示を受けたと称するのである。

 

天啓という意義は、ただこれだけの事に過ぎない。

 

 

そして天理教は天啓の宗教だということは、天理教は神の聖意または性質が、特に霊感を受けた人、即ち中山美伎を通じて表れた宗教だということである。

 

 

そこで、この天啓の語の意味する概念について注意せねばならぬことは、左の点に存する。

 

(1)神が存在していねばならぬこと。

(2)単なる人であってはならぬ。必ず霊感を受けた人でなければならぬ。

(3)従って霊感という意識状態はどうであるか。

 

 

さて(1)に於て、

 

神が存在せねばならぬことは天啓成立上、必ず必要とすべきものであることには異論はあるまい。

 

が、しかし天理教徒の誰れ一人としても、

中山美伎が天理王命を云う前までは、

神即ち天理王命があると知る者は無かったことは確かである。

 

何故知る者が無かったか。

言うまでもなく、霊感を受けた人、即ち中山美伎がいなかったからである。

 

して見れば、この事柄をこうも考えるによいであろう。

即ち、

中山美伎がいて、それが霊感を感じ、そしてそれに乗り移ったのが天理王命という神だと言うことができる。

 

して見れば中山美伎あっての天理王命であって、

いくら天理王命が存在していたにしろ、

中山美伎が生まれ出なかったら、

天理王命は今日ありっこないであろう。

 

こう言うと天理教徒はイキリ立って弁解する。

 

教祖がお生まれになったのは「しゅんこくげんの理」によるものだというのが、お定まりの文句である。

 

「旬刻限の理」というのは、神の予言した時の到来ということを意味するのである。

 

 

つまり、神が教祖を生まれ出でさせるべく、ちゃんと予言して、

その時が到来したから教祖が生まれたのだという天理教徒の言葉を、そのまま信ずる者にとりては問題は無い。

神様が言ったとおりだからと信ずる者にとっては問題は無い。

 

がしかし、

 

同じ天啓でも、教祖の中山美伎が言った天地の出来方を知らせるものと、

キリスト教または天理教の天地の出来方を比較して見るに、

その説き方、出来方が異なるのはどうしたことであろう。

 

しかも、何れも天啓という点には変わりはない。

そして、何れもの信者はそれを信じて疑わぬ。

 

何故かというに、天啓の宗教だから間違いは無い。

神様が直接言ったのだから間違いはないと言うのを通例とする。

 

極端な例ではあるが、ここに或る行者がいて、

神様の霊感を受け天地の出来る話をしたとする。

(著者の知れる行者で実際創造譚を天啓として受けたと言う者がある)

これを今の天理教徒は、すぐ信ずるによいか、余は敢て借問するのである。

 

宇宙は一つよりない。

 

その宇宙が二つも三つも、まだまだもっと多くの出来方があると言われているのは、どうして考えるによいか?

 

* 「天啓」で始まった宗教が複数存在する以上、当然、宗教間で「天啓」に矛盾が生じるわけです。

  特定の宗教を信仰している人は、自分の宗教の天啓は正しくて他の宗教の天啓は間違っている、と素直に信じている事がおかしいという訳です。

 

 

この点について卑近な例を引いて、もう少し説明を明らかにしてみよう。

 

一冊の著書が出来るには、原稿及び用紙が必要であり、活字を組むものが必要である。

さらにそれを印刷で刷り、

製本することによりて、

ここに一冊の著書が出来上がる。

 

だから(イ)なる現在ここにある本が出来るには、

必ず(イ)なる原稿、用紙、活字を組むこと、製本することを要すれども、

これは同時に(ロ)なる原稿、用紙、印刷、活字を組むこと、製本することを必要としない。

 

否、必要不必要でなく、そんなことはできない筈である。

 

即ち一冊の本を現在の本として出すまでには、

これに要する材料と、これを造り得る一定の過程とがあればよいので、

その材料や過程は決まっているものである。

 

ところが宗教に於ては、以上の例でいえば、まことに妙なことになる。

 

それはここに、ある一冊の本を作るに、

あるものは赤い紙で、あるものは青い紙で、またあるものは白い紙で印刷すると言う。

しかもその印刷の仕方は、

あるものは新式の機械を以て、あるものは旧式の機械を以て、またあるものは手刷りでするとする。

そしてまた製本屋へ廻す段になると、

あるものは甲の製本屋へ、あるものは乙の製本屋へ、またあるものは丙の製本屋へ廻すとする。

それから原稿も、

あるものは甲の寄稿家の文芸の原稿を、あるものは乙の寄稿家の哲学の原稿を、またあるものは丙の寄稿家の科学の原稿を組んで出来上がったものが、

ただ一冊の宗教の本だと言ったら、読者諸賢は、馬鹿な、そんなことがあるか。

それは甲乙丙、または白青赤、または印刷製本の巧劣が出来るはずだと難ぜられるかも知れぬ。

 

