両親の性質が紛れもなく、私のもので、私がやったことが、全て我が身に返っているだけである、ということを。私の前世の行いが、因果や業となって、今世降り掛かっているに過ぎない、ということを。スピリチュアルな話で、信じられない方の方が多いと存じますが、私なりの考えを書き残しておきたいと思います。


まず、現時点で予測できる、私の前世。中国の宋という時代で、全盛期の科挙を受験していた男性だと思われます。科挙というのは表向き、どんな出自の者であってもチャンスは平等、と銘打っていますが、実際は裕福で、働かなくとも生活が保証され、身の回りのことを召使いにさせられ、高額な教材費や家庭教師の雇用といった、教育資源を数十年に渡り注ぎ続けられるような有力な家庭から、合格者が排出されました。

そう考えれば、科挙を受け続けることができるほど、私は富貴な家系に生まれたのでしょう。権力欲が激しく、世間知らずで、驕り高ぶった人間性は、こうした背景から養われたのだと思うのです。自分で言うのも自惚れているとは思いますが、日本に移住して一代目で、これだけの文章構成力があり、語彙も多いのは、やはり科挙を受験した経験がそうさせるのだと思います。まだ中国にいた小さな頃は、新聞に書いてある、ほとんど全ての文字を読むこともできました。この事も、前世の証明になると思います。


それにしても科挙というのは、本当に悪賢く、支配欲の強い人間が考えたシステムだな、と思います。科挙が暗記・詰め込みに特化しているのは、自分の頭で物事を考えられない、従順で、教えられたことに忠実に従うロボットを育て上げるためです。また、幼少期から家の中に籠って、長年外の世界に出ない、触れない、という環境でなければ合格することが難しい性質は、社会性を奪い、自立の芽を摘んで、男性性を去勢するためです。反乱でも起こされれば、困るのは皇室です。その絶対服従、強い支配というムチに対して、皇室が直接管轄しない範囲での強大な権力、富、名声というアメを与えることで、このシステムは1000年以上も続いたのだと、嘆かわしく思います。科挙に合格することを目的化させて、システムを維持したうえで、子供の頃から儒教という、封建的な思想を史上とする価値観を刷り込む、というやり方は、本当によくできていると思います。


現実とは不思議なもので、恐らくこれらのことを自覚するために、中国に関連した映画を、最近になって見る機会がありました。その中で描写される、基本的な中国の人々の価値観に触れることで、徐々に私がなぜあのようなことをしたのか、腑に落ちた感じがします。まず、中国人は、プライド、権力、伝統、社会的な目線、損得というものに、ものすごく敏感です。冗談ではなく、メンツというもののために命を投げ出せるし、権力というものが中国社会において、絶大な力を発揮します。自分より立場が下の人間をこき使ったり、徹底的にこき下ろして尊厳を奪うのは、それをしなければ侮られたり、より権力の強い者に蹂躙されるから、なのでしょう。非常に男性的ですが、強いオスが得て、弱いオスは養分になる、という自然の仕組みが、それを助長しています。残酷ですが、現実世界は、そういう仕組みになっているのです。弱いオスは結果、鬱憤を晴らすために、自分より弱いオスや、女子供から搾取して、元を取ろうとする。養父から虐待されていたことは、それらの背景から、かつて私が私の配偶者や、私の子孫にしていた仕打ちなのでしょう。


