【義浄房御書】
「心の師」となる
粉動されない自己をつくれ
御書
相構(あいかま)へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからず仏は記(しる)し給(たま)ひしなり
通解
よくよく心して、わが心に対する師とはなっても、自分の心を師としてはならない、と釈尊は(六波羅蜜に)記されている。
文永10年(1273年)5月28日、日蓮大聖人が52歳の時、佐渡の一谷で認められ、安房国(現在の千葉県)の清澄寺の義浄房に与えられました。
義浄房は、浄顕房と共に、大聖人の修行時代の兄弟子である。
本抄は、義浄房からの、法門についての質問に対する御返事です。
結びには、不惜身命の決意で仏道修行に邁進するよう、綴られています。
自分の弱い心に負けてしまうか。
それとも、その弱さに打ち勝って、信念の道を歩み通すか。
人生は、この一点で大きく変わってくる。
自分のわがままな心や、臆病な心に従って、一喜一憂するのが「心を師とする」生き方である。
人の心ほど、移ろいやすいものはない。
大聖人は「人の心は時に随(したが)って移り物の性(しょう)は境(きょう)に依(よ)って改(あらた)まる」と仰せです。
ゆえに「心を師とする」生き方では、人生に勝利する事は出来ない。
自らが自身の「心の師」となり、何事にも粉動されない自分自身をつくらなければならない。
その為に不可欠なのが、正しい信心を教えてくれる「師匠」の存在である。
日蓮大聖人が末法時代の「師匠」にあたります。
様々な闘争の中で、いかなる苦難にも動じない、確固たる自己を築いて行く事が出来る様にと、お題目を残して下さいました。
「心の師」となる
粉動されない自己をつくれ