が、実際天理教に於ける教理には必然こんな奇術を行う理屈が含まれているのである。

 

そしてそれが、宇宙が三つも四つもあると云うならいざ知らず、

全体として宇宙(太陽系とか、または他の星系とかいう小さい意味での宇宙でなしに)は一つより無いはずである。

 

さらに、これは因縁の理と言って天理教がここで述べている「借物貸物の理」の次に、

天理屋として商売する時に、盛んにお客(哀れクソ真面目正直一途な信者)に振り撒くところの

「いんねんの理」のところで申し述べるだろうが、

実際こうして宇宙を作った神様が、

客観的に存在するものとせば「いんねんの理」より必然、

神様は存在せなくなるという結論に至るのであります。

 

 

そればかりではない。

 

人間及び万物を造った神様(換言すれば一つの宇宙を造った神様)が、

キリスト教のエホバであったり、

天理教の天理王命でもあるとしたら、

一体どっちが本当の神様でどっちが偽モノなのか、

それとも同一の神に名づけた異名がエホバ神、天理王命等なのか、

それとも天理王命とエホバ神と二体の神がいたのか、

明らかにせねばならぬところではないか。

 

キリスト教の教理(所謂信仰派の)よりせば、

天地創造の神はエホバ神一体より無いはずであり、

天理教より言えば、

天理王命が一体より無いとその教理に説く。

 

 

して見れば、どっちかが本物で、他が偽物なんだろう。

いや、一つより在ってはならぬものであるべき筈である。

 

然るに不思議なことには、この本物か偽物かという大事件に関して何等の不思議とも思わず、

不審も抱かざる彼等二教に於ける教師の態度は、

実に盲者唖者聾者に等しき態度ではないか。

 

さらに真実に神を求めんとするの念の薄き実に極まれりではないか。

 

しかも驚くことには、両教(実際はこれ以上だが)とも、

各自の神が厳然として存在していると号するに至っては、

全くこれ等の態度を何と評してよいか不明に陥るのである。

 

評し得なくて不明に陥るのではない。

アキレて不明に陥るのである。

 

 

しかし残念ながら、これを在りと信じ、

教師の言を直ちに受け入れ、

これに盲信するの徒の多きことは驚くべきことであり、

またそれほど口舌の詭弁、弱所、虚所をつく彼等の態度の恐るべきことを知らねばならぬのである。

 

 

 

さらに第(3)の問題であるが、

今ここに天啓を得たと天理教徒内に自称して出づる者があったら

(実際はあったのである。また而してその具体化せる者は大西愛次郎である)

天理教に於ける信徒、教師または天理教当事者は、これに対して如何なる処置をとったか。

 

 

天啓は第三者の、どうしても知り得ないものである。

 

当人と神との交通であれば、第三者の知り得ないことは当然過ぎるほど当然である。

 

 

然るに天理教内に、この種の者出づるに及んだ時、天理教当局者は邪説曲説を唱える者として、これを排斥したではないか。

 

* 教団内でも「天啓者」は教祖と本席の二人だけしか存在しない事になっています。

  ナライトさんが最終的にどのような扱いを受けたかご存知の方も多いでしょう。

 

これ何によりて排斥の理由としたか。

 

言うまでもなく、常識の尺度を標準としたに外ならぬではなかったか。

 

されば余等が、これに対して宗教学的心理学的の考察をすることを以て、

天啓の宗教は人間の理屈を超越したところにあり等と称して、

盲目的信者の理性が目覚めることを恐れて、

目隠し耳隠しをすることを以て、

これ事とするは如何にも封建的旧習の「由らしむべし知らしむべからず」式の醜手段を弄するものと言わねばならぬではないか。

 

