こんにちは。

最近になり、やっと、自分の未熟な男性性、女性性、幼児性に、真正面から向き合う決心がつきました。散々母への恨みつらみ、養父への悪口を書いて、感情的にこき下ろしてきましたが、あれは紛れもなく、全てが私の性質です。しかし、自分の悪い一部に対する感情を、そのまま感じることは、癒しと成長のプロセスに、必要不可欠でした。まだまだ感じ足りない節はありますが、心に溜まった怒りのガスはかなり抜けて、以前より格段に、平穏になっています。


初めに、私は男尊女卑を地で行く、幼稚で傲慢な男性性と、自尊心が高いが故に、奴隷のように男性に尽くしてしまう、依存的な女性性を持っています。私の社会性や父性は、そもそも貧弱すぎ、私の女性性は、奪われた自尊心を取り戻したいあまり、他人の自尊心を奪いすぎたのです。私が養父のように、身内である女性や子供を、強く支配下に置いて、暴力や否定によって権力を誇示していたのは、科挙によって去勢された男性性の自信を、無理やりに取り戻すためだと思います。女性に世話されなければ何もできない、勉強以外に取り柄のない、役立たずの自分を上げて、他人を下げることで、壊れそうな男性的な自尊心を守っていたのです。


また、私の男性性は、科挙に受かるために自分の世話をする母親が、自分の存在で苦しむのを見ているから、家族が不幸なのは自分のせいだ、と、誰より思っている。だからその罪悪感に耐えきれず、問題を外在化することで、心の安定をはかっていたのだと思います。そもそも、自分の女性性も、自分の問題に向き合わないために、男性性を甘やかしながら、全ての責任を自分の男性性に擦り付けているのです。自分の心の問題を、誰かのせいにする両親の下に生まれたのは、自分自身が、他人に全ての責任を押し付けていた結果なのです。


また、幼稚で問題のある男性、社会性に問題のある人が目の前に現れる度に、「なんだこいつは。私はこんな言動は取らないから、これは私の一部じゃない」と、どこかで自分と切り離して考えていました。しかし、これも間違いなく、かつての私のものです。

今、それらの性質が矯正されたのは、養父や、学校の先生方、私の問題を鏡のように見せてくれた、私と同じ課題を抱えた人達、社会にいる沢山の方にいただいた、愛のお陰です。「よく見なさい。それはお前自身だ。」と、私の欠点に気づかせようとしながら、未熟な私に社会性を身につけさせ、父性によって押さえつけていただいたお陰なのです。私は果たして彼らに、心から感謝を示したことが、一度でもあったでしょうか。与えられて当前どころか、こんなものは、要らない!自分は未熟では無い!自分一人で生きていける!と突っぱねていたのですから、本当に幼稚です。今は恥ずかしい気持ちと、申し訳ない気持ち、感謝の気持ちでいっぱいです。


また、自分の母親は、自分の女性性の象徴です。誰かの貧弱な男性性を責めて、自分は悪くない、と母が言っていたのは、自分の社会性のなさ、受け取る女性性のなさに向き合うことを回避していたのだと、今になって理解しています。私の女性性は、自分の男性性を軽蔑すると同時に、甘やかして、その自立する力を奪っている。女性であることを社会に否定されたから、男性(社会)から受け取ることを諦めて、男性として生きている。自分が搾取された分の足りないエネルギーを、親しい誰かからもらうことをアテにしている。干渉というのは、片方の性エネルギーのみによって自分を保とうとする動きから、子供や社会から足りない方の性エネルギーを、絡んで奪おうとする、という動きだと考えます(少し脱線しますが、これが片方の性質との癒着や、親性の欠如による場合もあります)。

