【立正安国】下

人類の平和と幸福が
日蓮仏法の目的



    


一人ひとりの内なる「生命変革」によって、社会の繁栄を追求する「立正安国」の考え方こそ、民衆の幸福を実現する確実な道筋だと実感します。


こんにち、ますます「立正安国」の重要性が、増しているのではないでしょうか。

「安国」の「国」とは。


「国」を考えるうえで大事な事が二点あると仰せです。


一つは、国といっても、日本一国ではありません。


「全世界」を指しています。


「全世界の民衆の幸福」が「安国」の内容なのです。


二つ目は、権力者・為政者の為の国家ではなく、民衆中心の国という意味です。


日蓮大聖人直筆の「立正安国論」では、「安国」の「国」の字のほとんどが「囗」の中に「民」という文字が使われています。


「王」が領土の中に居る事を意味するのが「国」。


それに対して、大聖人の用いられた「囗」の中に「民」は、「民衆が生活する場」という意味です。


ここから、大聖人が「民衆中心」に国をとらえられている事が分かります。


大聖人は、一貫して「民衆中心」「民衆根本」です。


それは、権力者は、民衆に支えられてこそあるからです。


「王は民を親とする」と仰せです。


更に言えば、為政者には民衆の幸福を実現する責任があります


政治も経済も文化も、その根本の目的は「民衆の幸福」にあるはずです。


元々、為政者の存在は「万民の手足」とも仰せです。


現代で言えば、民衆の公僕です


「国王となりながら、民衆の嘆きを知らない者は悪道に堕ちる」とまで言われてもいます。


大聖人の「立正安国」の考え方は当時の日本の宗教事情から言っても、画期的な思想です。

当時の宗教は、政治と癒着し、国家から保護され、権力の安泰のために祈っていたのですから


大聖人は、そうした民衆を苦しめる宗教と戦い抜かれたのです


どこまでも、民衆の幸福のために宗教はある、という考えなのです。

実際に、大聖人の側から為政者に保護を求めた事はありません


また、安国論で為政者に戦争の危機を予言したのも、戦争で一番苦しむのが庶民だからです。


安国論には「他国から敵が攻めてきて侵略し、国内に内乱が起きて土地が略奪されるならば、どうして驚かないでいられようか。どうして騒がないでいられようか。国を失い、家が滅びてしまったなら、いったいどこに逃れることができるだろうか」とも仰せです。


だからこそ、大聖人は為政者に「生命観の歪み」を正すように諫められたのです。


民衆を救わずにはいられない、そのやむにやまれぬ願いが伝わってきます。

民衆の幸福と、社会の平和と繁栄の為に行動するところに、仏法の魂はあります。


「一身の安泰を願うならば、まず世界の平和を祈るべきである」と大聖人は仰せです。

「人間への尊敬」「生命尊厳」という日蓮仏法の理念を掲げ、「善」の実現のために庶民の連帯を広げる民衆こそ、仏法の正統なのです。


「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」ここに日蓮仏法の結論があります。

それでは、この「立正安国」の「国」を、どのようにとらえるか。

平和と文化と教育の繁栄を、全世界にもたらす、ここに「立正安国」の精神があるのです。

【立正安国】下

人類の平和と幸福が
日蓮仏法の目的