―――アキ君はもうアメリカに着いたかな?
 
 アシスタントの仕事を終えて家へと歩いている私。
 夕暮れにさしかかった空を見上げながら、彼を思う。

 そこでお腹がぐぅ、と鳴った。


―――私って色気ないなぁ。

 くすっと笑う。



 夕飯は何を作ろうかと考えていたら、不意に声をかけられた。

「……チカちゃん」
 ためらいがちに私の名前を呼ぶ声。
 振り返ると、アキ君の叔母様が立っていた。


“あ、ごぶさたしてますっ”
 手話で語りかけてから、あわてて頭を下げる。
「ほんとに久しぶりね。すっかり大人っぽくなって、見違えたわ」
“いえ、そんなっ”  
 小さく首を横に振った。
 数年ぶりに会った叔母様は私の記憶にある通りで、変わらずお元気そう。
 でも、私を見る瞳がこれまでに知っているものとは少し違う気がする。


―――具合でも悪いのかな?


 直感が“違う”と告げている。
 叔母様の表情からすると、何か他の理由がありそうだ。
 気のせいかもしれないけど、待ち伏せをされていた感じもするし。

 あれこれ考えていると、叔母様が口を開いた。
「少し、時間あるかしら?話があるの」
 口調は優しいのに、有無を言わせぬ強さがある。
 私はうなずくしかなかった。





 近くの喫茶店で向かい合わせに座る。


―――いったい、何だろう。


 一人暮らしを始めてから、アキ君の家には遊びに行かなくなった。
 それ以来の対面。
 私の前にいる叔母様は、いつもと同じく柔らかい表情をしている。
 だけど、どこか思いつめた感じで、瞳の奥に影が見える。


―――いいお話じゃなさそうだな。


 どんな話をされるのかドキドキしながら待っている私。
 なのに、叔母様は前に置かれたコーヒーカップを凝視したまま。

 ただ、沈黙が流れる。


 私は叔母様の視線の先に手を伸ばした。
“アキ君になにかあったんですか?”
 なかなか話し出さない叔母様に尋ねてみた。
 私の手話に気付いた叔母様は、ハッと我に返る。
「あっ、ごめんなさいね。誘っておきながら黙ってしまって」
“いいえ”
「晃君は元気よ。無事に着いたって連絡があったから」
 ニコッと微笑むその表情がぎこちない。
 私はなんとなく悟った。


―――アキ君のことで、私に話があるんだ。


 これまでに会おうと思えばいくらでも会えたはず。
 なのに、彼の出張を見計らって声をかけてくるなんて、そうとしか考えられない。


―――アキ君がいないうちに、私と話がしたかったんだ。


 ものすごくいやな予感に襲われ、私は落ち着こうとして、紅茶の入ったカップに手を伸ばす。
 その手は小刻みに震えていた。




 カップを落とさないように、ゆっくりとソーサーに戻して一息つく。
 そのタイミングで、叔母様が口を開いた。


「晃君と別れてちょうだい」




 俺達は仲直りした。
 ま、ケンカしたと言っても俺の一方的な身勝手だったんだけど。

 それからはずっと穏やかに過ごしている。


 25歳を過ぎたあたりから、俺は結婚を少しずつ意識し始めた。
 もちろん相手はチカだ。

 チカといると気持ちが落ち着いて、心が癒される。
 特別に何かをしなくていい。
 他に何もいらない。

 ただ、チカと2人でいる時間があれば、俺はそれだけで幸せになれる。




 休みの日は2年前から一人暮らしをしているチカの部屋でゆっくりするのが近頃の定番。
 一緒にテレビを見たり、他愛もない話をしたり。
 腹が減ればチカの手料理を味わう。

 さっきからいそいそと料理に励むチカの後姿を眺めて、一人ニヤけている俺。

“アキ君、何で笑ってるの?”

 出来上がった料理を運んできたチカが首をかしげている。

「エプロンして料理作ってるチカって、なんだか奥さんみたい。台所に立っている様子がサマになっててさ」

“そう?”

