こんにちは。かなり久しぶりの更新になってしまいました。自分のお世話と、エネルギーの偏りを整えることに集中していたら、現実の変化を文章に起こすことから遠ざかってしまいました。以前とは違って、自分の素直な感情に従ったり、嫌なことにはNOと言ったりできるようになった気がします。せっかちで動きたがりの私にはまだ難しいですが、今自分にできないことは他人に任せて、自分のペースで楽にやることを心がけています。


さて、最近あった変化と言えば、自分にASD、自閉症の傾向があることを自覚したことです。私は感情表出に乏しく、相手と自分が分離した他人であることや、他人の感情を思いやる、予測することが難しいという特性があります。同じことを、他人にしているのでしょう。他人の「ちょっと迷惑だな」という行動を通して、これを自覚しました。ほんとに、ご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ないという気持ちです。ところで、「結婚できない男」というドラマがありますよね。最近、旦那がDVDを借りてきたのですが、桑野はASD患者そのものだと思うのです。ドラマの中の当事者を観察して、自分との共通点や、考え方の特徴について分析していました。これも偶然ではないような気がします。本当に現実というものは、全てが仕組まれているのではないかと思うほど、タイミングが良いと思わざるを得ません。


ASD傾向のある私の周りで起きたこと、私の行動を、いくつか紹介します。


・相手と自分の認識や感じ方が同じと思い込み、勝手に話を進める。相手が話の全容を理解できずに、相手に詳しい説明を求められると、『え、何で分からないの?』と、私は困惑する。

例:旦那が仕事を家に持ち込んで、2人で休んでいる時にも作業をする。「たまの休みには構って欲しい」と言うと、「自分はスマホ触ってたくせに、暇になった途端、俺の仕事の邪魔をするのか!」と、こちらの気持ちや視点を考えず、怒る。


・他人の視点が分からないので、他人の立場や気持ちを考えず、自分の都合に他人を無理やりに合わせようとする。

例:旦那が嫌いな食べ物を、何度も私が勧める。相手を自分の延長と思っているから、旦那がその食べ物を嫌だということが分からない。旦那は嫌気が差して、「食べたくないって言ってるじゃん!」と、怒って強く拒絶する。


・相手を決めつけて認識して、無神経に断定する。例:『あなたは心配性だから、あまり考えすぎないで。』→実際には、私は心配しておらず、考えることが好きなだけ。相手は自分がいつも不安なので、私をその人の延長として、自分に重ねて見ている。

『あなたの子供はきっと、遅くに出てくる』

→自分の世話ではなく、他人の世話ばかりしてしまう人は、出産予定日を過ぎて子供が生まれる、というジンクスに、私を一方的に当てはめる。普通に不愉快。


・白黒思考。0か100か、善か悪か、好きか嫌いか、という、二極化した解釈をしてしまう。これは世界の原始的な構造と似ている。本来は細胞のように、より多くのものに分離して、価値観や感情の種類が増える。世界、つまり他人と自分の分離ができていないので、自分の内側が多様化せず、二極化する。


・自分の領域に、他人を入れすぎてしまう。反対に、自分も相手の領域に入りすぎてしまう。他人のやるべきことを、自分がやってしまうし、他人にも自分がやるべきことをさせようとしてしまう。ASDは母子癒着とも関係があると解釈しているので、恐らく相手を自分の延長と思い、母親扱いしている。母親と分離していなければ、自分で自分の世話や義務をする必要がない。嫌な気持ちになれば、母親が不快を取り除いてくれる(と本人は思っている)ので、不快を感じると、母親にするように他人のせいにする。


・自分の気持ちや、本能のニーズが分からないので、相手のニーズを無自覚に無視する。また、自分と相手の同一視から、「私がされて嫌なことではないから、あなたも嫌ではないだろう」と、相手が嫌がることをやめられない。結果、相手を感情的にネグレクトする。