また、養父の反社会的行動について。まず、父親の性質とは、


自分の男性性が、自分や身内に与えたもの


自分が外の人々に与えたもの


自分の客観的な行動を映し出すもの


女性性 対 男性性の、「自分だけの世界」の中での、自分の男性性


のことだと考えます。発達心理学を学んで得た浅い知識ですが、子供が社会的な規範を自ら守れるようになる、自力で善悪の判断ができるようになるためには、感情を適切に感じ、感情に寄り添われる、という経験が必要不可欠であるそうです。確かに、私は心から湧き上がる感情というものを、感じたことがほとんどありません。説明もなく、頭ごなしに怒鳴られたり、ぶん殴られたりするような躾を受けました。なので、なぜこのルールに従わなければいけないのか?というのを考えもせず、与えられた厳しいルールにただ従う、という行動ばかりしていました。恐らく、私は感情を感じる代わりに、何かや誰かを罰して、責任追及をすることで、エネルギーを循環させていたのだと思います。また、何かを罰している最中は怒りの感情を感じられるので、心地好いのだと思います。私の男性性は、そもそも自分の感情が存在しないから、相手の感情が分からない。なので、悪いことをするから相手を罰するのだ、と合理化し、自分がされたように、相手を屈服させようとする。他人の感情を無視し、権利を軽視して、無理やり尊厳を奪うことに躊躇いがない。他人から利益を掠め取ることに良心の呵責がないのは、強いコントロールの見返りとなる恩恵を得るために、権力者に従う我慢を強いられた経験からでしょう。また、感情とは、母親との分離のことも指すので、感情を感じられないことで、誰かと自分の存在や、他人と自分の責任を切り離せない。家系代々それをやってきたので、常に自分ばかりが責められる、という経験をしている。なので、強い理不尽な責任追及を逃れるために、自分の責任であることでも、誰かのせいにし続ける。この性質も、私のものです。


養父の全てが、私の性質というわけではないと思うのですが、彼の言動は、私にそっくりなのです。尊大で高飛車な物言いをする所とか、自分の思い通りにならなければ人を怒って攻撃する所とか、些細な言葉尻や表現をとらえて、自分を攻撃している!と被害妄想する所とか。我ながらうんざりします。特別扱いを求めたり、意味もなく他人をモラハラ・攻撃する所も、恥ずかしながら、かつての私のものです。養父の反社会的行動や、感情的でヒステリックな性質、実行力がなく依頼心の強い性質は、かつて男性だった時の、私のものでしょう。私は感情が分からず、我慢したり、相手に我慢させてばかりいたので、本当の意味では善悪が分からず、権威に押さえつけられない環境の下では、自ら自分をコントロールできない。感情とコントロールは、相互作用です。自分が放った、強いコントロールのプラスエネルギーを受けた結果、自力で自分を制御する力を失って、誰かにコントロールされなければ、ルールやモラルを守れなくなっていたのです。私は小さな頃、命じられたり、怒鳴られたりしないと、提出物や宿題が絶望的に出せない子供でした。今は寛解していますが、反社会性人格障害は、かつての私の性質です。前世はそのようなどうしようもない人間で、今世はそれが矯正されただけ、という話だと思います。流石に、赤ん坊のように全てを他人に依存して、自分のやるべき事ですら子供に押し付けて、自分の思い通りにならなければ癇癪を起こすような人間性ではなかったと思いますが。できれば養父の性質が、自分のものではないと思いたいですが、今現れている現実を見る限り、これも私のものなのでしょう。


そして、母親からの干渉を受け続け、境界線を破られ、搾取され続けた、ということ。これも、私の病的な母性が、それを起こしていました。

私が母に、私の労力の全てを養分にされても、いまだに彼女を恨み切れないのは、彼女が私の罪悪感を煽っていたから、もっと正確に言えば、彼女が私の自己犠牲によって、私にサポートされることに甘えきっていたからです。また、彼女自身が、家族に養分にされ続けていた、ということも理由の1つです。彼女は私を愛しているから与えるのではなく、彼女の見返りのために、私が求めていないものを押し付ける所がありました。せっかくくれたものや、やってくれたことを受け取らないと申し訳ないので、私は罪悪感から、受け取る以外の選択肢がありませんでした。いつも頼りない男性ばかり引き寄せて、配偶者との関係が悪いので、子供に旦那役を求める。本来は、ただ与えられるべき子供による「甘やかし」を得るために、子供に必要以上に干渉して、甘やかす。自分が子供に「親代わりになってもらう」ために、始めは子供に尽くして、高額で貸し付ける。彼女はしつこくて要求がましく、私の言う事やする事が少しでも彼女の思い通りにならないと、激しく私を責めます。当時私は、母の労力に対して、自分が母を満足させられないことに、ものすごく大きな罪悪感を抱いていました。女性性に自信のない、愛情を餌にした母親の支配と、健気で犠牲的な子供の献身が、互いの境界線を曖昧にするのだと思います。何年も縋りつかれて、ベタベタと癒着されて、貸し付けられたものの対価を請求されて、私を彼女の一部であるかのように好き勝手使われて、本当にうんざりしていました。ママの面倒を死ぬまで見てね、私と一緒にずっと暮らしてね。と、5、6才の頃から言われ続けたので、母親の過剰な世話や癒着を変だ、とは思えませんでした。