「こうしてると、俺達新婚みたいだな」

“もう、何言ってんの”

 チカは照れているけど、その顔は嬉しそうだ。

 いつの日か。
 そう遠くない未来に、俺達は本当の『夫婦』になるんだろうな。





 ある日、仕事から帰ると、珍しく叔父さんの方が先に帰っていた。
「あれ?叔父さん、今日は早いんだね」
 養子になって数年経つけど、つい『叔父さん』、『叔母さん』と呼んでしまう。

 本当は『お義父さん』『お義母さん』と呼ぶべきなんだとは分かっているけれど、長年のクセが抜けない。テレもあるし。
 いつかはきちんと呼べるようになるといいなと思ってる。


「ああ。晃に大事な話があってな」
 リビングのソファーに座って俺を待っていた叔父さんが、なにやら楽しそうに言う。
「話?」
 俺はスーツの上着を脱いで、叔父さんの向かいの席に腰を下ろす。
「晃君、お帰りなさい。待ってたのよ」 
 叔母さんがコーヒーを運んできて、俺達の前に置く。そして叔父さんの横に座った。

―――待ってた?今日はなんか大事な日だったかなぁ。

 話の内容はぜんぜん見当が付かない。
 でも、2人の顔は明るくて、イヤな話ではなさそうだ。

 コーヒーを一口飲んで叔父さんの顔を見る。
 叔父さんは自分の横に置いていた、大きくて白い2つ折のものを俺の前へと滑らせてくる。
「なに?」
「いいから、中を見てみろ」
 言われた通りに開いてみると、そこには艶やかな着物に身を包んだ女性の写真があった。
 にっこりと微笑むその人は、俺と大して年が変わらないだろう。
「あ、あの、これ……」
 写真から視線を上げた俺は、少し戸惑い気味に叔父さんを見る。
「見合い写真だ。もちろん、お前のな」
 叔父さんがにっこりと笑う。
「俺に!?」

 この写真が見合い写真だってことは、誰だって分かる。
 ただ俺が戸惑っているのは、『どうして俺に見合いをさせるのか?』という、2人の真意が測れないからだ。

 軽くパニックになっていると、叔母さんがウキウキと話し始める。 
「そのお嬢さんは私の古くからのお友達の娘さんでね。お名前は“由香里さん”と言うのよ。小さな頃から良く知ってて、すごく気立てが良くてしっかり者で、晃君をしっかりと支えてくれるはずよ」
 叔母さんの横でうんうん、とうなずいている叔父さん。
 叔父さんはその女性について、事前に話を聞いていたらしい。
 だからこそ俺にこの写真を勧めてきたんだろう。

「語学が堪能な方らしい。英語はもちろん、中国語やイタリア語、フランス語も話せるそうだ。うちのホテルは海外進出もしているから、社長婦人としてうってつけじゃないか」
「晃君と由香里さんなら、私たちが引退しても安心よね」
 俺をそっちのけにして、叔父さんと叔母さんが盛り上がっている。

「ちょっと待ってよ!」
 あわてて2人に割り込んだ。
「どうした晃?」
「とっても綺麗なお嬢さんでしょ。晃君にお似合いよ」
「まあ、綺麗だとは思うけど……」
 あいまいに返事をする俺に、叔父さんは小さく笑う。
「ああ、写真だけじゃよく分からんか。やはり実物じゃないとな」
「それなら会う段取りをつけましょ。明日にでも、あちらに電話するわ」
「あ、だから!待ってってば!」
 再び話を進めてしまう2人を止めた。

 きょとんとした2人が俺を見ている。
「何か、都合が悪いのか?確かに仕事は立て込んでいるが、そう無理でもあるまい」
「会って、お食事するだけだもの。仕事に影響するほど時間はとらせないわ、大丈夫よ」
「そうじゃない。仕事とか時間の都合じゃなくて、俺に見合いは必要ないってこと」
 俺は静かに閉じた写真を押し戻す。
「こんなに素敵なお嬢さんを何で断るんだ?……もしかして、すでに結婚を考えている女性がいるのか?」
「晃君、そうなの?」
 尋ねられて、俺は正直に大きくうなずく。
「あ、あら、そうだったの?ごめんなさいね、勝手に話を進めちゃって。晃君たら、あまり彼女の話をしないから、てっきり一人身かと思ってたのよ」
 叔母さんが苦笑いをしながら、写真を手元に引き寄せる。
「いや、別にいいよ」
 俺も苦笑いを返す。
「それで、晃。お前の今の彼女は、どんな人だ?」
 叔父さんが興味津々で身を乗り出してくる。

―――は?『今の』って、どういうことだ?