例:私は旦那に、夜寝る前に歯を磨いて欲しいのに、旦那は頑なに磨かない。朝になってからやっと磨く。シンプルに汚いし、キスも近くでスキンシップもしたいのに、臭いから嫌。旦那は私のしたい気持ちには無頓着で、自分の「面倒くさい」という欲求の方を優先する。


・感覚過敏。ものの感触や音が過剰に感じられたり、ちょっとした相手の言葉尻が異様に気になったりする。


・ルーティンや予定を崩されると不安になり、怒り始める。他人が何か失敗して、状況が自分の思い通りにならないと、他人を責める。

例:旦那と出かけた時、私が電車の定期を忘れる。旦那、すごい勢いでブチ切れる。この現象はかなり前に収まったけど、私は1年前まで、酷い間欠爆発症だった。


・他人と、感情共有ができない。そもそも感情がなく、「悲しみ」「焦り」「恥ずかしさ」「恐れ」「痛み」という感覚を感じられないので、危機管理ができない。不愉快な出来事や、明らかに様子のおかしいヤバい人にも迎合して、関わり続けてしまう。


・知らない人にペラペラ話しかけられて、時間を奪われる。相手の持っている情報は自分のもの、相手の時間や労力、頭脳は自分が使うもの、と、無意識に思っているであろう人と引き合う。


・頼み事の多い、図々しくて距離感が変な、馴れ馴れしい人と引き合う。こちらのプライベートな時間に入り込んで、対価を支払わず、わざわざこちらに損を押し付ける人と引き合う。親密度を測れない人が多い。断りたいのに、断ったら逆切れされる気がして、NOと言えない。


ざっと一通り書いてみましたが、本当にヤバい奴です。無神経で、他人の気持ちが分からず、他人を主観で決めつける。他人のことは理解しようとしないくせに、自分は理解されたがる。自分と他人を同一視して、他人のエネルギーと時間を、無自覚に搾取している。私は自立できず、他人や社会をお母さん扱いして、無償で援助してもらって当たり前、自分の不足を補ってもらって当たり前と思っている、甘ったれなのです。私は、女性性に与える男性性もなければ、外界で他人の男性性と競争して、有償、交換によって、自分を自力で増やす男性性すらないのです。だから、自分を減らして誰かと女性的に結びつくことしかできない、依存心の強い男性しか現実に現れないのだな、と納得いっています。私の中の女性は力を持ちすぎていて、私の中の男性は、私の中の女性に、力を奪われている、いや、奪わせている。母親とぬるい共依存の中でも生きていけるので、わざわざ外に出ていく必要がないのです。社会性がないので、誰かと競争して、自分の本当の姿や実力を、客観的に知りたくないからです。だから、社会に出ても他人に甘ったれて、依存する。自力で、一人で、自分の人生の課題に向き合うつもりがないからです。


半年前ほどから、似た課題を持つご近所の方と定期的にお会いして、一緒に心の課題に向き合うというお付き合いをしているのですが、これがまさにそうなのでしょう。私はいつも、勝手に他人に引っ付きに行って、一方的に尽くしては、利用された、と被害者意識を持っていましたが、自分がやりたくて、無償で与えているのだから、利用されて当たり前です。そもそも、誰かの領域に入り、その不足を補って、相手のやるべきことを取り上げることは、相手から自立と成長の機会を奪うことです。自分の足で立つつもりがなく、自分も相手に同じように支えてもらいたい、と思う依存心があるから、対価を払ってもらうのではなく、無償で助けるのです。実際、私が無意識に相手に干渉して、相手の方から「助けて」と言われる前に、先回りして情報を与えていた結果、その方の行動には、少しずつ甘える姿勢が現れていました。

