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さて、前回の人開会ですが、開いて言えば、すべての差異を一歩深い次元から乗り越えて、「皆、平等に尊貴なのだ」と示していくことに通じる。


たとえば冷戦時代、社会主義国への扉は凍てついた氷のように、また鉄のように閉ざされていた。


しかし、資本主義、社会主義のイデオロギーや社会体制の違いは違いとして、「皆、ともに人間ではないか」という次元で交流できないはずがない。


ある時、I先生が旧ソ連へ行かれた時も、「なぜ宗教者が宗教否定の国に行くのか」など、多くの非難がありましたが、先生の答えは明快でした。「そこに人間がいるからです」と。


これこそ現代における「人開会」ではないか、感動したことを思い出します。


その「人間次元での交流」というのが、具体的には文化・教育の交流なのです。これこそ法華経の実践です。


ロシアにも、すべての差異を超えて、人間よ人間に帰れ、と叫んだ文学者たちがいる。


たとえばトルストイであり、ドストエフスキーです。


ドストエフスキーは、ヴァロビヨヴァ博士と同じ、サンクトペテルブルク(旧レニングラード)の生まれです。


当時、知識人、いわゆるインテリたちは、ヨーロッパの思想に傾倒する「西欧派」と、国粋主義的な「スラヴ主義派」に分かれて、対立していた。


ドストエフスキーは彼らを、ともに、民衆から分離した「不幸な放浪者」と呼んだ。そして叫んだ。


「おお、わが国のスラヴ主義とか西欧主義とかいうものは、歴史的に必然なものであったとはいえ、要するに、すべて大きな誤解にすぎないのである」


「ロシア人の使命は、疑いもなく全ヨーロッパ的であり、全世界的である。真のロシア人になること、完全にロシア人になりきることは(この点をはっきり銘記していただきたい)、とりも直さず、すべての人々の同胞となることである」と。


「『人間』になりきれ」「そうすることによって、すべての人の友となれ」と呼びかけたのです。


ところで、五百弟子品と言えば、「衣裏珠の譬え」(「貧人繋珠の譬え」「衣裏繋珠の譬え」とも言う)を語らないわけにはいかない。


「衣裏珠の譬え」は、五百の弟子が、釈尊から授記されたあとに述べた「歓喜の証」です。


五百人の阿羅漢たちは、われを忘れるほどの喜びに満たされ、仏の足下にひざまずいて敬礼します。そして、自分たちが犯した過ち、つまり、阿羅漢の小さな智慧で満足し、如来の智慧を求めようとしなかったことを悔いて、自らを責めます。


その愚かな自分たちを、貧しい流浪の人、に譬えて語ったのが、「衣裏珠の譬え」です。


ある貧しい男が親友の家に行って、ごちそうになり、酒に酔いつぶれて寝てしまった。


この時、その親友は公用で急遽、出かけなければならなくなった。そこで親友は、酔いつぶれいる友人の衣の裏に「無価の宝珠」、すなわち値段のつけられないほど高価な宝の玉を縫いつけて、出かけて行きました。


貧しい男は酔いつぶれて寝ていたために、そんなことはまったく知りません。目が覚めて起きてからも、あちこち他国を流浪します。


そのうちお金がなくなり、生活が苦しくなってきます。衣食のために働きますが、苦しさは変わりません。少しでもお金が入ると、それで満足していました。


やがて親友は、男に出会います。そのみすぼらしい姿を見て、男に言います。


「君は何と愚かなんだ。どうして、そんなに衣食に窮しているのか。私はあの時、君が安楽な生活ができるよう、また、欲しいものは何でも手に入るようにと思って、「無価の宝珠」を君の衣の裏に縫いつけておいたのです。今も、そのままあるではないか。それなのに、君はそのことを知らないで、ひどく苦労し、悩んでいる。まったく愚かだ」と。


貧しい男は、親友が教えてくれた宝珠を見て、大歓喜しました。


「無価の宝珠」とは何か。経文には「一切智の心」であり、「一切智の願」である、とあります。


一切智とは仏の智慧です。つまり、「無価の宝珠」とは、「仏の智慧を求める心」であり、「成仏を願う心」です。


この心は、化城喩品で説かれているように、三千塵点劫の昔に、菩薩であった釈尊から法華経を聞いて植えつけられたものです。


それがかつて親友によって衣の裏に宝珠が縫いつけられたということです。


親友とは、言うまでとなく釈尊です。


貧しいまま流浪し、その日暮らしに満足している姿は、小乗の教えを学び、阿羅漢の悟りに満足して、仏の智慧を求めようとしない声聞の境涯を表しています。


また、親友とふたたび会って、無価の宝珠のことを知らされるのは、今、釈尊から法華経を聞いたことにあたります。


すなわち、今、法華経を聞くことによって、三千塵点劫の昔に起こした、成仏を願う「本願」を思い出したのです。


「本来の自分」に戻ったのです。それが「声聞の目覚め」です。無明の酔いから覚めたのです。


キーワードは「思い出す」です。自分の原点に帰ることです。自身の生命の根源の法を自覚することです。「汝自身に帰れ」ということです。


それを「忘れさせる」のが「無明」の酔いです。天台大師が、この酔いについて重い場合と軽い場合があるとしています。


重酔と軽酔です。重酔は、まったく覚えていない状態です。いわゆる泥酔と言えるでしょう。


軽酔は、かすかに醒めているのですが、その後、忘れてしまう状態としています。


酔いの程度に違いはあるにしても、覚えていないことには変わりがない。それが無明なのです。心が無明に覆われているために、自分の生命のすばらしさが分からないのです。


酔いと無明、お酒の好きな人には、なるほどと、うなずける譬えかもしれません。


酔っている人は、自分が酔っていることを、なかなか認めませんし。起こすのも大変です。


大聖人は「御義口伝」で「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時無明の酒醒めたり」と仰せです。


題目をあげたときの爽快さは、生命が無明の酔いから醒める喜びです。


経文には「貧人は此の珠を見て 其の心は大いに歓喜し」とあります。この経文について大聖人は、「御義口伝」で「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せです。


五百弟子品では「深心の本願」と表現されているが、要するに全人類を救っていこうという「大願」です。この「大願」を思い出したのです。


大聖人は「大願とは法華弘通なり」と仰せです。この「大願に立つ」ことが、「宝珠を見つける」ということなのです。


「無価の宝珠」というと、なんとなく、何でも願いが叶う「打ち出の小槌」のようなイメージです。


大願に生きることによって、他のすべての願いが叶うのです。


T先生は、ある会合で、信心の功徳に満ちあふれた体験発表を喜ばれたあとで、「さきほどの体験にあるような功徳は功徳のなかには入りません。私の受けた功徳をこの講堂一杯とすれば、ほんの指一本ぐらいにしかあたりません」と、もっともっと大功徳を受けなさいと言われていた。


T先生は、妙法の不可思議の大功徳を、生命で実感しておられた。その大功徳を、全人類に一人残らず、ひとしく実感させたかったのです。その慈愛を痛いほど感じました。


そのためにも、広宣流布の大願に生きよ、と叫ばれたのです。広宣流布へ働くことによって大功徳を受けさせるために、そう言われたのです。広宣流布に働くことは、他のだれのためよりも、「自分のため」なのです。


【法華経】

五百弟子授記品(第八章)

授学無学人記品(第九章)5


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