実に慨かわしきことは、

これ等の見易き道理を弁ぜずして、

いたずらに信者の多きを以て、

天理教の膨大なるを以て、

所謂知識的識者(その実は宗教的常識に於ては三歳の童子よりも無学なる徒)が、

その教えに加入する故を以て、

換言すれば、皆行くから行く、皆が悪いと言うから悪い、皆が良いと言うから良いと言う

(但し病気が癒ったから信ずると言うことは、詳細を後述に譲る)ような、

何故に悪いと皆が言うのか、

何故に良いと皆が言うのかと考えることなく、

人の言うがままに信ずるのは如何にも軽薄な、

軽っ調子な盲動と言わねばならない。

 

こう言うと、

 

すぐ御教祖が「三歳心となってこい」と言っているから、

三歳心になっていくと言うだろうが、

それは教祖の意に反すること甚大である。

 

余が、教祖をしてキリスト的または古来よりの大聖人と称せられているものの列に入れて、

教祖の三歳心を解するならば、

教祖の三歳心とは決して謂れなき盲信でもなければ、

軽動でも、すぐ信ぜよと言うのでもない。

 

* みかぐらうたでは「三歳心」ではなく「散財心」なのですが、仮に「三歳心」としてもこれだけ批判されている事に反論は難しそうですね。

 

一口で言えば、執着を離れて物事を見よということである。

 

天理教に執することは、

既に我意を入れていることであって、

決して三歳心とは言われぬのである。

 

もし然らずして三歳心を、何でも彼でも言いなりになれと言うにあるならば、

それは人間をして、より良く生かすことでなく、

動かせば動き転ばせば転ぶ、物体と化せしむる以外の何事でもないのである。

 

人間にして、真に価値ある生産に真に全力を注ぎ、

人類の文化向上に資せしめる為に、

人間に力を与えるのが真に価値ある宗教と言うことができるにせよ、

ウンウンと何でも彼でも、

神様の天啓だから、

教祖のお諭しお指図だからといって、

それに盲従するが如き態度は、

活力を得るどころか、

それはそれこそ「生ける骸」である以外の何物でもないのである。

 

 

さて、霊感という意識状態を明かにする段取りとなったが、

これは宗教心理学と変態心理学とに亘るのであるから、詳しくは後述に譲ることとする。

 

 

 

さて、この頁を終わるに際して「天啓」について天理教は如何に見ているか、

その「天啓」なるものにどんなに勝手な理屈をコネているかを明瞭にするために、

三、四文引用してこれに批評を加え、読者諸賢の厳正な批判に資せんと思うのである。

 

 

所謂、教祖直伝と云っている御神楽なるものより始める。

 

これは言うまでも無く「屋敷を拂うて田売りたまえ」と言われる歌の同類であって、天啓による歌であるとする。

 

 

それは次の様なものである。

 

「よろづよのせかい いちれつみはらせど むねのわかりたものはない」

 

これに対して、前管長中山新治郎氏は次の様に解釈を加えている。

 

「この章の大意は未だ天啓の教えを聴かざる世界人類が闇黒界裏に彷徨する状を示されたるなり。よろづよのせかいいちれつは全世界の人類一同の意なり。みはらせどは神の遍く人類一同を看給うを言う。むねのわかりたものはないとは未だ天啓の教えを聴かざる者は罪悪および禍害を擺脱する道と無上目的に向いて進行する道とを知らずとの義なり。

熟々世界の現状を察するに罪悪及び禍害充満して光明なるべき霊性は光明ならず健全なるべき身体は健全ならず平和なるべき世界は平和ならず我等人間の生存及び発達殆ど将に危機に迫らんとす是に於て救済の要求大に全世界人類の心に起れり而して此の救済の要求に応ずる天啓の光未だ斯の世を照さざれば全世界人類は方に疑雲迷霧中に彷徨しつつあるを免れず是慈悲無限の救済者天啓の教えを垂れ給える所行なり」(御神楽歌述義、中山新治郎著)

 

 

所謂、天啓の教えを説く御神楽歌に為すべき解釈として、

如何に加言、付会の多きかは一言して明瞭であろう。

 

この歌をズゥと読んでいけば、大概は解るが「むねのわかりたもの」というのは一体何を指すのであるか。

この「むねのわかりたもの」に於て、この一つの命題はこうなる。

 

 

即ち誰の「むね」を、誰が解るのかという点に帰する。

 

さて「むね」を痛めるのが神であるならば、天啓の文としてふさわしい。

 

が、教祖の「むね」であれば、教祖は偏執病の具体的表徴を表したものとしか見ることはできない。

 

何故ならば、教祖は世界を(世界中の人類の心もちを)見透し尽くしたと豪語することになるから。

 

 

この「むね」を神の胸とすれば、何とまあ勝手気儘な神様ではないか。

 