大学生になると、母は私が外出することを嫌がりました。私が帰宅する度に、「どうせ男と会ってきたんだろ」「私を捨てて、男と一緒になるのね」「どんな男と会ってるか、分からないし」と、私を被害者意識を持って攻撃してきました。これが本当に気持ち悪くて、うんざりします。子供は自分のもの、自分を満足させる道具、と思っているのです。その都合の良い奴隷を、男に取られるのが嫌なのです。彼女はどこまでも、私を自分の一部として利用する気満々なのです。嫌な素振りをしたり、断ったりすると例外なく、「こんなにしてやったのに、恩知らず!」と逆切れします。この後は基本的に、罵倒が30分は続き、機嫌によっては暴力も振るわれます。これを20年近くやられているので、本当に疲弊しています。結局、私に干渉するのは、自分の世話が自分でできないから、自分の女性性に自信を持てないからなのです。子供と癒着するのは、子供を愛しているからではなく、自分がエネルギーを得るためでしかないのです。私の母もまた未熟であり、子供である私に、親を求めていたのです。


そして私の母性はまさに、そうでした。頼まれてもいないのに、誰かに尽くして、見返りを期待して怒っている。母子分離が未達成なので、誰かのことを、自分の延長だと思っている。自分が誰かの母親になる代わりに、誰かにも自分の母親になってもらう、という見返りを期待して、他人に干渉しているのです。母親というのは、自分の性質に限りなく近いもの、自分の女性性が、自分自身や自分の身内に与えたものを表すので、私と母は嫌になるほどそっくりです。私は恐らく自分の子供に、同じ仕打ちをしていたのでしょう。自分が身内に与えてばかりだから、子供からエネルギーをもらって、元を取ろうとする。謝ってもやった事は覆りませんが、本当に申し訳ない気持ちです。


しかし彼女の背景を考えれば、同情せざるを得ない部分があるのです。中国は分かりやすい男尊女卑の国です。女性は養分として男性に活用され、搾取される、そういった生き方しかできなかった時代が長いのです。母は女性として生きることで、人生を支配されたくなかったのか、男以上に男らしく生き、人一倍努力をする人でした。こういった表現をするのも変ですが、まるで武将のような人です。若い頃は教師をして、その貯金で搾取的な父親(私の祖父)に、大きな家を買い与えました。働き詰めで、私が生まれて間もなく、働かないアル中の旦那と離婚。日本に移住して手に職をつけたあと、再婚してから起業して、子供をもう2人産んだ人です。親や社会に、女性として生まれたことを否定されたから、女性である自分の女性性を否定し、男性から受け取れない。男性に頼ることは、同じ男性として、支配下に入ることそのものだからです。だから私(彼女自身。母子分離ができていないので、子供は自分と一心同体と見なす)だけに頼って、弱味を見せる。私の境界線を侵害して、私の一部を奪おうとする。母親が辛そうに働いているのを見るのは、子供ながらに悲しく、辛いことでした。私はそんな彼女を一生懸命サポートしましたが、それは母子癒着を助長していきます。結果的に私は、私の選択、考え方、嗜好、変えられない性質に干渉され、彼女に奪われることで、自分の責任を自分で適切に持つことができなくなりました。自分が自分でなくなる感覚を何度も味わい、本当に辛い思いをしましたが、これも家系の業として、受け止めていくしかありません。