 叔父さんの発言と行動に、俺は首をひねった。
 そこへ叔母さんが追い討ちをかける。
「もう、何で紹介してくれなかったのよ。もちろん、すぐに会わせてくれるわよね?」

―――え?

 俺は2人が言っている意味が分からなかった。

―――叔父さんも叔母さんも、何を言ってるんだ?俺の彼女は今までずっと1人だけなのに。

「改まって会わせる必要はないと思うけど……。あ、正式に婚約者として連れてきたほうがいいってこと?」
 今度は叔父さんと叔母さんが首をかしげる。
「会わせる必要がないってどういうことだ?」
「そうよ。これから家族になるんだから、最初の顔合わせは肝心よ。どんなお嬢さんか知らなければ、うまくやっていけないじゃないの」
 ますます話がかみ合わない。

―――この2人は冗談を言ってるのか……?

「だって、もう知ってるだろ」
 俺が苦笑しながらそう言うと、叔父さんと叔母さんの動きが止まった。
「え……?」
 何かとんでもない事を聞いたかのように、二人の表情が固まる。
「顔合わせも何も、チカのことは知ってるだろ。まったく、何言ってんだよ」
 俺はソファーの背にドサリともたれて、口元を緩めてクスクスと笑った。
 それとは反対に、2人の顔がますます固くなる。
「……まだあの子と付き合っていたのか?」
 叔父さんはなぜか動揺し、その声は少し震えていた。
「別れたんじゃなかったの?!もう長いこと、この家に連れてきてないじゃない!」
 叔母さんの口調は、まるで『チカと今でも付き合っていることがウソであって欲しい』と言うような感じだ。

「別れてないよ。チカはずいぶん前から一人暮らしをしてるんだ。だからこの家に呼ばなくても、俺が行けばすむことだし」
 ちょうどチカのことが話題になったから、いい機会だとばかりに俺は話を切り出した。
「いずれチカと結婚するから。2、3年以内って考えてる」
 と言ったとたん、叔父さんがものすごい勢いで怒り出した。
「そんなのはダメだっ!!」
「……え?」
 あまりの語気の強さに俺はあっけにとられてしまう。
「あの子はお前の妻にふさわしくない。結婚なんて、絶対に駄目だ!!」
 テーブルにこぶしを打ち付ける。
 ダンッ、と音がして、載せてあるコーヒーカップがカチャカチャと揺れる。
 こんなに激しく怒りをあらわにする叔父さんを初めて見た。
「叔父さん、どうしたんだよ。何でそんなに怒ってるんだよ?」
 助けを求めて叔母さんに目を向けると、同じような表情をしていた。

「どうして……?俺達のこと、認めてくれていたんじゃないのか?」
 今度は俺の顔が固くなる。
「付きあいは認めたが、結婚は認めん。絶対にダメだ」
 はぁ、と苦いため息をつきながら叔父さんは首を横に振る。
「なんでだよっ!?初めてチカをつれてきた日も、それからも、彼女に良くしてくれていたじゃないか!!」
 俺は2人をにらみつけた。

 俺達の間に沈黙が流れる。



 少し経って、叔母さんが苦々しく口を開いた。。
「いずれ別れると思っていたのよ。学生の頃の恋愛なんて、その時の勢いみたいなものだから。大人になって冷静になれば、晃君は他の女性に目を向けるだろうって思っていたの。何一つ障害のない、健全な女性を好きになるだろうって」
「何だよ、それ……」
 初めて聞かされた2人の考えに愕然とする。
「だから、あなた達が付き合っている間くらいは仲良くしてあげようってことだったのよ。それがまさか、いまだに付き合っているなんて……」
 叔母さんは目を伏せて、眉をひそめた。
「じゃぁ、初めからチカのことは認めていなかったってこと?!俺達の結婚の可能性は、最初からなかったってこと?!」
「口の利けないあの子に、人前に立つ事が多いホテルの社長婦人は務まらんだろうよ」
 叔父さんが決定的なセリフを言った。






―――声が出ないから、チカとの結婚を認めないって言うのか?

