【冥益と顕益】
崩れない「幸福境涯」
を築く為の信仰
御本尊の功力には限り無い力がある事を学びました。
ただ祈りにも、直ぐ叶う祈りと、長い目で叶う祈りがあるということ。
ここでは、それを考える事から始めましょう。
結論から言えば、目に見える結果として現れていなくても、生命の奥底では仏性(=仏の元々の性質)が働き、厳然と「利益」を得ているのです。
この事を「冥益」と言います。
「冥」とは「目に見えない」「奥深い所」という意味です。
これに対して、先ほど学んだ「目に見えて」現せる功徳を「顕益」と言います。
「顕」は「あらわれる」と読みます。
「はっきり分かる」功徳が顕益です。
冥益の一例を挙げれば、信心を十年、二十年と、真面目に続けた結果、ちょっとやそっとの悩みに負けない「強い自分」に成長できる事です。
病気を例えにすれば、今、現在、かかっている病気が治れば顕益、病弱な体が強い体になる事が冥益と言えます。
すぐに生活には現れてこないのが冥益、ということになります
御本尊を疑わず、信心を貫けば、必ず得られる根本の利益です
先ほどの例で言えば、「強い自分」になれることです。
長年、信心を続けてきて、健康になり、経済的に何不自由ない生活を実現したという人は数多くいます。
自分を内面から向上させるとともに、自身の置かれた境遇も改善させているのです。
この場合、長い時間で見てみれば、祈りは必ず叶っているはずです。
自分の内面を良くしていける事が、根本的な利益なのです。
悩みに振り回されていた人が、生命力を強くして、その悩みを悠々と乗り越えて行けるようになる。
その強い生命力を知らず知らずのうちに得ていた事が本質的な利益です。
御書には「功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今(しょせんいま)日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり」とあります。
「六根清浄」とは、私達の生命全体が浄化される事です。
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意、すなわち外界を認識する感覚器官であり、「根」とは、その感覚器官が持っている能力を意味します。
つまり、六根清浄とは、六根の本来もっている能力が、最大限に発揮される事です。
生命の濁り、汚れを取り除けば、「ありのままの生命」に具わる勇気と智慧を、いくらでも発揮して行く事が出来るのです。
「仏の境涯」を開くという事です。
信仰によって、生命力と智慧を涌現し、人格を磨き、自らを人間革命して、崩れざる幸福境涯を築いて行く。
それが、私たちの冥益です。
日蓮大聖人は、先の御文のすぐ後で、「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」と仰せです。
不幸のもとである生命の悪を滅し、幸福のもとである善の生命を生じる事---これが、これ以上ない「功徳」なのです。
日蓮大聖人の仏法の目的は、万人の成仏のために、妙法を、地域に、世界に弘める事です。
妙法によって、人々を迷わせる生命の根源の「悪」を滅して行く、すなわち克服して行く事が出来ます。
自身を人間革命し、何ものにも左右されない「幸福境涯」を開いていける。
社会で出世しても、激しい変化で転落する人もいる。
最後に勝つのが、真の勝利者であり。
木の成長は、毎日見ていてもわからない。しかし、五年、十年たてば、その成長は歴然である
それと同じ様に、目には見えないが、広宣流布の為に勇んで行動すれば、必ず最高の生命となり、永遠の幸福を勝ち取っていける。
これが冥益である。
一生のうちに、揺るぎない幸福の人生を築く事が出来るのです
【冥益と顕益】
崩れない「幸福境涯」
を築く為の信仰