「こちらの家に来て欲しい(交通費がかかる)」

「家にご飯を食べに行きたい」

「クレーンゲームのぬいぐるみを取って欲しい」

「初心者でも分かる本を紹介して欲しい、本の内容を一から教えて欲しい」

「約束の時間から1時間前倒し/遅らせて会いたい」

「不安なので、電話したい(その後、返事をするも、既読無視)」

「話を聞いてもらいたい」

「これはどういうことですか?どうやるんですか?どうしたらいいですか?」と、まず調べたり考えたりせずに、なんでも聞く、など。善意で対応したり、躱したりしていましたが、正直、何度も図々しいな、と思ってしまいました。誰かに手伝ってもらうことをアテにして、相手の時間や労力に対価を払う気がない人なんだな、と。恐らく、心理的にまだ「赤ん坊の欲求」が満たされていないので、無償で与えられ足りず、もっともっと下さい!と、自分の利益や欲求のために、無意識に他人を母親にしている。または有償で他人と関わる男性性がなく、母親と無償のエネルギーによって共依存しているので、他人に母親になってもらい、無償で不足を補ってもらいたいのです。そもそも、お付き合いが始まったのも、「占いについて教えて下さい!」と、私の時間や労力を、タダで利用するつもり満々で始まっていたな、と思い出しました。彼女には他人の良心に頼って、自分はなんの努力もせず、どうにかして!と悠々と構える姿勢があるのです。自分がそうさせていたので、一方的に責めるつもりは全くありませんが、やはり依存心は、依存心を引き寄せるのだと思います。相手もそれに気付いたのか、「少し距離を置きたい」と連絡がありました。この方も男性性が弱く、男性は当てにならない、自力でどうにかするしかない、という状況に置かれがちです。私より40歳くらい年上なのに、こちらの都合を考える客観性がないなあ、私を無自覚に母親扱いして、やりたい放題甘えてくるなあ。と思っていたのですが、私にも、そういう要素があるし、私がそうさせているのです。これに気付けただけでも、大きな進歩です。似た課題を持つ者同士、学び合うことで、精神的な親離れを果たしていくのだと思います。


ASDの話から脱線してしまいました。

その後、ASDを少しでも寛解させるために、私がやったことは、自分の感情や感覚に敏感になること、「自分は!自分が!」と、他人に理解を求めるのではなく、自分がまず先に他人を理解しようとすること、そして、他人に寄りかかろうとせず、自力で自分のお世話や精神的なケアをすることです。毎日、きちんと朝ごはんを作ったり、健康のために散歩をしたり、自分の気持ちに寄り添ったり、したくないことはしない、ということを心がけています。

今までは、他人の世話やケアをしてあげることで、自分も相手に同じことをしてもらおう、と、どこかで思っていたのだと思います。しかも心の勉強を始めてからは、誰にも迷惑をかけたくないという思いからか、それがバージョンアップして、他人から世話も対価も受け取らず、無償で与えてしまっていました。

私の、「自分を減らす」女性性エネルギーは、女性的な境界線を越境しまくり、ついに他人と入れ替わってしまったのでしょう。何年も何年も、脈々と私の家系の母子関係で、これが繰り返されてきたのです。母親は、自分に足りない男性性エネルギーを、子供を旦那役にすることで補って、束縛する。そして今もそれを、外側の関係で再現している。本来、私は他人に自分の領域に入られるのが大嫌いで、好き嫌いも激しく偏屈なので、無駄な人付き合いはしたくないのです。体力もないので、誰かにエネルギーをあげて、消耗もできません。人付き合いは、その人とエネルギーを交換することだから。そろそろ、そのお付き合いのある方とも、ご縁が薄くなる気配がしています。本音を言うとなんだか、私ばかりが前進して、彼女は私から情報をもらい、引っ張り上げてもらうだけで、実りが少ない気がしてしまうのです。初めは似た課題を持つ者同士、気付いたことを話し合って、お互いに成長していこうというつもりでいました。しかし最近、その方と最後にお会いした時に、ちょっとした発言や態度から、「この人は他人に寄りかかりたい、縋りたい気持ちが強く、他人のせいにして楽な方に流れるばかりで、自分の心を一人で内省するとか、自分で考えてどうにかする、という自立心がないんだな」ということを、肌で感じ取ってしまいました。「やっぱり、あなたに話を聞いてもらわないと、また上手くいかなくなってしまう」と。きつい表現になってしまいますが、誰かに全てを委ねて、自分の問題を解決してもらいたいという甘えや、できないことは善意やボランティアで教えてもらい、考えてもらい、お世話してもらって当たり前、という幼児的姿勢が、この歳になっても抜けない方とお付き合いして、果たして私にメリットがあるのかな?と思ってしまったのです。これが対価の発生するお客様であれば、コーチングとして、それとなく本人に自覚させる、という関わりができたのかもしれませんが、対価もいただいていない私に、そんな義務はありません。本人に自ら変わる気持ちがなければ、私もそれを強制できないのです。