彼女が女性性自体を否定しているから、女性として成長していく私の体に耐えられなかったのか、思春期に私の胸が大きくなって、大人用の下着が必要になっても、ブラジャーを買い与えることを嫌がりました。生理用品についても同じです。バイトを始めた高校生の頃は、自分の稼いだ金で買え、とよく言われていました。子供はほんの小さな頃から、そういった母親の潜在意識を敏感に感じ取り、母親を不幸にしている元凶である「女性」の自分を否定するようになります。私が小学4年生で初潮が来た時に、「止まれ!」と願ったことは、きっとこの事と無関係ではありません。その後半年間、生理は本当に止まりました。


私はつい最近まで、母と同じように、女性性を嫌っていました。女性性は搾取的で、境界線を尊重せず、相手を自分の一部だと思い込み、欲しくないものを押し付けて、一方的にエネルギーを奪うものだ、と。しかし、本来そうではないのです。エネルギーを奪われた女性は、不適切な女性性しか発揮できません。他人の境界線を尊重できなかったり、他人のものと自分のものを必要以上に共有しすぎて、相手と自分が同じであるかのように思い込んだり。また、相手が自分と同じでなければ、その相手を怒って責めたり。家系代々の思い込みで、極めて自己中心的な女性性しか知らなかったから、正しい女性性を発揮できなかった、というのもあると思います。


また、かつては男性性を一切発揮できない男性であった、というのも、女性性を許さず、男性性ばかりを鍛え上げてしまった要因の一つです。男らしくない自分の中の「男」が許せないし、その男が働かないので、女性である自分が、代わりに逞しい「男」になるしかないのです。私の場合、外の人達に与えたり、受け取ったりする「社会性」は未発達ですが、男性性がないわけではありません。男性性を外側に発揮できない、という状態なので、自分自身や身内には、過剰な男性性を発揮していたのだ、と思います。養父の躾が厳しかったり、全てが完璧にでなければ許されなかったことは、自分自身の男性性が、自分にそれを課していたからだと思うのです。

男性的な上下関係で全ての物事を測り、自分の負けや非を認めない。誰の役にも立てないことの現実逃避をするために、自分には無限の力があり、全てを思い通りにできると思い込む。自分が役に立てないことを自覚しているので、他人に自分が無能ではなく、有能であると証明して欲しくて、賞賛を求める。自分の無価値感を感じないために、有能な他人の価値を値引いて、自尊心を保っている。主観が存在せず、自分がどう見られるか、ということだけを気にして、相手の気持ちや立場を想像することができない。威厳を保つために、自分より弱い、格下だ、と認定した人間は、偉そうにこき使ってモラハラする。自尊心が低いので、自分の非を認められず、全ての責任を相手に当てこする。自己愛性人格障害というのは、自分の不完全性やマイナスを認められない、という病だと思います。かつての私は、誰がどう見ても自己愛性人格障害でした。


書いていて、我ながら鬼畜の所業だな、自分はこれほどまでにクズなのだな、と、複雑で辛い気持ちです。どう考えても一番辛いのは被害者だろ、お前は苦しんで死ね、という話なのですが、かつてやったことは覆りません。宇宙というのは完璧にできている、これは認めざるを得ません。


煮詰まったそれらの性質を解くために、私は海を渡って、性質の全く違う国へと送られてきたのでしょう。このような、事故物件のような人間は、誰とも関わるべきではない、という潜在意識からか、私は誰かに自分を知ってもらう、自己開示する、ということができません。このような人間と関わらせてしまうことが、その人にとって損失であることが、申し訳ないのです。プライドが高すぎることも、人と近づけない理由になっています。仲良くなるどころか、間違いなく嫌われるから。自分ですら自分のことを許せないのに、誰がこのような人間を受け入れられるというのでしょう?もうずっとずっと消えてしまいたいのに、業はそれをさせてくれません。一生自分を嫌いなまま、誰とも関わらないまま、誰にも幸せを与えないまま、死んでいくつもりはありませんが、自分のネガティブなイメージを消すことはできません。早く自分を許して、好きになりたい気持ちと、罪を償い続けて、自分を罰し続けたい気持ちの間で、日々揺れています。不眠症が何年も治らないのは、このことで葛藤しているからであるように思います。


書き疲れてきました。まとまりの無い文章で申し訳ありませんが、非常識で現実離れした人間の頭の中をアウトプットした結果、皆さんに何か得るものがあれば嬉しいです。