開陽丸の発注は、幕府にとっても一大決心であるに違いなかった。

アヘン戦争に負け、列強に屈した清国の二の舞を避ける為、最強の軍艦を造ろうとした。

 

 

権威に陰りが出始めた幕府だが、まだ上層部には賢明な行政者が多数居た。彼らはこの巨大プロジェクトを、単なる軍艦購入に済ませることなく、有能な人材の教育の場にしようとした。

 

 

内田恒次郎を団長として15名の留学生がオランダに派遣された。榎本武揚は副団長格だった。15名の内訳は軍艦運用の士官級5名、国際法など習得目的の学者2名、操船、砲術、保守など現場技術の習得6名、と蘭学医2名であった。

 

 

40代が一人だけいたが、他は20代から30代半ばの英才集団であった。士官級の多くは、昌平坂学問所や海軍伝習所で学んだ当時の超優秀エリートだ。

 

 

内田が団長となったのは、榎本より禄高の高い直参旗本であったこと。この辺りは格式が重視された幕府の使節なので仕方ない。しかし、ここに法学者や蘭学医までをメンバーに加えた見識は凄い。

 

 

榎本の話はこれからも続けるので、内田のことを簡単に述べておく。彼は帰国後、軍艦頭となり幕府海軍の陸上勤務の長となるが、維新後は職を辞して野に降りた。

 

 

しかし後に明治政府から請われて、海外見聞や広範な知識を大学で教えた。多くの著作を残し、世界を判り易く著した「輿地誌略」は、「学問のすすめ」と並ぶ啓蒙書としてベストセラーになった。

 

 

もう一人、澤 太郎左衛門の話も簡単に。彼は海軍伝習所で榎本と同期(2期)である。オランダでは大砲や火薬の研究をすることになっていたが、火薬製造は各国の最高軍事機密で公開はされてなかった。

 

 

彼はオランダでの習得を断念し、隣国ベルギーの火薬製造工場に作業員として潜入し永年現場で働いた。ここで作業長と昵懇となり機密事項を収集することが出来た。

 

 

士分のエリートが現場で油まみれになり、一作業員として働くには大きな覚悟がいった筈。お陰で日本は最新の火薬製造技術を入手し、日清、日露戦争で勝利することができた。

 

 

彼は榎本と生涯コンビを組んで幕末、明治を生き抜いた。開陽丸で帰国後は榎本が艦長、澤が副艦長として幕府海軍の第一線に付いた。既に幕末の混乱期で、朝廷の大勢が倒幕に固まりつつあった。

 

 

鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、大阪城にいた徳川慶喜は朝敵となることを嫌って側近のみ連れて停泊中の開陽丸に逃げ込んできた。榎本が不在だった為、澤が慶喜を江戸へ送り届けることになった。

 

 

戦力的に優勢であった幕府側だが、将軍が戦意喪失し謹慎したことで戦いにならず敗走を続けた。幕府海軍の旗艦であった開陽丸も戦うことを許されず、品川沖に留まるしかなかった。

 

 

戊辰戦争の末期に開陽丸は品川を脱出し、函館を目指した。航海途中の暴風雨でマストが折れ、舵も破損し満足な航行が出来なくなった。海戦での活躍も無く、最後は真冬の大時化で江刺沖に沈没した。

 

 

澤は艦長として函館戦争を戦ったが、敗れて首謀者の一人として榎本と共に2年間獄に繋がれた。

 

その後放免され、請われて海軍兵学校の教授となり、砲術を中心に後進の指導をした。

 

 

温厚な性格で義侠心があり、幕末に散った仲間を弔いながら、奢ることなく65歳の波乱の生涯を終えた。

 

 

続く。