年齢や状況から見ても、ハンディがあるのは彼女の方なのですが。本当に大変そうで、失礼ながら母親に感じていたように、同情する気持ちがあるのです。しかし、この感情は危険です。相手の人生は、その人の選択の結果なのに、その人を「自分の責任を持てない人」「手伝ってもらわないと、自分の課題を解決できない人」と、見下しているのと同じですから。私も、自分の決断することに自信がなく、自分の不安を解消できないから、相手に干渉することで、不安を解消しているのです。彼女の課題は、私の力で、どうにかなることではありません。彼女次第です。これまでの共依存的な関わりではなく、成長できる人間関係を作ることができるステージに、やっと入ったのだ、と思うことにします。

全てをコントロールできる、という自惚れを、最近になり、ようやく手放し始めました。人はそれぞれの都合で動いており、こちらの事情など知らない、ということに気付けたのは、恥ずかしながら、本当に最近の話です。

そして、最近見た夢で、不思議なものがいくつかありました。厳選し切れないので、だいたい時系列で書いていきます。


顔を知らない、感覚的に、恐らくいずれかの前世の親戚の男性3人が、前に私が住んでいた実家を訪れる。私はまだ実家に住んでいる体。1人目は、養父に雰囲気の良く似た、捻くれ者で攻撃的で、小柄な中年男性。それに背格好の似た、小柄なおじいちゃん。そして、ゲーム機を持った小さな男の子。3人でやってきて、おじいちゃんが、私に何か話すように促す。「私話すことなんかないし、拗ねてるんだけど」と言うと、「そんな事ないと思う。言いたいこと、今言ったら?」と、おじいちゃんに促される。中年男性は、「何でわざわざ親戚で集まって、こんな話しないといけないんだ」と、ちょっと嫌そう。私は口を開いて、

「じゃあ言うね。私、あなたに殴られて本当に痛かったし、悲しかったし、怖かったよ」

と言った。中年男性、罪悪感に苛まれた表情をする。すっきりして、夜中3時に目覚める。


誰かが連れてきてくれたんだろうな。

この夢を見た日から、自分の気持ちを我慢せず、旦那や旦那のお父さん、お付き合いのある人や、知らない人にも伝えられるようになりました。嬉しく、有難いことです。


これは景気の良い夢。おしゃれなチョイ悪オヤジに、白いオープンカーの助手席に乗せてもらう。その後、若い男にナンパされて、服のセンスにダメ出しされたところを、なぜか急に現れた旦那に、コラ😡と怒ってもらう。服は古かったのか、よく見てみたら破れてた。

チョイ悪オヤジとオープンカーは、男性からの支援の予兆。この数日後に、内容の明記はしませんが、本当にある男性の方から、金銭的に援助をしていただきました。ナンパされるのは、承認欲求が高まりすぎていることへの警告。他人に注目されたい、評価されたいと思っている。洋服は夢の中で、社会的評価のこと。私は他人の評価を気にして、本音を言えずにいる。旦那に私の本音や感情を代わりに拾ってもらいたい、もしくは実際に拾ってもらっているのだと思います。実際に、旦那は他人に気持ちを分かってもらう、他人の気持ちを分かることに敏感な人です。破れた古い服は、無理をして素直に自己表現をせず、自分を取り繕っていることの表れか、他人から見た自分に対する、低い自己評価の表れだと考えます。