後述するであろうように、

因縁の行末を知っているべき筈の神様が、

御苦労にも人間を作って、

罪悪禍害の充満したと嘆ずべきは、

とっくに知っていねばならぬのではないか。

 

神はすべからく自分の「いんねん」の表れとして人間界を救済すべきである。

 

神に何にも悪因縁が無かったならば、

何で子供たる人間に悪因縁の行為をさせるのであるか。

 

こんな未来の事も見透しできぬ神。

 

所謂、天理管長が言う、

罪悪及び禍害充満して光明なるべき霊性は光明ならず

健全なるべき身体は健全ならず

平和なるべき世界は平和ならず

我等人間の生存及び発達殆ど将に危機に迫らんとする、

極めて危険な現状を未然に防止得ざる、

力弱き、力無き神が何で「慈悲無限の救済者」となり得るか!?

 

これこそ、お臍がお茶を沸かす的な噴飯事でなくて何であるか。

 

 

我等は、管長のこの解釈を見ることによって、どれほどの美辞佳句麗文を見るも、それに眼を眩ませてはならぬ。

 

彼等が人の目を眩惑せしめ、

人の心を暗くせしめるものは、

常に斯の如き筆法に於ける、

内容空虚なるものを、形式、外容を以て脅しつけることである。

 

吾人は、くれぐれも形式、外容、見かけによって、その物や質や内実を決めてはならぬ。

 

現代は殊に、美服を纏い美辞を連ねた言葉を弄し、

会話に外国語等を矢鱈に入れ、

または漢語等を無暗に混ぜる人間には油断してはならぬ。

 

 

正に、中山新治郎氏の解釈は、斯く如き詭弁曲論である。

 

不明のものを、明瞭なものとする。

 

これほど独断、独り善がりがあろうか。

 

また世を毒するの最も甚だしいものであると言わねばならぬ。

 

 

御神楽歌は、この他に天啓に関するものとして、次のようなものがある。

が、それほどのものでないから、解釈は付けぬ。

 

「そのはずや といてきかしたことはない しらぬがむりでは ないわいな」

「このたびは かみがおもてへ あらわれて なにかいさいをとききかす」

 

何とまあ、勝手な神ではないか。

人間(神から見れば可愛い子供)に説いて聞かせもせずに、

どれほど「いんねん」だと言って、

病気にもすれば早世もさせたか。

 

神が作ったものであるならば、

しかも大慈悲無限な神であるならば、

こうすればいけないぞ、ああすればいけないぞと説き聞かすのが本当である。

 

それを知らせもせず説きもせずして、

人間の行為をずっと見るだけで、

中山新治郎氏の所謂この世に罪悪禍害が充満しなければ、

説いて聞かせに来ぬような神は、

何とまあ教育に不熱心な神ではないか。

 

また子に対して無関渉な、親としての資格なき神ではないか。

 

かかる点に於て、吾人は神様「天理王命」なんぞは、むしろ有難くもなんでもないと言わねばなるまい。

 

 

なお一例、上掲の歌に対しての解釈したものを、お目にかける。

 

これによっても、どんなに解釈が勝手気儘なものであるかを諒解することができる。

 

 

「天啓の教えは、理性に超越するものであっても、理性に反対するものではない。

理性に反対するものなれば、

如何に天啓であっても、理性を有する人間としては、これを信ずることはできない。

ただ、理性のみで知ることのできない真理や事実を、

神の全智によって人間に知らせ給うのが天啓である。

この意味に於て天啓の教えは人間の理性に超越するというのである」

(中西牛郎氏著「神の実現としての天理教」頁153)

 

 

中西氏の論断は、まことに不可思議、奇妙奇天烈の頂上である。

 

氏は相当の教養ありと聞く。

 

しかし、氏には失礼ながら、哲学宗教に関する教養あるやを疑わざるを得ないのである。

まことらしく、天啓は理性に反対するものでなく、超越するものであると言う。

 

ところで反対と超越とは、どんな風に異なるかを、氏は知っているのであろうかを疑われる。

 

勿論、余と雖も、二つの概念が同じだとは言わないが、

氏の述べているが如く全然別個のものではない。

 

もともと天啓は感情に関したものであることは、

今日多少心理学を学んだ者にとりては異存の無いところである。

 

然して天啓を感情に関するもの(天啓を受ける人の)とせば、氏の説論中に大なる誤謬がある。

 