 そんな理由で?
 それだけの理由で?

 俺は一つ息を吸って、淡々と言った。

「だったら俺、社長になれなくていい」
 ギョッと目をむいて、2人があわてる。
「あ、晃!お前、何を言ってるんだ!?」
「私たちは晃君が跡を継いでくれることが楽しみで、今まで頑張ってきたのよ!晃君だって、快く引き受けてくれたじゃない?」
「確かに、跡を継ぐ気があるって言ったよ。でもそれは、チカと別れるって意味じゃない。俺はチカ以外の人とは結婚しないからっ!!」
 テーブルにバンッ、と手をついて立ち上がる。
「晃っ!!」
「晃君っ!!」 
 2人が大声で呼び止めてくる。


 それを無視して、俺はリビングを出て行った。

ホテルを出て、今井さんは右に、俺は左へと進む。

―――チカに会いたい。

 素直にそう思った。

 会って、抱きしめたい。 
 そして謝りたい。

 時間は8時を過ぎたころ。まだチカは出勤前で、家にいるはず。

 俺は走り出した。
 


 駅からチカの家へと走りながら、俺は付き合いだした頃を思い出していた。


『チカだけが頑張ってもダメだし、俺だけが頑張ってもダメなんだ。2人で一緒に頑張らないとさ』

 自分からそう言ったのに、チカだけに頑張らせていたんだ。
 ホント、俺って甘ったれだな。

 自分で自分のほほを一発ぶん殴った。



 家のチャイムを押すと、奥からパタパタと足音が聞こえてきた。
「チカ!俺だよ!」
 扉が勢いよく開いて、顔を出したチカが目を丸くしている。

“アキ君!?急にどうしたの?”

「会いたくなったから」
 そう言って玄関の中にすべり込むと、ギュッと彼女を抱きしめた。
 突然現れた俺に、訳が分からなくなっているチカ。瞳を大きく開いて、オロオロとしている。

 俺は大きく息を吸い込んで、言った。
「チカ、ごめんな」

 メールを無視してごめん。
 『愛してる』と言って欲しいなんて、めちゃくちゃワガママでごめん。
 俺ばかりが愛情を欲しがってごめん。
 愛することを手抜きしてごめん。

「ごめんな……」
 何度も謝る。
 数え切れないほどごめんを繰り返し、抱き寄せていた腕の力を少し緩めて、チカを解放する。
 彼女は首をかしげて不思議そうな顔。
 どうして俺が謝っているのか、まるで分からないって表情だ。

 しばらくその格好で俺を見つめていたチカが、不意に微笑む。

“お仕事、忙しかったんでしょ?ご苦労様。私も会いたかった”

 優しい笑顔を浮かべて、そっと俺のほほに触れてくる。

“ここ、少し赤くなってるよ。大丈夫?”

 その手の平から体温以上のものが伝わってきた。
 何気ない仕草の中に、俺に対する“愛してる”が溢れている。

 今、この仕草だけじゃない。
 俺と付き合い始めてから、これまでもずっと、チカは視線や表情、仕草にありったけの“愛してる”を込めていたはずなんだ。

 分かっていたのに……。
 
 分かっていたかもしれないけど、いつの間にか慣れてしまっていて。『彼女の愛情を感じ取ることをサボってしまった』と、言うべきかもしれない。

―――自分が愛されたいなら、まず相手を愛さないと。

「愛してるよ、チカ」
 俺は改めて強く強く、彼女を抱きしめた。