今住んでいる家の居間に、ゴキブリが出て、それを旦那が潰すと、卵が孵ってしまう。その卵から、小さなゴキブリと、大きなカニが2〜3杯出てくる。そしてなぜか、かわいいダンスを始める。旦那が殺虫剤で始末する。夕食のために大量に買っておいた活きエビが、部屋の隅と隅からザーッと集まって、交尾を始める。なんだかおめでたい感じがする。

居間にゴキブリが出る夢は、親戚トラブルがあることの兆候。実際に、義父が、折り合いの悪い旦那の弟の家に住んでいて、これから一方的に追い出される、という話をされていた。義父にはタイムリミットも知らせずに、旦那の弟が既に家の解約の手続きを済ませていたらしく、これから私たちと義父が同居する予定。ちなみに私は旦那の弟が大嫌い。エビとカニは、欲望や本能の象徴。私は恐らく、潜在的に欲望を抑えている。エビの交尾は、何かの交流を指している。恐らく、義実家との交流か、今所属している、趣味の団体との交流を指している。どちらもおめでたい、楽しいことがありそう。


付き合ってる何もしないダメ男に愛想を尽かして、同棲解消する夢。赤ちゃんもいて、男にバレずに逃げるために、赤ちゃんを置いてベランダから逃げてきた。

赤ちゃんを置き去りにする夢は、自己放棄への警告。自分の気持ちを無視してまで、自己犠牲している可能性。ダメ男は多分、私に一方的に頼って依存している、外側のイメージ、または自分の貧弱な男性性のイメージ。私という自力が、他力としての自分や、他人という他力を甘やかして、ダメにしていることの隠喩。自力で立つ気のない、依頼心の強い人達や、そういう自分から卒業して、離れたいことの表れ?


家の外にゾンビがいて、玄関の鍵を締めるけど、なぜか鍵が開いてしまい、何度も鍵を締め直す夢。外は寒いから、分厚いジーンズが履きたかったのに、探しても見つからなくて、結局外に出られなかった。同時に家にいた、知らない男性に探してもらっていたら、なぜかその男性がジーンズを目の前で履いていて、自分のかと思ったら、そうじゃなかった。外に出る意思はあった。

何度も玄関の鍵を閉める夢は、自分の領域を頑なに守っていることの表れ。ゾンビは、私からエネルギーを奪おうとする存在の象徴。暖かい服、ということは、ありのままの自分ではなく、十分な社会的評価を身につけてから外に出たい、ということ。外に出慣れているであろう、知らない男性がジーンズを履いているのは、その人には、その人が努力して培った、人に認められるだけの社会的評価があるから外に出られるのだ、と、私が思っているということ。外に出る意思はあったことから、実力をつけてからではないと外に出られないと思っている、私の臆病さを表しているのだと思う。


エヴァンゲリオンみたいな世界観の中にいて、何か大きな怪物が、隠れて暮らしている人々を襲撃して、殺していく夢。私は母親と父親と兄弟と、ボロの家の中で寝ている。大きな音がして、窓を見ると隣家がなくなり、自分の家の一部が抉られて、欠損している。その後、何度も襲撃があり家は倒壊し、母親だけが跡形もなく亡くなる。なぜか私だけ逃げ足が早く、父親と何人かの兄弟は後から追いかけてきて、「母さんはこれしか残らなかった」と、少しの髪の毛と、身につけていたものの一部(布切れ?)を、泣きながら渡してきた。

母親が殺されて死ぬ夢は、過干渉からの解放、母親からの精神的自立、という意味があるそうです。これは昨日見た夢です。


このくらいかな。書き疲れてきました、またネタが溜まったら書こうと思います。それでは。