私の母が私を自立させたがらず、彼女のもとに縛り付けようとしていたのは、自分の「自己否定」「社会性のなさ」という問題に向き合うつもりがなく、子供に無償で世話をしてもらいたいという依存心が、ものすごく強いから。ただ、私は負けず嫌いなので、何度も「お前(女)は役に立たない」と言われたことで、本当に諦めてしまうのではなく、自分が役に立つことの証明をするようになったのでしょう。だからあの、努力家で、自分に厳しく、超人のような母親だったのだと思います。自尊心を示し、自分の価値を証明したかったから、受け取る女性性を放棄して、男性性を鍛え上げてしまったのでしょう。高潔な人です。だからああされたのは仕方ないことだと、私もどこかで受け入れています。だから、私は母を恨んでいないのでしょう。


男性性のために、女性性が犠牲になっている、女性性自体を否定している状態なので、自分の女性性が満たされることは、放置される。男性に生まれた場合は、ただただ甘やかされて、尻拭いをされるので、ポンコツで偉そうなだけの、裸の王様になる。結果、働かないし頼りない、役立たずのくせに特別扱いが当たり前の、幼児のような父親が再生産される。

女性に生まれた場合は、母親と同じように自己犠牲を強いられ、母親の世話を強要される。母子癒着、ヤングケアラー、外の人と女性的なエネルギーのみによって、共依存になる。母親の愛情も、父親の愛情も与えられず、精神的な発達が阻害される。何でもできる女性になり、自分のものと同程度の男性性を持った男性と、同じ家庭を再生産します。


また、どちらの性別でも、父性がなく、母子分離に失敗しているので、自分の不完全性を認められず、完全無欠な自分、という妄想に取り憑かれる。他人を無意識に、無償で何でもやってくれる、母親のように扱う。幼児は母親に全てをやってもらって当たり前なので、お礼を言わない。挙句、自分のやるべき事でも誰かに押し付けて、何でちゃんとやらないの?!と、癇癪を起こす。ミルクが欲しくて泣き叫ぶ、赤ん坊と同じ心理段階にいます。他人と自分を切り離せないので、自分のして欲しいことを、相手に押し付けて、相手に見返りを請求してしまう。男性の場合は、空想と現実のギャップを埋め合わせるために、女性に世話されながら他人を見下して、辻褄を合わせようとする。女性の場合は、社会にいる誰のことも頼らず、自分の男性性の尻拭いをしながら、自力や身内のみに頼るようになる。結局、自分の未熟さ、自分に人生の選択に対する責任感のなさが、このような現実を作っているのです。確固たる自分の価値観ではなく、社会で優遇されるための価値観を盲信するから、後でたっぷり、その責任をとらされる仕組みになっているのです。


子供ができてから、親になることの責任を持つために、自分の幼児性を自覚したくて、潜在意識がフル稼働し始めたのか、ここ数日は私の短所を諭すような、そんな夢ばかり見ます。迷惑をかけた人々に対する、申し訳ない気持ちと罪悪感に、やっと自分から、目を向けられるようになりました。私の心は弱く、脆いので、これまでは自分の醜い一面を、受け入れることができませんでした。恥ずかしい限りですが、今更これまでにしてきた幼稚な行いを後悔しています。


今思えば養父は、私に彼ができる限りの愛情を注いでくれていたのだと思います。旅館や高級なレストランに連れて行ってくれたり、ブランド物のバッグや財布、服を買ってくれたり、私をバカにした態度をとってくる人から守ってくれたり、私のダメな所を叱ってくれたり。彼は私に、彼の与えるものを喜んで受け取ってもらえないことに、烈火の如く怒りながら、どこか悲しそうな顔をしていたのです。

私の男性性は私の女性性に、「どうして、俺から何も受け取ってくれないの?」「俺はいるだけで邪魔な存在なの?」「俺は君の役には、立てないの?」「どうして、俺を愛してくれないの?」と、言っている。彼の愛に気づけなかったこと、今になって申し訳なく思います。


私は、170%の仕事を、私の女性性にさせて、男性性には、30%の仕事しかさせていない。

自分の男性性は、自分の女性性や他人に愛されたくて、でも愛されなくて、憎しみを募らせている。

自分の女性性は、自分の貧弱な男性性を、蔑んでいる。外にエネルギーを与える男性性、外からエネルギーを受け取る女性性を発揮できないことから目を背けるために、身内の世話や、尻拭いばかりしている。自分と他人の境界線がないので、どこまでが自分の責任で、どこからが相手の責任か、分からない。自分の責任を持ってくれないと、その依存している子供や他人を責める。

