親族に抱える身として、つくづくそう思う。
人間らしさの一部とみなすものが何によって形づくられているかを考えさせられるからだ。
それを当然のように持っている間は気づかない。
一つ一つ失っていく過程を目にして初めて発見するのだ。
例えば会話。
相手の言葉を受けて答えたり質問したりするには、直前に語られた内容をごく短い間、覚えている必要がある。
この短期記憶をなくすと言語のやりとりができず、同じ話を繰り返すようになる。
また、時間と空間の認知は、あらゆる行動の基本だ。
この能力が壊れる結果、居場所を探してさまようことになる。
「まるで暗い洞窟の中へはいっていくような気持ち」
認知症の前段階、MCI(軽度認知障害)を発症したころ、義母がぽつりと口にした言葉が忘れなれない。
その少し前まで医師として働いていた。
今がいつで、ここがどこか。
しだいにわからなくなる不安と孤独はいかばかりだったか。
幼い少女のようにおびえていた。
6年後、65歳以上の7人に一人が認知症を患うという。
その病の実相を社会はどれほど理解しているだろう。
単なるボケという誤解は減った。
一方で最近よく耳にする、認知症でも働ける、外に出ようという楽観的なスローガンも鵜呑みにはできない。
老いと共に誰もがなりうる病。
ここから深く思索を掘らねばなるまい。
2024年5月27日 『日経新聞 春秋』より