そればかりか彼等(天理教学者)が如何ばかり、

中山ミキの夢中で口走ったことに対して、

これをよく価値づけようとして焦っているかも知ることができるのである。

 

 

即ち、天啓は神の御言葉である以上、真理ならずと言うことはあるまい。

 

(信仰篤き者にとりては)然るに、

氏は何故に

「理性に反対するものなれば、如何に天啓であっても、理性を有する人間としては、これを信ずることはできまい」

と言っているのか。

これ実に、

氏が超越と反対との概念が異なるということを説かんとして、引き出したものであろうけれども、

不幸にして氏の目的は達せられないのである。

 

それは前述したとおり、

天啓なるものは、

理性を以て正とも非とも判断し得ざるものである。

 

 

即ち、天啓で述べられたるものが、理性では真理だとは言われないのである。

 

ところがこれを真理だと言うのは、一体どうしたことであろうか。

これ明らかに、

理性に反対していることを認めるという点に於て、

理性に反対しているものであると言わねばなるまいではないか。

 

 

斯くの如く、詭弁は至る所に伏在しているのである。

 

読者は注意を重ねて、天理教の書物なり、教師の説教なりを聴かねばならぬ。

 

 

くれぐれも言う。

 

天啓の言は、必ずしも真理ではない。

 

それが理性に叶うもののみ真理であると。

 

また、理性を以て決し得ないものは、これを真理と決するのは大なる誤りであるということを。

 

 

また曰く、

 

「天啓と申しますは神が直接に人を介して我等人類に神意を述べられたのであって、智識や苦行や思索によりて発明せられたり考えられたりした教えとは大に異なるのであります。而して、宇宙根本の神様が吾が天理教祖を通じて、天啓を垂れられた所行のものは人類を闇黒の世界より光明の世界に導き、一切のあしき埃を拂うて此の世ながらの安楽世界、極楽世界となし地上に甘露台を築き上げんとの切なる神の思召によるのである」

(地場思潮社発行「天理教とは如何なる宗教か」頁3)

 

 

右の文にも見る如く、天啓は、智識や苦行や思索とは相容れぬものである。

 

だから個人の思いつきや、独りよがりや、勝手な事柄が多いのである。

 

それを天啓と信じない人には三文の価値も無いのである。

 

前述したとおりであるが、

ここに天啓だと言って、神の告を口走る者があるとしたら(実際あったものだが)

天理教徒は直ちにこれに信用を置くかというに、そうではあるまい。

 

誰かが、天啓だから俺の言いなりになれと言ったところで、よも言うとおりにはなるまい。

 

なるほどのものでなくては、

どうして天啓だから価値があり、

理性より超越したものであるなどと、よく言えるか。

 

実に無自覚な、

無学で薄っぺらな無知さに、

驚くというより呆れざるを得ないではないか。

 

 

天理教が「天理屋」を開業しているうちは、

これに迷い込むお客の来るうちは、

どうでもよい天啓を後生大事と崇め奉っておくんだが、

こんなものは何にもならぬのだと言うのが、

天理屋の物のわかった人間の腹の中だろう。

 

 

それにしても、あまりにやり方が残酷ではないか。

 

何故ならば、巻き上げる第一歩としての天啓だから。

 

 

さて天啓のことは以上で終わることとして、

この天啓が述べていることであるところの貸物借物の理なるものを説明する。

この貸物借物の理を信者に呑み込ませれば、

もう取るも剥ぐも自由自在だと、

ある教師が著者に語ったことがあるが、

実にこの貸物借物の理こそは、

見方によりて人生に活気を与えるものであり、

取りようによっては、身を滅ぼし、家を倒し、一家離散の憂き目にあわねばならぬ第一段階であるのである。

 

* 天理教側の矛盾と欺瞞に満ちた言い訳や勝手解釈が次々と論破・非難されています。

  読んでいて清々しい限りではありますが、ちょっと長いのと散文的文章が疲れますね。

  要点を押さえてお読みください。

 

抑々この「貸物借物の理」なる思想は、どこから来たか。

 

余はこれについて、お話するであろう。<<

 

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【参考意見様】

 

教祖の登場が予定されたものならば、

そのことを過去に予言された天啓の記録などが残っていなければならないのでは?

登場した本人が、

自分で予定されていたと言っても、

それはジャンケンの後出しみたいなもののような気がします。

 

しかし「貸物借物の理を信者に呑み込ませれば、もう取るも剥ぐも自由自在」とは、怖いですねー!!