自分の男性性が、受け取ってくれない自分の女性性から愛されることを諦めて、外の人にエネルギーを与えることで、愛されようとしている。しかし、母子分離ができていないので、相手を自分の延長と思い、自分がして欲しいことを押し付けてしまう。結果、相手の欲求や気持ちを考えられず、相手を満足させられない。自分の何がいけないのか分からず、認められるために身を粉にして働いて、体を壊す。でも誰にも感謝されないので、ブランド物を身につけたり、身内に感謝を強要したり、マウントをとったりして、虚勢を張る。

また、女性性に強く干渉されたので、自分の責任を、適切に持てない。自分の世話も、自分でできない。外の人を、女性性にするようにアテにして、なぜ依存させてくれないんだ!俺の世話を女がするのは当たり前だろ!と、逆切れする。結果、迷惑をかけて嫌われて、もっと孤立する。負のループです。


以上が私という人間の、等身大の姿です。私はガサツで、乱暴で、人の気持ちを考えられず、態度がでかく、依存心の強い、幼稚で子供のような人間なのです。妄想の中の、誇張された自己から、やっと醜く小さい欠点だらけの、等身大の自分を認識できるようになってきました。今回、私の父親が実父ではなく、養父なのは、ただでさえ消えてなくなりそうな私の男性的な自尊心を、血の繋がった父親と自分を同一視することで、より卑屈にしないためなのだと思うのです。


私の性質がここまで煮詰まってしまったのは、自分だけの責任、というわけでもなければ、全ての責任が誰かにある、というわけでもないと思います。

これらは家系の問題であり、自分自身の問題でもあります。時代背景や、社会的な常識によって、人生の選択の責任を取り上げられてしまったことの弊害も、きっとあるでしょう。ここまでバランスが偏ってしまったのは、きっと先祖が皆、自分なりのやり方で、家族を愛してきたからこそで、家族を憎んでいる、とか、愛していないわけではないのです。煮詰まってしまった家系の因縁を、私の代で止める、というのが、私に任された人生の仕事なのだと思います。

自分で蒔いた種から出た芽は、自分で刈り取るしかありません。占い師やスピリチュアルに依存して、その教えに縋って従ったところで、問題は堂々巡りなのです。誰かが自分の人生をコントロールしてくれて、楽にしてくれたり、自分の選択の責任をとってくれるわけではありません。自分の頭で考えて、誰かのせいにせずに、自分の欠点に正面から向き合い、楽な方に流れて誰かに依存しようとせず、本当の意味で、自立して生きるしかない。ここ2年で、痛い思いをたくさんして、そのことに気づきました。


私の子供や配偶者、周りの人を不幸にしないため、また、私をもっと、気持ちよく愛してもらうためにも、これからも成長していきたいと思うのです。


〜追記〜

書き終わった後に気づいたのですが、私の周りに「一方的に母親を求める」、境界性パーソナリティ障害の人ばかりが出てくる理由。恐らく、私が外部に出しているエネルギーが「等価交換」が前提の「男性性」ではなく、「無償で与える」が前提の「女性性」だったからです。

母子癒着から母親と自分を切り離せず、外にいる他人を、自分の延長と思い込んでいる。自分が女性性のエネルギーをもらうために、他人に先に貸し付けて、女性性のエネルギーのみによって、相手と共依存しようとしていたからなのではないか?と思いました。自ら蜜を振り撒いておいて、いざ虫に来られると「来ないで😡」と言っていたようですね。他人に都合の良い母親を求めているのは、どちらも同じです。母親(自分自身)に対する罪悪感から、母親エネルギーを外に漏らさないように、これからは、きちんと人から対価を受け取ろうと思います。また、他人を母親のように利用しようとしたり、タダでお話を聞いてくれるお母さん扱いしないようにしたいものです。自分の世話は他人にやらせないで、自分でするんだよ!以上です..........