【法華経】

見宝塔品(第十一章)その8



「我が身が宝塔」と見る

妙法流布の行動者こそ宝塔



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【法華経と現代】

(自身を荘厳する「七宝」)


宝塔を飾る「七宝」も、私たち自身の生命にあるものです。


また、それ以外にありません。


大聖人は、阿仏房に「七宝」とは「聞」(もん)「信」(しん)「戒」(かい)「定」(じょう)「進」(しん)「捨」(しや)「慚」(ざん)であることを明かされています。


我が身の内なる宝です。
金・銀等の七宝が“世間,,の財宝であるのに対し、聞・信等の七宝は“出世間,,における財宝です。

この財宝だけは、死後にも、持っていける、「永遠の財宝」です。


この七宝は七法財と言われ、仏道修行のうえで不可欠の要件とされています。


まず、「聞」とは、聞こうとする求道心です。仏道修行の第一歩は「聞」から始まります。


「信」は信ずる力。以信代慧で、智慧も「信」から涌現する。また、人間と人間を結ぶのも「信」の力です。


「戒」は、本来、防非止悪(非を防ぎ悪を止む)の意味で、仏法の正しい軌道を、きちっと歩んでいくということです。自律の精神、正義の心とも言えます。


「定」は禅定、すなわち心を定め、雑念を払い、安定した境地に立つことです。「定」とは揺るぎなき不動の心、信念と言えるでしょう。


「進」は「精進」の意です。一生成仏と広宣流布をめざし、たゆみなく前進し、進歩する息吹です。


「捨」は、執着などを捨て去ること。小さなエゴを打ち破っていく勇気、大いなる理想への挑戦なども含まれます。


「慚」とは慚じることで、自分を見つめる謙虚な心を意味しています。


これらは全部、「信心」の二字に納まっています。


妙法を根本に、昼は太陽とともに働き、夜は月光とともに自分という人間を見つめて、また進歩していく。


そういう信心即生活こそが七宝に飾られているのです。これこそ本当の「豊かな人生」なのです。


これらの一つ一つは、信仰者だけでなく、万人にとって大切な「人間の条件」です。


信仰とは、最高に正しい人生を生きるということです。仏法の智慧は、最上の「人間学」です。


宝塔は人間の「生命」にあり、そう見ることは、一切の差別を超えて「人間の尊厳」を見ることです。


なぜならば、「生命」に序列はない。だれもが「生命」をもっている。男女の違いもない。貴賤上下の差別も一切ない。民族の違いもない。一切、平等です。


ゆえに、宝塔が立つとは「人間平等」の尊厳観が打ち立てられた、とも言えるのです。真実のヒューマニズムです。


「貴賤上下をえらばず」

「阿仏房御書」の一節の通りです。


他人を差別する人は、自分の尊厳をも傷つけているのです。他人を大切にすることによって、自らの宝塔も輝くのです。


「自他不二」の心です。不軽菩薩品(第二十章)のテーマになりそうな感じですが。先に進みすぎると、あとで困るかもしれませんね。


大事なテーマは、おしなべて法華経全体に貫かれているものです。

また、くわしく論じる機会があると思います。


【法華経】

見宝塔品(第十一章)その8